第6話 社会概論の概論~離任する先生に仮託して~
「ここまで来る時、皆さんに何を話そうか考えていました。ずーっと考えていました。が、パッとしたものが思いつきませんでしたので、即興で話していこうと思います。
皆さんがこの学校を卒業なさる時、その時皆さんのうち多くの人の未来が明るく開けていることでしょう。進路も決まり、当然まだ決まっていないという人もいるでしょうが、一応の区切りは付いたかと思います。そこで、本校を去りゆこうとする皆さんにお願いがあります。どうか、自分らしく生きてください。これは私からの最後のお願いです。
『自分らしく生きる』ということが、どれだけ今の世の中で難しく、またそれを何の将来の約束もなしにお願いすることはどれだけ無責任か、皆さんから指摘を受けずとも私は理解しています。
しかし、この地球に生を受けた皆さんは、もちろん公共の福祉に反しない範囲で、ですが、自分の信仰したい宗教を選べ、好きな国に渡航でき、なりたい職業に大抵は就くことができ、どこにでも住め、好きな言葉を話すことができます。
当然、誰に恋しても、誰と結婚してもよいのです。皆さんは、恋をしていますか。恋は皆さんの人生にとって、ある時は劇薬、ある時は羞恥の塊、ある時は命を奪ってしまうかもしれないような、いき過ぎた刺激を与えてくれるものです。それほど熱くない恋であったとしても、必ずや皆さんの人生に、良いか悪いかは別として、大きな変化をもたらすでしょう。
そんなことはよそに置いておくとして、現実を見れば、今の日本経済はスタグフレーションが起こり、高収入でない国民は生活のしにくさを感じていることでしょう。賃金は上がらないが物価は上がる。税金も上がる。私服を肥やしてばかりいる、と私は思っています、国会議員がいる。彼らの年収をご存知ですか。優に2000万円を超えていますよ。と同時に、その十分の一程の所得で暮らす国民もいるのです。
こんな格差社会に、今すぐ、或いは四年後六年後、皆さんは放り出されます。それまで学習してきたことを頭に詰め込んでも、社会は簡単には、皆さんを楽にしてくれません。もちろん、自分のやりたいことで食べていくなら、それは幸せなことです。ですが、そのように生きていける人はそう多くありません。もしそれがすべての人にまかり通るならば、肉体労働や、責任ばかりの中間管理職の担い手は減り、社会は忽ちのうちに機能不全に陥るでしょうから。
この話を聞いて、「こいつ何言ってんだ」と思いますか。それとも、或る程度の危機感を覚えますか。でもいつか。いつか必ず、私の言葉の一言、一句だけでもそれが正しいと思う日が来るでしょう。現に私は今お話した社会に生きているのですから。
学校という、小さな社会組織の中の居心地がどれだけ良いものか。ここに属している大人たちのどれだけ優しいことか。落単の危機がある人。中間・期末のテストで再試常連の人。どこかに務めて、そのようでいたら確実に職を失うことになりましょう。
ここまで言えば察しはついているかと思いますが、社会は残酷です。皆さんに、これだけの量の勉強をさせ、センター試験や来年度からそれにとって代わる共通テスト、そして国公立二次試験や私立一般試験で散々競争させる。競争の果てに大学へ入れたあと、社会はまたもその中で競争させる。そうして社会で「使える」人材を育てる。企業や官公庁に就職すれば、そこでもまた競争。スポーツのように、常にお互いへの尊敬の念を持ってする競争ではありません。周りの奴は皆敵。一人でも多く蹴落とす。かくして、エリートの中から選ばれた、寧ろ「自分を選ばせた」代表が生まれるのです。
自分には関係ない?そうかも知れませんね。自分が全く以て言われていることに気づかない陰口と一緒です。知らないところで、秘密裏に、しかし確実にそれは存在しています。
懐疑主義――平たく言えば何でも疑うということです――になれ、とは言いません。多くの疑問の末路が、「どうしてそれが存在しているのか?」となりますから。ですが、いいですか皆さん、ある程度はこの世界を疑わねばなりません。
政府のやることが全て正しいのか?上司の言うことが全て正しいのか?この日本の仕組みは間違っているのか?それとも、何の問題もないのか?
疑う。そして、情報を見極める。「有名な〇〇さんが言ったから間違いない」だとか、「色んな人がそう言ってるから大丈夫」とか、そう安易にならない。なったとしても、必ず情報のチェックを行う。それが今の世の中で、生き抜くために必要なスキルです。
さて、そろそろ時間も無くなって来ました。皆さん全員にこうして演説することができるのも、あと僅かです。
楽しく生きるのも結構。いつ来るとも知れない人生の終わりに怯えて暮らすも結構。先刻私が話したような、世間を疑う生き方でなく、制度に従順に生きていくも当然結構。昨今の皆さんほどの年齢の若い人は、受動的に生きがちであるように思います。やれと言われたことを忠実に。しかしそうしすぎて、考えればすぐわかるようなミスに気づかない。能動的に生きることは疲れます。自分から率先して事を起こしても、やかましく「それはおかしい」、「間違いだ」などと言いたてられてしまう。そんな、決して自分からは事を起こそうとしないくだらない連中を気にしないでいられる強さを、社会という針のむしろに投げ込まれる前に身に着けてほしい。その先に、自分らしく生きている姿がきっとあります。
どうか、その事を覚えていたけたら、私にとってそれは幸せであり、またこの話の一部でも心に留め将来自分らしく生きることができるようになったのなら、それは私の最上の幸福です。」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます