第7話 追いつ追われつ

 何かに追われない生き方をしたい、と思う。

きっと、最近特に高まっている、全てが時間とインターネットに管理され、何事にも整合性を求める世の中の傾向に起因するのだろう。

 僕は今年度、受験生となった。別になりたかった訳ではない。然しながら、この競争社会では、より良い学歴や、能力が求められる。多少人格に問題があったとしても、だ。だからこそ、最後のセンター試験を受けて、国公立大学や私立大学の試験を受けて、なんとかして狭い、合格者しか通過できない門をくぐるのだ。

 だが疲れた。

 得体の知れない大きな、大きな不安に追われて日々を過ごすのも、途方も無く膨れた妄執に駆られて日々を生きるのにも、疲れた。さながら気分は、いつ直撃するかも分からない相手のパンチを、どうにかこうにか避け続けるボクサーだ。毎日毎日、勉強に因る重圧というパンチの他に、体質の腹痛や、不定期で襲いかかってくる頭痛など、茨の道をなんとか歩いていく。疲れて、寝て、起きて、勉強して、寝る。付けなきゃ死ぬかも知れないとは言え、エアコンの冷房の風も辛い。

 この前Twitterで、壊れた扇風機が、ようやく捨てられる直前に、夏の風を浴びて自然の風を知る、なんて詩を見た。自然の風は、柔らかい。まちなかをちょっと吹き抜けただけの、なんてこと無い風の中にも、地球全体の風の流れを感じる。それは、無機質で一定の指向性を持ったものではない。おおらかで、ゆるく包み込んでくれるような風。暴風でも、突き刺すようなものではなく、面でぶつかってくるような。そんな風を感じて勉強すれば、集中を増すこともできるであろうが、如何せん外は暑い。なにかしていなくとも汗がとめどなく流れ落ちる。心頭滅却?それを続けていたら仏様になってしまう。

 

 ありとあらゆるものから逃げたいとも、思う。

 これにはやり方がある。出家だ。といっても、昔のように本当に俗世から切り離されるのは今の時代難しいかも知れないが。

 それでも、面倒くさい人間関係のしがらみや、くだらない事で騒ぎ、連日のように痛ましい事件について言い合う世間からは距離を置きたい。そう、それがいけないのだ。

 京アニの放火事件である。語ることすら憚られる凄惨極まりない事件だ。犯人の名前や、その人生の背景について語り、どうして事件を起こしたのか、という部分に触れることは、以前書いたように大切なことだと思う。今回の事件だって、責任の5%くらいは彼の親や、その周りの社会の大人たちにある。ひん曲がった性根にしなければ、事件は起こらなかったかも知れないのだ。

 だが、献花に来た人を待ってましたとばかりに撮影し、あろうことか泣いている姿まで収め取材さえ行っている。視聴者の気持ちを考えてほしい。いくら大変な事件だから、そういって悼む人の、咽び泣く姿を全国放送で流すことが、本当に必要なのだろうか?挙句の果てには、遺族の家へ取材を敢行しているのである。バカ野郎である。

 大前提として、最も辛いのは事件でご家族を亡くした方々である。なのに、その彼らの家まで行って取材など言語道断だ。当然、公共の電波で取材の映像を流しているということは、取材を受けた遺族の方々が許可しているのあろうが、そもそも取材を依頼すること自体がおかしいのである。遺族の方や献花に来た人に言わせずとも、「二度とこんな事件起きてほしくない」とは国民のほとんどが思っているはずだ。こんなメディアこそ、違う意味で大炎上してしまえばいいのだ。

あろうことか、毎日のようにそれを続けているのにも関わらず、この上更に取材協力を呼びかけるマスコミが存在しているらしい。話す方もそれを聞く方も、十分すぎるほど辛い。京アニは、日本を代表できるアニメーション制作会社だ。「けいおん!」や、「らき☆すた」、「響け!ユーフォニアム」や「Free!」など、描写が著しく現実に近い、アニメーションといってアニメーションの域を超える数々の名作をこれまで手がけてきた。僕の主観では国宝レベルである。五月蝿く言い立てることしかできず、連日デモを起こせるほど暇な隣国の報道も大事かもしれないが、京アニのニュースが後を絶たないのも無理はない。しかし、辛く悲しいニュースばかり流すこともいけない。京アニ作品を振り返るとか、そうした前を向ける希望も、公共の電波で流していく必要があるように思う。

