エッセイ「普通に考えてみると(十四)」

@SyakujiiOusin

第1話

          普通に考えてみると(十四)


                              百神井応身



1.破れ鍋に綴蓋


 多少背伸びするくらいは必要ですが、自分のことを棚に上げて高望みしすぎるのは、後々よくないようです。

 自分を高める努力は必要で、それは自分にご褒美として返ってくるから、決して無駄にはなりませんが、見る人は見ているものです。


 破れ鍋に綴じ蓋とは、どんな人にも相応しい相手がいるという喩えで、何事においても、似通った者同士が良いのだという意味で使います。

 「綴じ蓋」というのは、壊れたところを修理した蓋のことですから、閉じ蓋とは違います。

 夫婦を鍋と蓋になぞらえ、壊れた鍋には修理の蓋くらいがつり合いが取れるということで使われます。



2.鳩が番でやって来る


 庭にパン屑やご飯粒を撒いておくと、キジバトのツガイがやってきます。

 雀は、親子でやってくる。

 どちらも結構仲が良い。


 ただ、どんな人かを見極めるるということができないのか、用心深い。

 いつまでたっても馴れないで、こちらが少しでも動くと逃げ去ってしまいます。

 餌を撒いて取って食おうなんてしてないのにネ。



3.琵琶茶を作って


 枇杷を庭木にするのは湿気を呼んでよくないと言われていたが、それでもそこらじゅうの庭で目に付くほど育てられていた。

 枇杷の幹を使って作る木刀は、折れないということで知られています。


 バラ科の植物である枇杷は、黄色い実を食べることは誰もが知っているが、その葉に薬効があることはインドでは古くから知られていて、昔から夏バテや食あたりの予防として、愛飲されていたといわれます。


 そんなビワの葉に含まれる成分には、アミグダリン、タンニン、サポニン、クエン酸、ブドウ糖などの有効成分があり、これらが相乗効果を発揮して疲労回復、利尿作用、糖尿病予防、アレルギーの改善など、さまざまな症状に効果を表わすと言われています。

 特にビワの種子と葉に含まれるアミグダリンは、「ビタミンB17」とも呼ばれ、ガン予防の効果も期待できるとして話題になっています。


 アミグダリンはアメリカをはじめ20カ国以上でガン治療薬として使われている(レートリル療法)といいます。

 アミグダリンは、ガン細胞に出会うと活発に分解して、青酸とベンツアルデヒドになる。

 青酸だけではガン細胞を1%しか殺せないし、ベンツアルデヒドだけでは20%しか殺せない。

 ところが、この2つの物質が組み合わさると、ガン細胞を全滅させることが確認されているのだそうです。

 一方、ガン細胞以外の正常な細胞に対しては、コーダネーゼという保護酵素が両物質を中和して、人体に無害で有益な物質に変えてしまうというからすごい。


 それはともかくとして、枇杷茶は癖がなく美味しいので、よく飲みます。

 作り方はいたって簡単です。

1.新芽ではない古いしっかりした葉を取り込む

2.葉の裏に細かい毛が生えていて汚れがついているので、水で綺麗に洗う

3.水を切って乾かしたら、1センチ角に切り、薬缶で煎じる

4.しばらくすると、紅茶色になるので、これを飲む。(この液体は肌荒れにつけてもよい。)



4.百日紅


 夏の陽射しの中に、これほど似合う花は少ないように思います。

 さるすべり ラジオのほかに 声も無し

 夏の昼下がりの気怠い光景が浮かんでくるような句で、私は好きです。

 中学校の国語の時間に学んで半世紀、忘れないでいます。


 百日紅。中国が原産だという夏を代表する花木の一つで、冬は落葉して幹と枝だけになります。日本にやってきた時代は不明ですが、大和本草(1708年)に載っているということですから、かなり昔だと考えられます。

 春に伸びた枝の先端に夏から秋にかけて花を咲かせますが、花色は白、ピンク、紅、紅紫などの種類があります。

 花後に球形や楕円形の果実をつけ、熟すとはじけてタネが散ります。

 樹皮は、滑らかな褐色で所々はがれて白い肌があらわれ、縞模様になりますが、樹皮のはがれた部分がつるつるしているところから、「猿も滑って落ちる→猿滑り」というのが、名前の由来とされています。

 「百日紅」という漢字が当てられている通り、とにかく開花期間が長い。



5.不安の中に居る


 それが何かは判然としないけれど、多くの人が不安の中にいる。

 激動の状況が生み出した歪みと考えることもできよう。

 時代の進展は暮らしを豊かにすると同時に価値観の変化をもたらし、それは次第に他者への思いやりを失わせ、翻っては自分に孤独感や疎外感、原因のわからないいらだちを常時抱えることにもつながった。それを補うには、沢山のお金が必要だと思い込むようにもなった。

 周囲との関係もぎくしゃくし、何をやっても思い通りにいかないという思いもあって、互いを疑惑の目でみるようにもなり、更に居心地の悪さを増すから、頼るのは周りを屈服させる力なのだと方向づける歪んだ考えを持つに至った人も多い。

 豊かさを求めることは悪いことではないが、何が大切なのかを見失うのであってはならない。

 心を満たすのは、目を自分自身に向けてみることで、良いも悪いも含め自分を理解することから始まる。

「自分のことは自分が一番知っている」と誰もがよく言うが、これほど不確かなものは少ない。自分が思っている自分と、周りが思っている自分には、愕然とするほどの隔たりがある。

 心の知能テスト(IQテスト)というのがあるからやってみるとよくわかる。

 自己や他者の感情を知覚し、自分の感情をコントロールする知能を知る手立てである。



6.不老長寿の桃


 曽我蕭白の日本画を、TVの番組で見ました。凄い迫力でした。

 日本画といえば、花鳥風月か山水が主な題材かと思っていましたが、仏画もあるのだと認識を新たにしました。

 洋画には、神話・宗教について知らないと解らない絵が沢山ありますが、日本画であっても同様なのだと思います。


 屏風絵だという絵の中に、西王母が描かれていました。

 昔の物語を読んでいると出てくるものに、「蓬莱山」と「崑崙山」があります。

双方とも仙境と呼ばれるところです。

 仙境と言われる場所は二つあり、東の蓬莱山と西の崑崙山です。

 この二つの山には、不老不死の薬があるのだと信じられていました。

 蓬莱山の主が、西王母ということになります。


 西王母は、玉皇大帝(ぎょっこうたいてい)という最高位の神様の夫人でもあり、長寿の神様です。

 3000年に一度しかならないという「蟠桃」が、長寿の秘薬ということであり、孫悟空が荒しに行ったのが、これです。



7.風潮の危うさ


 ファッションや芸能などの流行に乗ることであれば、さして問題ではない。

しかし、重要課題については、本来は自分で考えなければならないことなのに、マスコミやコメンテーターが言っているからということをもってして、感情にまかせて安易に同調してしまうのは避けたい。


 自分のエゴに馴染むところを突いてリードしようという思惑に、しらずしらず乗せられていることが多いのである。賛成しやすい論調になっている。

 しかも、自分の主義をあたかも国民の代表者のごとく言う人もいるから、心せねばならない。

 引きずられることなく、自分以外の人の立場や意見、そうすることのメリット・デメリットの比較は、できる限り自分でやらねばなるまい。

 そのようにしてみると、マスコミや政治家や宗教家のいうことには、どうしてそうなるかの思惑を伏せていることが多いのに気づかされる。



8.弁巧(べんこう)


