7 誘惑


【階候歴504年8月3日】


 ―――午前4時。

 一人の女が教会の扉を開いた。


 目は落ち窪み、頬はけ、骨と皮だけの指を組み、跪いた彼女は――真っ赤な口紅を塗りたくった口元を大きく弧に描き、笑顔のまま呟く。


「神父様、どうしていないのですか―――?」


 女は言う。


「どうして一緒に祈ってくださらなかったのですか?」

「どうして神様に願いを届けてくださらなかったのですか?」


「どうして」

「どうして」

「どうして」

「どうして」


「―――どうして、クリスは死ななければいけなかったの?」


 女は問う。


 愛する人との間に生まれた赤ちゃん。名前はクリス。女の子。

 旦那とよく似た顔で、笑うとえくぼが浮かび上がる可愛い子。


 クリスが3歳のとき、旦那が死んだ。酔っ払いの喧嘩を仲裁してたら、突き飛ばされて頭を強打したらしい。


 悲しかった。寂しかった。苦しかった。


 それでもクリスがいたから。

 一人になっても、この子だけは守ろう。強くなろう。


 わたくしの愛する子供。

 成長していくに連れて聡明で、優しい女の子になっていった。


 わたくしの宝。わたくしの全て。

 なのに―――クリスが10歳のとき、病気が見つかった。


 日に日に弱っていくクリス。

 お母さん、ごめんねと涙を流すクリス。

 医者はこぞって匙を投げ、諦める覚悟をしろと諭す。


 ―――もう、神頼みしかなかった。


 元々裕福ではないけれど、全財産をつぎ込んででも教会に祈りを捧げた。


 特にグリードという名前の神父様が祈ってくれた日は、なんとなくクリスの調子が良くなって―――神様はわたくしたちを、クリスを、見放してなどいなかったのだ。


 祈りは届く。


 きっと祈り続ければ、クリスはまた元気な姿で笑ってくれるのだと、そう信じていたのに。


「そうよ? 信じていたのよ? 神様は慈悲深い御方だから。きっと。きっと。きっと。なのに。どうして? どうしてなの? どうしてクリス、死んでしまったの?」


 夫も。

 娘も。

 もう―――誰もいなくなってしまった。


「嘘つき。神様は嘘つきだわ。助けてくださらなかった」


祈っても、願っても―――叶えてくださらなかった。


「神様はいない。神、なんて、そんなもの――――ッ!」


 懐から果物ナイフを取り出し、己の首へと添える。


 これは女の復讐だった。

 神に裏切られた、彼女の。

 せめて神を奉るこの教会を、血に染めることで。


「クリス。わたくしも、今行くわ。貴方を一人ぼっちになんてしないもの」

 ナイフを持つ手に力を込め――――



「死んじゃうの?」



 その声に、女は息を呑んだ。


「クリス……?」


 女の前に、一人の少女が立っている。

 それは間違いなく、娘クリスの姿だった。


「“クリス”?――ああ、あなたにはそう見えるんだ・・・・・・・・・・・・? 死んだ娘の姿に」


 少女はくすりと笑い、両手を広げる。

 それと同時にバサッ! と鳥が羽ばたくような音が聞こえ、少女の背中から黒い翼が生えた・・・・・・・



じゃあ・・・、―――――お母さん・・・・


クリスを生き返らせるために、お母さんの全てをちょうだい?」



女は涙を流しながら、頷いた。


 

 




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