 ご遺族の方に、心からのお見舞いを申し上げ、哀悼の意を表します。


 こうして物を書けていることを奇跡に感じる。頭の中で巡り、僕の思考や集中をいとも簡単に奪ってしまうようなことについて、ある程度の体裁を保って書けている。やはり僕はまだ正常なのかも知れない。これが正しく悩んで成長するということなのかも知れない。今の悩みが、将来の生き方の肥やしになってくれることを願ってやまない。これだけ悩ませておいて、将来の役には立たないよ、なんて言われた日には本当に死んでしまうだろう。

 死にたいかどうか問われた時、多くの人が「まだ未練があるから死にたくない」と言うが、そういって何十年生き続けても未練は一生残る。人間は欲望の塊である。一時的に「あぁ満たされた。もう何も思い残すことはない」といったところで、結局はすぐ別のやりたいこと、実現したいことを見出してしまうのだ。それの繰り返しである。何なら、その思い残すことはないと言っている時であっても、気づいていない、それか忘れている未練がそこにある。

  もし全てをやりきったとして、そこに何が残るのだろうか。それは「無」である。やりたいことを「全て」やったのだから、自分を含め一切のものに執着は沸かない。自分の欲望を「全て」満たしたのだから、もうそれ以上に欲は沸かない。そうしたらもう人生を辞めるだけである。

 だがそんな状態が、訪れるのだろうか?

 一生を共にしたいと、そう思える相手と出会ったとする。当然、紆余曲折を経ても、忘れかけていても、根底にはその願望があるのだから、畢竟自分が死ぬまで一緒にいたい。つまり、自分自身の死によって、その願望はようやく果たされることとなる。すると、生きているうちに全てをやりきっていないことになる、というのが分かるであろう。

 例をもう一つ。失恋した、心身ともに一般的な日本人男性を思い浮かべてほしい。彼は、その失恋によって大きな未練を抱えることとなった。別れた彼女と、遊園地に行きたい。水族館に行きたい。どこかへ旅行に行きたい。そういった願望を果たせぬまま些細な喧嘩によって別れてしまった。彼は絶望の淵に立った。どうしてあんなことで。どうして傷つけてしまったのか。ああ、取り返しのつかないことをした。そう自分を責めたとしよう。もっと彼女と一緒にいたかった。彼女と行きたい場所が沢山あった。だが、それももう叶わない。

 そのまま二十年が過ぎ、別の女性と所帯を持つことができたとしよう。その幸せな生活の中で、彼が二十年前の苦い記憶と、未練を忘れることがあるだろうか?残念ながらその可能性は低いだろう。

苦いものは残りやすい。

結局、そうして人は純粋なまま生きていくことはできない。過去の経験や、思ったこと考えたこと、見聞きしたものが、認識しているかどうかに関わらず、自分自身に蓄積されていく。そうすれば、純粋な人はこの世にいないはずである。美しい景色や、それまで知ることのなかった新しい何かに触れる時、それが過去の何物とも結びついていなかった時を除いて、必ず過去の何かも無意識のうちに(一部分だけでも)思い出す。その時のことも一緒に考える。だから、大人で本当に純粋である人は、よっぽど過去を思い出さずに、その時その時の経験を分けて考えることができる人なのだろう。ちなみに僕は、純粋という言葉一つで、カントの「純粋理性批判」を思い出し、それに起因して高校の倫理の授業や、僕含め二人しか出席しなかった倫理の夏期講習を思い出し、それからその倫理のクラスの級友を思い出す。たった一単語でこれだ。小説などとなれば、1ページ毎にたくさんの事を思い出すのだ。


 ああ、また一日が終わる。辛かったことも楽しかったことも全部ひっくるめて、それが「一日前」のことになる。そして明日、同じように、もしくは丸っきり変わった一日が待っている。僕は明日も戦う。明後日も、明々後日も。

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菟玖波草紙 @irving2984

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