 そろそろ初詣で賑わう。霊験あらたかな天狗さまが居る神社も多い。

 天狗といえば、神変大菩薩=役の行者=役の小角を連想してしまうのは、高尾山で見るからかも知れません。空を翔ぶばかりでなく予知能力もあったのだとか。


 友人リンクの川柳のなかに

 「予知不能 サイ(角はないらしい)の怒りの 時期と規模」というのがありました。


 皆様くれぐれも、サイ難に会わないようにお気をつけ下され。

 私なんぞは、最初から勝負にならないと痔核痛しおっと自覚致しておりますので、こうして未だに無事生きながらえているのであります。

 叶わぬ高望みをしちゃあなんねえですぜ。無事これ名馬(午年に因み)ということです。


 サイに角 無いはずもなし 口オマケ (AA)

 オマケの方が多かったりするから、おそろしゅうございます。


 そうそう、「勘考する」っていうのは、信州では熟考するというよりは「工夫する」というくらいの意味で良くつかいました。

 他には「あそこのムスメは、なかなか"ベンコウ"でおありるに。」っていうのもありました。

 漢字で書くと「弁巧」または「弁口」。口先がうまいということから発展して、オシャマとか小生意気くらいまでの意味で使われたように思います。

 便硬ではありません。



9.子守歌が流れてくる


 ピアニストである倅が、電気を消した隣の暗闇の部屋でピアノを弾いている。

 優しいメロディーの子守歌が流れてくる。


 ショパンは「子守歌」を1曲しか書いていない。

 1844年に作曲されたこの曲は、ピアノ演奏上の技法が凝らされた繊細な美しさを示す傑作で、左手の伴奏音型が殆ど変化せずに進行するが、流麗な4小節の主題が元となって変奏される旋律は、独奏的なあらゆる手法で彩られている。

 小品のようではあるが、そこに盛り込まれた作曲技法はどれもが正に絶妙であり、静かに心に浸みわたってくるのこの曲が好きです。


10.資源があるから?


 いつも目にしている世界地図を引っ繰り返して逆から見てみると、気づくことがあります。

 尖閣諸島は、資源が豊富だから争いのもとになっているように言われているが、その資源の開発には膨大な資金が必要であろうことは想像に難くない。

 しかし、地政学的にシーレーンの確保ということで見ると、重大な意味を持っているのに気づきます。

 だから我々の常識外とも思える南沙諸島までも囲い込もうとするのではないだろうか。


 日本は、過去にABCDラインにより封鎖されて開戦のやむなきに至ったという側面をもっています。

 C国は、海への出口を何としてでも確保したいのかも知れない。


 他人の物を欲しがらなくったって、争わず平和的な方法がいくらでもあるのに、そうしないのは何故なんだろう?



11.飼い犬の合唱


 「狩人の合唱」じゃなくって「飼い犬の合唱」。

 先ごろ信州の実家に立ち寄ったとき、有線放送から正午を知らせる音楽が流れてくるのにあわせ、庭からウォ~~ンと長くのばした犬の鳴き声がしてきました。

 「犬が鳴いてるの?」と尋ねると、「そうでありますのな。犬が合唱するんでありますに。」と嫂が笑う。

 「それでもなぁ、前は音楽が終わっても少時鳴いておいでたんだに。それでなぁ、いつまでも鳴いとっちゃぁいかんに!って犬に言ったんな。それからは、音楽が終わると鳴きやむようにおなりたんな。犬でも言葉がわかるんらかなぁ。」


 お犬さまに対してこの丁寧さ。イヤ参り申した。私なんぞは、ときにイヌチクショウなんて言いかねないっていうのに・・・。

 なんですと、「言葉遣いに気をつけましょうね」だって?

 

 犬に限らずペットを飼うと、家族同然になるといいますが、家族に対してぞんざいな物言いをしている人というのは多い。

 夫婦仲を長く良好に保っている家庭というのは、お互いが敬語とまではいかなくても、丁寧語で喋っているところが多いのだと聞いたことがあります。

 親しきなかにも礼儀あり、ということでありましょうか。



12.耳無し芳一


 アッハ~ンといろっぽい声をあげるほうの話しじゃなくて、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)のハーン。


 耳無芳一ってほど大袈裟な話ではないけれど、かなり前になるが、耳が痒かったので掻いていたところ、そこに傷がついたらしい。

 その場所がだんだん出っぱってきて、日を追うごとに大きくなる。

 格闘家がよくなるカリフラワーなんとかの小さなものかと思って放っておいたのだが、見場が悪いから倅が帰国して来る前にナントカして頂戴、と内のカミ様からのキツイお達しがあった。


 やむなくシブシブ医者に行った。

 たいそう流行っている医者らしく順番待ちが沢山いたので、予約してから改めて出なおした。

 「どうしました?」って優しそうな先生が聞くからそこを見せると、嬉しそうに 「ああ、これネ、電気メスで取っちゃいましょう。」とあっさり言い放たれた。

 ついでだから、顔にできたイボみたいなのも見せて「床屋かなんかで伝染ったらしいんですけど。」というと、「ああ、これは老化現象です。これは伝染りません。」いともあっさり老化だとのお告げが降されました。


 「じゃあこれも一緒に取っちゃいましょう。」と爽やかな声でいうから、「宜しくお願いします。」と丁重に頼んだ。

 少しだけ熱痛くて、少しだけ焦げ臭かった。

 素直なよい患者さんだったので、看護婦(いまは士っていわないといけないんだっけ)さんも皆親切でした。そんなわけで耳はとられないですみました。大袈裟なこと言うなって?



13.自然の中に身を置く


 自然の中にいると、目の前に写るもの以外に何も見えなくなることってありませんか。

 見ている自分も見えないから、誰が見ているものなのかもわからなくなります。

 そのうちに小鳥の囀りや吹き抜ける風とも一体化してしまいます。


 そんな状態で意識を解放してしばらくすると、全てのものは今ここにあるのだと思えるようになるから不思議です。

 そのうちに、宇宙の偉大なる存在にアクセスする方法も解るかも知れません。



14.自分が思っている通りのものに


 人は、成長に繋がる環境に身を置くと、ある日突然「別人のように生まれ変わる」ことがあります。

 それは、幕末から明治にかけて偉大な業績を残した人たちを見ても気づくように「類は類をもって集まる」ということもありますし、壺を得た仕事を見つけた時であったりします。


 生まれ変わった人は、今までとは全く違った景色を手に入れて、気づくと人生を大きく好転させてしまっています。

 解脱というか、蛹から蝶に羽化したような新しい自分になっているのです。


 現状を打破して「何としても人生を変えてみせる」と思い立つ人は多い。

 そう思って無我夢中で励むこともするから、ある程度の成功は修めるし、そこそこの収入を得ることもできます。

 将来に対する不安は殆ど無くなったように思える段階になると、それと同時に自分ひとりのためだけでは、どんどん頑張れなくなっている自分が出てきます。


 「今日は、なんかやる気が出ないな~。少しくらい手抜きをしてもいいか。」

 それまでと違って、どこかで怠けそうになる自分が出てくるのです。


 それは、当初に目指した段階に届いているわけではないのに起こります。

 行動を起こす時の『目的意識』が、不明確なためだったのかも知れませんが、体が疲れてしまっているからかもしれませんし、何らかの栄養素が切れてしまっていることによるのかも知れません。

 やる気が出ない時に無理を重ねると「鬱」にだってなりかねません。

 健全な肉体に、健全な精神は宿る。」のです。


 願いを叶えていくためには、メンタルがブレてしまうと、人はいとも簡単に行動を止めてしまう。

 ブレないメンタルを作り上げ持ち続けるためには、一息入れることも栄養バランスを見直してみることも、周りを見直してみることも必要です。

 そして、自分は自分以外の人のためにも全力を尽くそうと思っていることにも気づくことが必要です。

 「自分は、どんな人間なのか?」ということを考えてみると、自分が考えている自分と周りが見ている自分とに、大きな差があることに気づくものです。



15.自分にないもの


 今を去ること50数年前、中学校を卒業する時、担任の先生が最後のホームルームの時間に言った言葉を、今も覚えています。

 「君たちは、人の為になろうと思っているかも知れないが、その前に自分が満たされるように努力しなさい。自分に力がなかったら、人の為に何かすることなどできないのだから、まず自分のことを考えなさい。」

 まだみんな純粋だったし理想に燃えている頃だったから、随分ひどい餞の言葉だと思ったものでした。


 長じてから、自己研鑽のために読んだ成功法則の本にも、「まずは与えなさい」

「自分が欲しいと思うことを先に与えなさい」と書かれているのを読んだものです。

 これは素敵な考え方ですし、非常に尊いことだと思います。

 確かに、与えた後の隙間には、与えた以上のものが流れ込んできて、それに伴い器も大きくなるというのが真理ではありましょう。

 しかし、ここで一つ注意しなければいけないことがあります。

 多くの方が陥る「罠」があるのです。

 それは、自分が持ってもいないのに、周りの人に与えることは出来ないということです。それを無理すれば、自己も破滅することにもなりかねません。

 何でもかんでも自分だけで抱え込むばかりでは器は大きくならないにしても、自分の持っている器の中身が空っぽでは、どうにもなりません。

 どうしたって自分のことで精一杯になりますから、周りの人に与えるどころではないのです。

 それでも、善なる日本人の多くは、自分をどこか犠牲にして、「与えよう、与えよう」と頑張ってしまいがちになります。

 そうなると、頑張っても頑張っても「満たされない虚しさ」を、心のどこかで感じてしまいます。

 頑張るほどに満たされない」「与えるほどに満たされない」という状態は、善なる心を苦しめます。

 自分の器がいっぱいの状態だと、周りの人に「与えたい!」という気持ちが自然に湧いてくるのが人というものです。

 情けは他人の為ならず。周りの人に与えたものは、巡り巡って自分のところにも返ってきます。

 そのようにしてプラスの循環が生まれてくるのですから、先ず、与えられるものを作るということが必要だということになってきます。そこから始まります。



16.自分は大丈夫


 おれおれ詐欺は、年配者が被害に会うというから解らなくはないけれど、自分は絶対詐欺には引っかからないと思っている人が、意外や意外、被害を蒙ることが多いのだとか。

 なぜ、聡明であり知的であると自信を持っている人が、詐欺やカルトに簡単に操作されてしまうのでしょうか?

 なぜ、彼らは洗脳されていることに、いつまでも気付かないのでしょうか?

 自分に自信があるあまり、「自ら進んでその道を選んだのであり、判断に間違いはない。」と思い込んでいるということなのでしょうが、理論的にものを考えるという思考パターンは、その上を行く手法に対しては及ばないことが出てくる、ということなのかも知れません。

 論理的思考だけでなく、動物的勘の鋭い人は、直感的に嗅ぎ分けてしまうようです。


 極めて当然のことですが、人は誰でも自分が一番大事です。

 しかしながら、それが自己中心的になりすぎると、まわりへの配慮がおざなりになって、共感を得られる言動から遠ざかる。

 仕事で人を動かすことがある人は、そのあたりを考えないと、ものごとはうまく運ばない。わかる人には判ってしまうということでもありますが、その解る人というのが想像以上に多いのだということでもあります。


 人間が自分のことを第一に考えてしまうのは、刻み込まれた本能なのであって、どんな人格者であっても例外ではありません。その上で、自分ばかりではないというバランスを如何に涵養していくかということでありましょう。


 人を動かしたりする必要があるときは、その人のためになるような提案であることが大原則になるわけです。

 それをすることは、自分のためになる、と心から信じたとき、人は行動を起こし、物を買ったり説得に応じたりするのだと思うのです。



17.自分を許すこと


 自分が思っている自分と、周りが評価している自分とには、大きな違いが有るということを前に書きました。

 自分自身の心の器を満たしていくためには、「見たくない自分」と向き合う必要があります。

 何故、自分を見たくないかというと、薄々ながらでも嫌な自分があることを、自分でもわかっているからであります。

 でも、それを含めて自分なのですから、認めてしまい許してしまう作業はした方がよい。自分を許すことができれば、他人も許せるようになります。


 よく「自分に厳しく、他人には優しく。」ということが言われますが、それは嘘です。自分にすら優しくできない人が、他人に優しくできるわけがありません。

 自分のことを棚にあげないと、何もできなくなります。

 だからこそ、嫌な自分が現実にはいることを認識しておくことが必要です。

 「等身大の自分を受け入れる」ことが必要だということです。


 これをすることは、時に心の痛みを伴います。自分はもっと良い人だと、誰でも思っていることだからです。

 でも、それだからこそ、何が良いことなのかということを解っているのだということになります。

 それは、人を本当の意味で理解できる「受容力」の元になっていくものです。

 真に人と心が繋がるコミュニケーション力の核心の部分は、そんなところにありそうです。

 自分を許し人を許す。自分を愛し人を愛す。うまくいくのにはそれが基となるのだと思うのです。



18.釈迦の前世


 曽我蕭白の日本画に、雪山童子があります。釈迦の前世と言われていますが、女性と見紛うようなかなり不思議な絵です。

 雪童子(ゆきわらし)ではありませんから、何者を描いたのか知識が必要となります。

 説話というのは、こうです。

 遠い遠い昔、雪山に若い修行僧がいて、人々はその修行僧を雪山童子と呼んで尊敬してたのだといいます。

 あるとき帝釈天が、その雪山童子の修行の程を試さんとして、悪魔の姿に身を変え雪山童子の前に立ち「諸行無常、是生滅法」と唱えたのだそうです。

 諸行無常とは、ご存じの通り、一切の物事は常に移り変わり止む時が無いという意味であり、是生滅法とは万物はみな必ず亡びるという事であります。

 ところが、この悪魔の唱えた「諸行無常、是生滅法」の言葉を聞いた雪山童子は、その深遠な言葉に驚嘆し、悪魔に「今唱えた言葉の続きはありませんか。」と尋ねたのだそうです。

 悪魔は「いやそれに続いてあと二句ある」と答えたといいます。

 感じ入ってしまっている雪山童子は、どうしてもその後の語句を聞きたくて、是非教えてくれるように悪魔に頼み込みました。

 それに対し、悪魔は言いました。

「この尊い教えはわしが長い修行の末到達し得た悟りであるから、簡単には教えられぬ。わしは修行が過ぎて今食べるものがなく、今まさに餓死しようとしている。 もしわしがお前を今食べる事が出来れば、お前の血と肉でわしはこの先永遠に生き続ける事が出来ようというもの。この後の歌を聞きたいというのなら、替りにお前の血と肉をわしに捧げることができるか?」

 雪山童子は、即座に「解りました。私の肉体を貴方に捧げることをお約束致します。どうか続きの語句をご教示下さい。」と答えました。

「では教えてやろう。それは生滅滅己 寂滅為楽である。」

 生滅滅己とは生滅すなわち生き死になどの煩悩を自分の心から滅すれば、寂滅為楽、すなわち涅槃に入り、安らかになり悟りを開く事ができるという事であります。

 雪山童子はその言葉を聞くや歓喜した。

「諸行無常、是生滅法、生滅滅己、寂滅為楽」と何度も口ずさむと、この言葉を山中の木々の幹といわず、石といわず書き連ねました

「これで思い残す事はありません。後世の人はこれを読んで、きっと悟りを開くことが出来ることでしょう。さあ、何時にても私を食べて下さい。」

 すると、たちどころに、悪魔は本来の帝釈天の姿に戻り、こう言いました。

「貴方はゆくゆく必ず仏になって、衆生を救うことができるであろう。私は貴方の影となり貴方を守護しましょう。」と言い終えると、天に昇って行きました。


 完全な悟りを得ると仏と一体となり、もはや輪廻転生から逃れる事が出来る。

 しかし、悟りが完全でないと仏になる事は出来ず、如来、あるいは菩薩となって再び輪廻転生を繰り返さなくてはならない。

 観音や菩薩といえども修行中の身であり、仏となるべく次の修行が必要とされるが、時代が進み後世になると、如来信仰、菩薩信仰が強くなり、如来はすでに真実を悟り仏となることが出来るにも拘わらず、衆生を救済するために、あえて仏となることなく、菩薩として現世に戻り、人々を救う為に奇跡を起こす働きをするのだと考えられるようになりました。



19.重複言葉


 スポーツニュースなどを聞いていると、「得点を取って・・・」などというアナウンスがあって、たいそう気になります。

 点を取るから得点なのであるから、「得点して」とか「点を入れて」とか「点を得て或いは点をとって」ということでないと、表現が重複する。


 小学校の4年生だったとき、先生が言葉は重ならないようにしないと据わりの悪い表現になる。

 例えば、

 古の昔の武士の侍が、馬から落ちて落馬した

 こういうのは変でしょう? 言葉の使い方に気を付けて、文章にしたり話したりしましょうネ。と言ったのを今も覚えています。


 似たようなのは沢山ありますが、間違って使っていると気づかないうちに、人から眉を顰められているかも知れません。

 元旦の朝

 縁談ばなし

 挙式を挙げる

 満座の席で

 炎天下の下

 過信しすぎる

 一番最後

 被害を蒙る(被る)

 秘密裏のうちに

 不快感を感じる


 どこが変なのか、ちょっと考えれば解ることですから、口癖にはならないようにしたいものである。



20.ディクショナリ


 出意句書扮装(ディクショナリ)

 珍しくも辞書を引いてみましたら、翡翠なんていうムズカシイ漢字が出てきました。

 ショウビン=カワセミのことなのだとか。


 空蝉(ウツセミ=抜け殻)なら、子供のころからしょっちゅう目にしたけれど、それの使い方はいろいろあるらしい。

 粉にして漢方薬?とか、喩えとしての空蝉、ながろうべきかうつせみの、なーんて歌詞だとか。


 セをはやミ いわにせかるるたきがわの われてもすゑに あはむとぞおもふ

 これは、セミじゃないって?



21.初蝉の鳴き声


 朝、窓を開けてベランダに出て見たら、今日も暑さが厳しくなりそうな陽射しの中、アブラゼミとボンゼミの鳴き声が聞こえてきました。

 そういえば、山道を歩いたときにヤマゼミの鳴き声は聞いたけれど、里で蝉の鳴き声を聞くのは今年初めてでした。

 急に暑くなったから、セミが鳴く時季なのだということを忘れていました。

 都会のセミも、まだまだ頑張っているようです。

 セミの鳴き声にも順番があって、ニイニイゼミ・アブラゼミ・ボンゼミ・ヒグラシ・ツクツクホウシというような具合だったと思うのですが、近頃はそんな順番お構いなしに一斉に鳴くから、これからしばらくは賑やかなことになりそうです。

 静けさや 岩にしみいる蝉の声  などという風情とは程遠く、暑さをいやますことになります。



22.所作が美しいと


 上品で、感じの良い人というのがいます。


 作法というのは、見た目が大事だと言われます。姿形を整えるだけでなく、所作の美しさが求められるということです。


 見た目が誠意を表す。立ち振る舞いは、いつにあっても美しくあらねばならない。即ち、立っていても座っていても歩いていても、ということになります。

 実質的な気持ちに敬意があれば、自然にそれが出るものだということに一理あるようにも思うが、まずは形から入った方が早いように思えます。

 形ができると、それに伴う意味も自然に理解できるようになる。



23.諸国民の公正と信義に信頼して


 憲法前文にいう、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して・・・

は、現実的にはかなり難しくなってきているのではなかろうか。

 国際関係は、当方の思うようにばかりはいかないことが多い。

 教育というのは恐ろしい。国をあげて反日教育をされていたら、いかに日本が平和を望んでも、どうなるかわからない。

 憲法9条は、その前文が前提条件であり、そこに信頼性がなければ、9条が有るから平和なのだというのは絵空事に過ぎないことになってしまう。


 諸外国は、隙あらば日本を狙うというばかりではなく、国内問題もからむ。外に敵をつくるのは、えてして内政に問題があることが多い。

 銀行が次々に倒産したり、地方に反政府運動に結びつきかねないデモが頻発したりすれば、その問題から手っ取り早く目をそらせるのには有効だからだ。


 その教育に使われるのが事実を歪曲したり、極端な事例をピックアップしたものになるのは当然の流れになる。自国に都合が悪いことは伏せるに決まっている。

 しかし、その都合が悪いことであっても自由公平に議論する場を残しておかないと、事実は歪み、双方の先の発展は阻害されてしまうから、事実がどうであったのかを認め合うことが重要なのだと思う。


 我が国では、過度とも思える自虐史観がいきわたりすぎたのか、学校やマスコミが言うことに疑いを挟むこともなく過ごしてきたけれど、最近は「そんなわけはないだろう」と思う若者が増えてきて、自分で調べるようになってきているのだと思う。

 行き過ぎればそうなる。そして、調べれば資料はいくらでも手に入る。


 理不尽だと思うような要求が度重なるにつれ、そこから脱却するために、極端な例では核ミサイルを装備すべきだという人さえ増えてきてしまっているように思える。

 逆に、一昔前なら外患罪に抵触しそうな言動をする人がいても、それが咎められずに済んでいる自由が残されているところが、我が国の懐の広さであろう。

 国益の鬩ぎ合う外交の場にあっても、平和裏に解決されるに越したことはないが、何時の場合でも芯のところに覚悟というのは必要なのだと思う。

 平和を維持するのは、簡単ではない。

 憲法について議論すら拒否するのでは、改正するしない以前に問題ではないのか。



24.心の中の違和感


 現在の状況に全く満足している人は少ないのだと思います。

 ある程度の成功を収めていれば尚その上を、不遇だと思っていれば尚更に、現状から抜け出したいと願っても不思議ではありません。

 極めて自然な欲求と言えるでしょう。


 「今のままでいいのだろうか」「何かが違う気がする」「このままで人生を終わりにするわけにいかない」

 誰もが心のどこかに、違和感を覚えていて、落ち着かないのだと思います。

 そして、毎日心を擦り減らしながら仕事をしているのです。

 心に悩み事を抱えて暮らしていると、如何に頑張っていてもある日突然のように頑張れなくなる、いわゆるキレルというか、何をやるのも嫌になってしまうということが起こりえます。

 頭では、「やらなきゃいけない」と解っていても、体が全く言うことをきかなくなってしまうのです。頑張れば頑張るほどひどくなります。

 少し休憩してみるか、思い方を変えてみる時期なのかもしれません。


 よく言われることですが、人には無限大の可能性が眠っているということを思い返して、「焦らずともきっといつかはできる」と信じる気持ちが大事なのだと思っています。


 うまく行かないと思ったときは、いっぺんに全部やろうとせず、どんな小さなことでもいいので、できることを先ずやって、それを終わらせる。

 それが大きな結果に結びつくということに気づくと思います。



25.振動・音叉・共振


 離れているのに音の振動が空間を伝わって共鳴することは、よく知られています。

 この世のことは、物質も含め全て振動数の違いによって現れているという人もいます。


「類は類を呼ぶ。」とか「類は友を呼ぶ。」とかいいますが、善は善を引き寄せ、悪は悪をひきよせる。

 その人の心のありようによって同じものを引き寄せ、対立するものを撥ね返すらしい。


 ツキとかヒラメキとか、何か偉大なものからの精妙な知らせは、澄んで清らかでいるところに齎されることが多いようにみうけられます。


 他人との関わり合いだって、だらしなくて汚ならしい人は避けたいと思うのが普通の人情でしょう。


 身を清め、こざっぱりした服装で過ごした方が、本人だって気持ちよいに決まっている。その方が、回りに良い人たちが寄ってもきやすい。

 お掃除もきちんとしないと、人だって良い運だってやってこないのは自明の理だと思うのですが・・・



26.真似をしたところで


 美人というのは、どんな格好をしていても美しい。きちんとした服装をすれば尚更です。

 体を整え、肌も美しく保ち、衣類の色やデザインにも配慮しているから、たとえ一見ラフな装いをしても、中から滲み出るものがカバーしきってしまうからだと思います。


 普通の人ではそうはいきません。身綺麗にする努力を蔑にして、わざわざ小汚い格好をすれば顰蹙を買いかねません。

 人は、外見で判断されていることに気づく必要があります。


 憧れのあまり、無暗に他人の真似をするのは考え物です。顰に倣うには下地がいります。

 顰みに倣う(習うは間違い)とは、善し悪しを考えず、むやみに人の真似をすることの喩えがそもそもの意味です。(優れた人の言動を見習うことを謙遜して言うときにも使われますけれど・・・)


 春秋時代、越に西施という絶世の美女がいました。美人ではあるけれど胸を病んでいて、苦痛で顔をしかめているのがなお美しさを増していました。

 眉をしかめるのが美しいのだと思った醜女が、それを真似てみたが、より一層醜さを増しただけで、それを見た人が避けるようになった。

 醜女は、西施が眉をひそめていてもなぜ美しく見えるのかということには思いが及ばなかったという故事に基づく諺です。

 「顰み」とは、眉間にしわを寄せること。



27.親の意見


 「親の意見とナスビの花は、千に一つも無駄がない。」と言われるが、ナスだって栄養分がないと花は咲いても結実しないから、無駄花というのはあります。


 親の意見における栄養って何なのだろう?

 親といえど自らの人格を高め、信念をもって教え導くということが大事なのは勿論であろうが、つまるところは責任をとるという姿勢があるかないかなのだと思う。

 子が可愛くない親はいないし、良かれと思ってやることが殆どなのであろうけれど、教育書やら識者といわれる人やらがとやかくいうことに、引きずられすぎていないだろうか。

 自分で考える、自分が感じる、そういうことなくして誰それがそう言っているからと、鵜呑みしての行動っていうのは、底が浅いから見透かされる。

 一時の感情からではなく子のためを思ってしたことであれば、いずれ理解されることが多いのであるから、勇気と信念に基づいて動けばよいのだと思う。


 先生もそうだが、まわりの顔色を窺っての行動は、子供から信用されない。

 子供というのは、想像以上に物事がわかっているし、したたかなものなのだと認識した方がよいのだと思う。



28. 身に着く


 テール・タキシード・スーツなど、フォーマルな服の着こなしをしようと思ったら、普段から機会を見ては着るようにしていないと、体にフィットしてきません。

まるで貸衣装を着ているようで、周りから浮いてしまいます。


 どういうわけか着ることによって、体につくようになってくるみたいなのです。

 普段、楽だからといってジャージー(悪いとはいいませんが)ばかり着て過ごしていると、体もそれに馴染んでしまうようです。

 殊に子供の場合には、色彩感覚に影響が出るといいますから、いつも同じ楽な服装ばかりさせていないように気を付けた方が良いそうです。


 身に付くといえば、言葉づかいもそうです。

 普段から良い言葉を使っていないと、いざというときお里が知れるようなことになりかねないから、配慮が必要です。



29.人はなかなか変われない


 今までと違ったことを始めれば、批判されるかもしれない。

 人から笑われるかもしれないし、親に失望されるかもしれないし、今までに培った自分の全ての信用を失うことになるかもしれませんから、躊躇うことがあって不思議ありません。

 しかしながら、成功するには他人を動かす前にまず、自分が動かなければならないことが大前提なのに、行動する勇気がでません。

 大した手間や費用を要しない簡単なことであってもそうです。

 何かを始めるときというのは、簡単にできることから先ず始めるというのが鉄則ですが、それすら手をつけようとしません。

 成功を目指し何かを始め、それを長く続けても結果が出なかった人なんていうのは聞いたことありません。

 もし居たとしたら、それは到達目標が低かったということになります。

 目標は思いっきり高望みしたって、自分のことなんですから許されることです。

 ただ、やるのを先延ばしにすることで成功しない人なら、周りにいくらでも沢山いますが、そこそこの満足でよしとしているのであれば、いわゆる成功をおさめるのは難しい。

 賢い人だと自分で思っている人は、大抵がやらない理由づけの名人です。


 真の失敗は行動しないこと。

 ああしておけば良かったこうしておけば良かったと後悔するよりは、やって自分が納得する方が、結果を受け入れやすいということは確かです。



30.人は行動しない


 人というものは、絶対に行動しないものです。特に新しいことや知らないことに取り組むということになれば尚更です。

 やれば簡単なことであってもです。

 それなりに、今やっていることだけでも忙しいということもあるでしょうが、新しいことを始めるとなると面倒なことが多いのです。

 ましてや、他人が自分の為に何か行動してくれるなんてことは、滅多にないどころか、まずないというのは解りきったことです。

 もしやってくれるとしたら、よほど自分にとって有益か、利益があるか、なんらかの恩義を感じてくれているかの理由がある時くらいでしょう。

 人が成功できない理由はこれです。決断を先送りにしてしまい、結局何もやりません。

 やらない理由はいくらでもあります。それぞれ尤もらしい理由です。

 何事であれ、始めるためには勇気がいるのです。

 人は変化を望まない。特に不満がなければ、現状維持でいることを選びます。

だから、現状以上の成功はできないということになります。



31.人ひとり


 ひとひとり ひとりひとりはひとりかな ひととひととは ひとりひとりか?


 そんなこたああるまい。言語を介するにおいて、人は万物の長たりえる。

 つねずね感じているのですが、人を思いやることにすぐれている人は、人なかにいて、言葉もやさしいように思います。

 人は、一人じゃ生きられない。



32.人心を惑わす?


 さる山登りの集まりから帰ってきた家内が、「ねー、モグラってどうやって増えるか知ってる?」って聞くから、「モグラって、土竜って書くモグラのこと?」「そう、そのモグラ。」


「ありゃあ多少下等動物なのかも知れないが、一応は哺乳類なんだから子を産むんでしょう?」「そうよねー」といいながら浮かぬ顔をする。


 集まりに参加していたリーダー格の人が、まことしやかに言ったんだそうです。

 「モグラは、関東のモグラと、関西のモグラは種類が違う。昔は、箱根の山を越えられないので、関西のモグラが関東に移ってくることはなかったのだが、ゴルフ場の開発で大量の土を運ぶようになって、その時に、土の中のモグラの卵がトラックで関西から関東に移動して来たのです。」と、真面目な顔で説明したんだとか。


 ばかいっちゃ~いけません。おんなこどもを誑かすんじゃない!ってんだ。

 でも、あんまり真に迫ったような言い方をされると、騙されちゃうことってあるよね。


 ひびわれた ひびにひびくは ひひのこえ ひひかかえらぶ ひびくったちえ


 罅われた 日々に響くは狒々(トシヨリ)の声 否々可々選ぶ ひび(オカイコサマノサナギ)食った知恵  (自作)



33.腎臓の薬


 松島の瑞巌寺を訪ねました。

 長い参道の左側の杉木立は、押し寄せたツナミによる塩害で枯れたということで、切り倒されていました。

 寺社は改修工事中でありましたが、境内で見慣れない漢字を見つけました。

 「楸」には、キササゲというフリ仮名がついていました。


 キササゲ(木大角豆)はノウゼンカズラ科の落葉高木。

 キササゲは利尿薬として、腎臓炎、脚気などの浮腫に応用するのだそうです。

 生薬名で梓実(しじつ)と呼ばれる。「梓(し)」の字は、訓読みすればアズサ。

 一般にカバノキ科のアズサを指すが、マメに似た実をどうしてアズサと呼ぶのでしょうか。



34.雀のお宿はどこにある


 雀が群れているのは、どこででも目にした光景でした。

 電線に、雀が3羽とまってた・・・どころではなく、隙間がないほどでしたが、どこに行ってしまったのか、都会ではそれらを見る機会が少なくなってしまいました。


 ベランダや庭に餌を撒いてやるとすぐに、どこからどうやって見つけるのか、何匹かが飛来し啄んでいきます。

 公園などで落ちている餌を食べている雀たちと違って、人影がちょっとさしただけで慌てて飛び去ってしまいますから可愛げというものはありません。

 それと比べ、同じく餌を見つけてやってくるヒヨドリは、少し追ったくらいでは逃げませんので、どちらかと言えば、こちらの方に情が移ります。


 野鳥に餌をやるのが良いことなのか悪いことなのか判りませんが、冬ともなれば食べ物が少ないであろうからと、腹の足しになるかどうかくらいを、撒いてやっていましたが、餌が多くなったであろう春を過ぎても、定期便のように毎日やってきて、プランターに播いておいた野菜の新芽まで食べて行きます。

 都会の鳥は厳しいから、まとまって簡単に餌を食べることのできる場所は覚えていて、巡回コースになっているのかも知れません。


 そんなこんなで、雀のお宿に招かれることなく過ぎていますので、お土産の葛籠はありません。



35.成功法則と言われるもの


 成功法則と言われるものは沢山あるけれど、成功法則の元になることというのは、なんなのだろう?

 考えてみるに、『人に好かれること』というのが芯になっていることは疑いない。

 となると、人に好かれるためには、どうあらねばならないか、ということになります。


 周りを見渡すと、素直である人、誠実である人、一所懸命である人、自分に近づいてくる人、というのが好かれていることに気づきます。

 その他、色々な好かれるタイプはあると思いますが、基本的に「人に好かれている」ことが、「成功」ということに結びついているように思います。

 自分だけではできないことも、好かれていれば望外の助力・協力・援助が得られるからです。運の神様だって、きっと同じです。

 世の中は、理屈だけで成り立っているわけではなく、どちらかといえば人の感情で成り立っていることが多いから、好きか嫌いかというのが決めてだから、「あんないい加減な人が。」というのが好かれていることが多い。

 そういう人は、理屈抜きで人を気持ちよくさせる何かがあるのです。

 「人は、感情が納得しなければ動かない。」

 人は、感情で動くということを理解すれば、「味方になってくれなくても敵を作るということは避ける」ようになる。

 そのような言動が大事だということになりそうです。



36.星空を見上げて


 アイソン彗星は、見ようと思っていたのに、見ないうちに消滅してしまったらしい。


 あの星を とってくれろと 泣く子かな (江戸川柳) な~んていうのがありましたっけ。

 小学生のころまでの郷里の空は、満天星躑躅(どうだんつつじ)のように、空はあたり一面ちりばめられた星で埋まっていました。

 特に夏の天の川なんぞは、日が落ちて暗くなってからの帰り道、家族で家路を辿りながら見上げるとき、箒でかき集められそうに近く見えたものでした。

 もう、ふた昔以上前のことですが、家をはなれて十数年ぶりに帰ったときの故郷の夜空は、霞か雲かに覆われたように朧にかすんで、もはや往時の透明感とは程遠いものになっていたことを思い出します。


 更にその後何年かして、長野県の野辺山を訪ねたときの夜、さすが天文台があるくらいだから、星々は昔日の想い出のごとくに綺麗だったのですが、それにもまして忘れられないのは、雨上がりの八ヶ岳山頂近くで見た夜空。

 握りこぶしほどとまではいいませんが、大きくくっきりしていて、手がとどきそうにおぼえ、転じて麓のかたを見やると、遠く町の灯りがまたたき、天も地も光の渦に浮かんでいるような心地でした。

 南の島で、初めて南十字星を見たときの空も、忘れ難い。

 けっこうロマンチストなのかも知れません。



37.赤くなくてもマンジュシャゲ


 曼珠沙華(ヒガンバナ)というと、赤いということになっているが、黄色のものもあるし、白い花のものもあります。


 ヒガンバナは曼珠沙華(まんじゅしゃげ)とも呼ばれる多年草です。

 秋のお彼岸(秋分の日)頃に赤色の花を咲かせるのですが、花は咲かせても種子は稔らない。稔らないのは3倍体であるからだといいます。


 地中にチューリップに似た球根があり、球根を増やして増殖します。

 洪水などによって球根が移動し、群生しているところが多い。

 ヒガンバナの花は花茎の上に通常6個の花が咲くのですが、花茎は葉よりも先に地面から伸びてきて、葉が出るのは花が終わってからになります。

 花弁はリボン状で、雄しべや雌しべも長くて構造がわかりにくい。



38.達者なガイド


 何年かぶりで行ったマレーシアの現地ガイドは、日本語が達者で、よく勉強していると感心しました。

 先日書いたマラッカの名前の由来や、寺院の故事来歴、建材の説明、描かれている絵や模様の説明などなど・・聞けばたちどころに答えてくれるから、こちらサイドの教養も必要でした。


 仏教・ヒンズー教・イスラム教・キリスト教などなど宗教は入り組んでいるのだと説明しながら、本人はJAなのだと言う。

 なんだと聞いたら、JAは農協だからNO教なのだと。かなりの日本通でありました。



39.誰もが感情で動く


 自分がなにごとかの行動を起こすとき、理性的論理的に十分考慮して判断してからにしていると思っているが、果たして本当にそうなのかどうか疑わしい。

 理屈ではそうなのであろうが、そうしない自分が確かに居ます。

 どうも、感情が納得しないことには動けないようなのです。

 感情が納得すれば、「そんな馬鹿な」ということでも出来てしまいます。

 行動に大きな影響を与えている「感情」というものをコントロールしなければ、人生を好転させることは難しいのだと思えてなりません。

 その「感情」というものが何処からきているのか、自分と向き合うことは、かなり難しい。自分を否定しなければならないかも知れないことを、どこかで判っているからかもしれません。

 でも、自分自身の感情に振り回されることがなくなれば、容易になることが多いのではないかと思える。

 人は、今の自分が変わることに対して「恐れの感情」というのを潜在意識として持っていて、基本的に変化を望まないものなのだといいます。

 何事をも可能にしてしまうと言われている「潜在意識」に繋がるためには、その感情と向き合い受け入れていかなければ、自分が望む次のステップに進むことは出来ないのは解っても、やらない理由を探す名人になってしまって、結果として現状維持、すなわち後退を選択していることに気づかない。

 潜在意識は、いうなれば「自分の内なる神」。つながるために大事なことは素直さだといいます。

 時々刻々知らせてくるヒラメキや気づきに素直になって、できることは先ずやるというのが重要なのだと言われています。

 自分の神様が言うことなのだから、それに従っても腹は立たない。



40.遅すぎることはない


 「人生、遅すぎるということはない」よく聞く言葉ですが、頭で理解できるのとそうできるのとは大きく違います。

 「もう遅い。年だからもうやり直しはきかない。」としてしまう人の方が多い。

 何故なのでしょう。

 長生きすることにすれば、時間はたっぷりあります。

 「人は、自分が思った通りのものになる。」というのが真理ですから、「自分は長生きする。」と決めればいいのです。

 「あの頃は良かった。」など、昔の自分を嘆いても未来は変わらないものです。

 「今すぐ行動しない人に、チャンスが訪れることはない」というのも真理です。

 どんな大きな結果を齎す行動でも、最初の一歩は小さいけれど、「強い想い」があれば、世の中に出来ないことの方が少ない。途中までしかできなかったとしても、やらないよりやったほうが良いに決まっています。



41.長かれと


 千年も万年も生きたいと思っているわけではないにしても、まだすぐに命が尽きると思ってはいない人が殆どである。

 いずれはその日がくるにしても、それを意識することは少ないようです。

 それはそれでいいことなのではないかと思います。


 「長かれと思う命の短くて 伸びてせんなき髪の長さよ」

 或いは「長かれと思う命は短くて いらぬ私の髪の長さよ」

 などと嘆くことはないのです。人は、生きているそのことだけで意味があるようですから・・・


 落語の世界なら

 長かれと思う布団は短くて いらぬ親父の脛の長さよ、などと笑い飛ばしてしまいます。



42.当たり前


 自分にとっての当たり前というのは、考えてみる必要がありそうです。


 自分が自分でやることに当たり前ということはあっても、人様がやってくれることに「当たり前」ということはない。

 他人が自分に何かをしてくれるということは、よっぽどのこと。それこそ、やってくれなくて当たり前なのです。

 他人がやってくれないことに文句を言ったり不満に思ったりするのは、筋違いです。


 人様がやってくれることはどんなに小さなことであっても、ただただ「ありがたい」と思えるようになると、大きな「ツキ」という形のものに繋がってくるようです。

 何をしてやっても、感謝もしなければ気付きもしないというのでは、神様だってソッポを向いてしまうに決まっています。


 最初にやってくる微かなヒントとも言える神様からの啓示に素直に従って行動するようになると、「ありがたい」と思えることが続くようになります。



43.読み分けしない


 TVなどを見ていると、読み分けられないアナウンサーが多いように思えます。

 何日か気をつけて聞いてみただけで、かなりの数になりました。

 イントネーションによって意味が全く違ってしまうのです。


 軌跡・奇跡・貴石・輝石・奇石・鬼籍・帰責

 陰陽師・陰陽寺 

 熱い・厚い・暑い・篤い

 付ける・漬ける

 織物・下り物・織る・折る

 橋・箸・端

 艶・通夜 これは間違えるとシャレにもなりません

 胎児・退治・対峙

 機械・機会

 蔓・弦・鶴

 面積・免責

 食物・植物

 下手・蔕(へた)

 再現・際限



44.満ちて溢れず


 會子曰く、敢て問ふ、聖人の徳、以て孝に加ふること無きや。

 子曰く、天地の性、人を貴しと為す、人の行は、孝より大なるは莫(な)し。

 孝は、父を厳にするより大なるは莫し。父を厳にするは天に配するより大は莫し。

 則ち周公其人なり。昔者周公、后稷(こうしょく)を郊祀(こうし)して、以て天に配し、文王を明堂に宗祀して、以て上帝に配す。是を以て四海の内、各々其職を以て来り祭る。

 夫れ聖人の徳、又何を以て孝に加へんや。故に親は之を膝下に生じ、以て父母を養ふ日に厳にす。聖人厳に因りて以て敬を教へ、親に因りて以て愛を教ふ。

 聖人の教、粛(しゅく)ならずして成り、其政、厳ならずして治る。其の因る所の者は本なり。父子の道は、天性なり。君臣の義なり。父母之を生む、続(しょく)焉(これ)より大なるは莫し。

 君親みて之に臨む、厚(こう)焉(これ)より重きは莫し。故に其親を愛せずして、他人を愛する者は、之を悖徳(はいとく)と謂ふ。

 其親を敬せずして、他人を敬する者は、之を悖礼と謂う。順を以てすれば則る。逆なれば民、則ること無し。善に居らずして、皆凶徳に在らば、志を得と雖も、君子は貴ばざるなり。

 君子は則ち然らず。言、道(い)ふ可きを思い、行、楽む可きを思ふ。徳義尊ぶ可く、作事法(のっと)る可く、容止観る可く、進退度とす可し。以て其民に臨む。是を以て其民畏れて之を愛し、則りて之に象(かたど)る。故に能く其徳教を成し、而して其政令を行ふ。

 

 詩に云ふ、「淑人(しゅくじん)君子、其義忒(たが)はず」と。


 何を言っているのか解る人は、凄いです。



45.迷信と片付けてしまえない


 先人の生活の智恵ともいうべきことがらを、科学的な説明がないからといって迷信と決めつけてしまってよいのかどうか。

 例えば、庭や屋敷内に植えてはならないとされる木があります。

 敢えて名前はあげませんが・・・

 それらの木は湿気を呼ぶものであったり、大量の落ち葉が屋根に積もってしまったりする種類のものであったりします。

 湿気は家人の病気を呼ぶ原因となるだろうし、落ち葉は屋根を傷める元となる。

 これこれの理由があるからだとの前置きをすればよいものを、昔の人はそんな説明をしない。


 四神相応の地というのがあります。神社仏閣や城などは、建てるときそういう場所を選んだ。

 北に玄武、南に朱雀、東に青龍、西に白虎というのだが、「そんなことをいったって。」と、なんのことだかわからないから拒否反応を起こすのが最近の若者です。


 北が小高い丘や山で、南が開けた平や湖ということになれば、日当たりが良くて水はけも良いにきまっている。西に広い道があって東に川があれば、住むためにこんなよいところはない。

 だからそういうところに建てた昔の建物は、今も尚しっかり残っているということになる。

 水浸しになって酷い目に会うようなところは、最初から避けたということになります。


 それとは別にも、何だかわからないけれど人智を超えて働く偉大な力があることを、誰もが感じているに違いないのだが、気づかないふりをしたり無視していたりするけれど、説明ができないものは「無い物」だとしまってよいのだろうか?

 畏まって謙虚になることができるのも人間の美徳のひとつであると思うのです。

 あるかもしれないと、可能性を認める方が、幅が広くってよい。



46.猛毒と聞くフグを


 能登か佐渡に旅行したときに、土産として買ってきたのだけれど、食べるのを躊躇ったのか、冷蔵庫にいれたまま長い間忘れていたものが出てきました。

 賞味期限はとっくに切れてはいるだろうけれど、食べてみたところ実に美味い。

 食べた後もまだ生きているから、人間というのは、こと美味しい食べ物のこととなると、いろんな工夫をするものだと感心します。


 「ふぐの卵巣の糠漬け」は、文字どおりふぐの卵巣を塩と糠に漬けて、3年以上熟成させた食品です。

 ふぐの種類によっても異なりますが、ふぐの卵巣にはテトラドトキシンという青酸カリの100倍、2~3mgで人の致死量に達するほどの猛毒が含まれています。その卵巣の毒が塩と糠に漬けることによって、無毒化され、食べても安全、そのうえ深い旨みを持った食品になるというのだから驚きです。

 石川県では、ふぐの身の部分の糠漬けも勿論のこと製造されていまが、江戸時代にはすでに卵巣の糠漬けがつくられていたようです。


 なぜ卵巣の毒が消えるのか、解毒の過程は現在も謎のままなのだそうです。

 ですから、製造方法を変えることができず、ずっと変わらぬ方法で、今も「ふぐの卵巣の糠漬け」はつくり続けられているのだといいます。



47.目に緑を楽しむ


 花を飾るのもよいのですが、ちょっとした緑があるのも良いものです。

 果物を食べた後に残る種を、小さな鉢に播いておくことで簡単にできます。


 メロン。育てて果実を獲るのが目的ではありません。

 まず、種を綺麗に水洗いします。種の周りについているヌルヌルは、発芽を抑制する物質なので、丁寧に洗い落とします。

 次に、小さな鉢に土を入れ、種を何粒か播きます。(発芽率が良ければ全部の種から芽がでますが、1粒だけでは心配です。)

 あとは、土が乾かないように時々水やりをするだけで、1週間もすれば芽が出てきます。


 その後はどんどん育ちます。



48.勇気を出してやってみる


 今年も大きな被害を出した台風が多かった。

 台風が来ると被害が大きいから、怠らず次への備えが必要です。

 そんな話のなかで、台風一過を台風一家と読み違えるアナウンサーが結構いるんだけど、局から注意されないのかねーなどと話していると、プライベートで少年野球の監督をしている当社の常務が、「一家ということで、思い出すことなのですが、先日仲間内から私は、総長と呼ばれたんです。」という。

 「なんなのそれ?」と尋ねると、「私も社長を見習って、勇気を出してみたんです。」とのこと。

 話をかいつまんでいうとこうなる。


 少年野球の県大会に出場するため、各チームがバスを連ねて会場の駐車場に到着したところ、そこは暴走族のオートバイ40数台がバスレーンを占拠していて、駐車できない状態だったのだとのこと。

 怖かったけれど「リーダーいる?」と声をかけて近寄ると、「なんだなんだ」と数人に周りを取り囲まれ、たいそう怖かったのだと言います。

 「これこれこういうわけで、子供たちを連れてきているのだけれど。」と話しをすると、

 「すいませんっ!」と大きな声で言って頭をさげ、「おい、みんな早くここを空けろ!」と指示し、たちまちのうちに片付いてしまったという。


 「ありがとう。おかげで助かります。」と言うと、口々に「すいませんでした!」という声を返してくるのを聞いて、誰も動こうとしないときに普段の社長を見倣らって勇気を出してみてよかったと、また、若者たちの反応が嬉しかったといって喜んでいた。


 で、そのあと同僚たちから「総長」と呼ばれたんだと・・・。

 争うんじゃなくて、普通の話を穏やかかつ真剣にすれば、案外通ずるものだと思います。



49.有用菌もあるのだから


 衛生に気を付けるということで、手洗いが大事だということは解るのですが、滅菌剤や殺菌剤の多用によって有用菌まで死滅させているのではないのかと危惧することがあります。

 自然界には有用菌・有用微生物というのが沢山あります。


 有用微生物とは、人間や動物、作物や自然環境に対して無害どころか有益な働きを持つ微生物の事であります。

 それらの微生物が作り出す抗酸化物質ほかの生成物が、人間や動植物の細胞を活性化したり、有害物を無害に変えたり、必要な薬品を作り出したりの働きをしていることは、広く知られていることでもあります。


 微生物の大半は、勢力の強い方に右ならえをして、相互に働きを変えていきます。

 有用微生物は、微生物の中で勢力の強い勝者なのだということになります。

 よく知られている例が、私たちの身体の腸内の中では100種類くらいの微生物が住み着いているのだと言われていて、中でも善玉のビフィズス菌が悪玉菌をやっつけている働きです。

 たくさんの種類があるというビフィズス菌(ヨーグルトなど)を食べていると、腸内に勝者となったビフィズス菌が増えて、お腹の調子が良く保てるという事です。

 同様に有用微生物に良い環境を与えて繁殖させてやると、他の微生物達が良い働きをする方向になってきます。

 この有用微生物の主だった物には、光合成細菌、乳酸菌、酵母菌、放線菌、糸状菌、等々があり、いずれも有用な働きをしています。

 納豆も味噌もお酒も、それらがなければできないのですから・・・



50.幼形成熟


 動物において、性的には完全に成熟した固体でありながら、非生殖器官に未成熟な部分が残る現象をネオトニー(幼形成熟)というのだそうです。昆虫や犬、人にも多いのだとか。

 外見上のことをいうらしいですが、精神面のことまでいうならば、遥かなる約束どころか単純な愛だ約束だなどのことも発達しないまま大きくなってしまったのは、そこらへんに溢れかえっている。


 雨月物語だとか葉隠れだとかをかじって、朧気ながら約束ということの意味することを感じたのは、われわれの年代だと中学校の高学年から高校にかけてくらいだったかのように思う。

 なにもかもをいちいち教わったわけではないが、下地となる教育や情操は、学校に上がる前の家庭や地域社会に有って、その類推で判断して自分で育ってきた部分が多かったのではなかろうか。


 「そういうことをすると恥ずかしいでしょう」と言われると、なぜ恥ずかしいのかという説明なんかなくても以後気をつけるようになったし、それは人が見ている見ていないに拘わらず自らを律する基ともなった。


 今、1日に100通を越える迷惑メールが届きます。誰だか解らなければなにをやってもいいんだという卑しい行為に歯止めがかからないというのは、日常茶飯見かけることではありますが、どこに原因があるんでしょう。

 「おてんとうさまはお見通しだ」って教えておくことだけだって効果があると思うけど。


 私は、性善説を信ずる者です。皆が良いものをもっているのに覆いを被せてしまっては勿体無いと、つねずね思っています。















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エッセイ「普通に考えてみると(十四)」 @SyakujiiOusin

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