いただけない

斎藤炯

第1話

 家の中で、ここは俺の居場所だって思うところがある。

 台所だ。

 理由? 簡単。俺がいつも料理してるから。母親はめったに帰ってこない。親父の腕は壊滅的。残ってたのは俺だけってこと。

 小学校の家庭科の教科書は結構役に立った。栄養バランスばっちりで、給食に出てきそうな献立が、まあいろいろのってたからな。


 ピーマンは縦に線を入れる。長ネギは十字に入れて両方粗みじん。玉でもいいけど今日は長しかない。ベーコンはないからハムでいいや。網に入れて水にさらして、あと何かないかと冷蔵庫を開ける。……戸袋にパックで出した麦茶が入っている。そのままドアを閉めてから、戸棚の下の中華鍋をコンロの左側に置いた。

 換気扇の「ぐおおん」と、野菜から水が蒸発する「じゅうじゅう」と一緒に、ごま油のにおいがしはじめるくらいで、弟のトモキがやってくる。

「あ! なにそれ!」

「チャーハン」

 正直買い物に行くのがめんどくさくて、余ってるネギと一枚ずつ残ってたハムと古い卵を使い切ろうっていう計画だ。今週二回目のチャーハンだけど許してもらおう。

「すぐできる?」

「まだできない」

「す・ぐ・で・き・る?」

 鍋から目を離すのは怖いから、そのままもう一回言った。

「すぐはできない。もうちょっと待ってて」

「……はーい」

 足音を立てて部屋に戻っていく。ちぇ、おなかすいたー、という声が聞こえた。あ、と思って振り向いて、トモキ! とでかい声で言ったけど、トモキは部屋から出てこない。なんだよ、麦茶をついでもらおうと思ったのに。

 火の通った野菜に、軽く塩こしょうと、ちょっとだけとりがらスープの素(これが味に深みを持たせるコツなのだ)を振ってから、昨日の残りの白飯を入れる。中くらいだったガスコンロの火を最大火力にする。ご飯がパラパラになるまで鍋を振る。この鍋はちょっと重いけど底が丸くなっているからフライパンより断然便利だ。このごろ何を作るにもこいつがお供で、母親が買ってきた真ん中に赤い印のあるフライパンよりこっちばかり使っている。ばらけたら、とき卵。味付けはにんにく醤油の予定。このあいだテレビをつけたら、作り置き調味料がなんとかって特集を組んでいたから、まねして作った。全体的に卵がひろがったところで、お玉にいっぱいより少し足りないくらい、鍋はだから回すように、にんにく醤油を投入。

「トモ! 飯!」

「はーい!」

 これが同じ人かってくらいに走ってきたトモキに「皿出して。カレーの」という。前に鍋にぶつかりそうになって冷や汗をかいたことがあって、それ以来弟は、俺が鍋とかフライパンとか持ってると、どのくらい距離があるか確認してから、そろーりそろーり動くようになった。でもそんなに抜き足差し足しなくたって平気なのになあ、と思って、見るたび俺は笑ってしまう。

「チカちゃんなに笑ってんの」

 トモキの口がとんがった。

「いや……なんでもない。あとチカちゃんやめろ」

 弟は「なんだよー」とかなんとかぶつぶついいながらイスに座ろうとして、「あ」というなり走っていって冷蔵庫を開けた。その間に俺はチャーハンをどどんと盛る。皿三つにトモと俺と親父の分。母親は今日は帰れないってメモがあったからとっとかない。親父の分にはラップをかける。うんしょうんしょといいながら弟はパックで出した麦茶の入ったネコの形のボトルを持ってきて、ちゃぶ台の上にどん! と置いた。ちょっと台が揺れた。何かプリントを下敷きにしている。なんだこれ。……俺のか。スプーンやら箸はお互い自分で出すから、その間に冷蔵庫からサラダとドレッシングを出す。

 ところでまだ冷蔵庫のドアが開きっぱなしだ。俺が鍋を流しに置いて冷蔵庫の前に立つと、

「あ、まって、オレがしめるからおいといて!」

 と声が飛んできた。

「ちげえよ、サラダ出すんだよ」

 と俺は言って、炒める前に適当に切った野菜をごちゃっと盛った皿を出す。あとドアポケットからドレッシング。

 ドアをぱたんと閉めてから振り返るとトモキがむくれていた。しまった。「ごめん」と言ってもう一回開ける。弟は「もういい!」と怒った顔で自分の場所に座った。俺はもう一度ドアを閉めた。サラダをちゃぶ台の上に置くと、お茶用のコップと一人分の箸とスプーンがもうあった。トモキはお気に入りのプラスチックのウルトラマンのマグカップ、俺は適当なアクリルのコップ。ふちまでなみなみついである。表面張力ががんばっているけど、ちょっと揺らしたらこぼれそうだ。

「青じそじゃねえのかよー」

 ドレッシングを横目で見たトモキがじそ、をいいにくそうに言ってふくれっつらをしている。小2で一番好きなドレッシングが青じそなんて老けてるよな。「今フレンチしかねーんだよ」「フレンチすっぱい」だから酢の物も苦手だ。「いいから食え。それともウサギみたいに塩振って食うか」「やだ」

 むっとした顔でこっちを向きもしない。七時のアニメをじっと見ている。なんだっけあれ、超合金グリーン? いやでも違うや、また変わったのか。

 自分の箸とスプーンを置いて、トモキのとなりに座る。ボトルのネコが汗をかいている。やつの汗はしょっぱくないんだろうな。さっき火を使ったせいで暑くて、髪のあいだから口まで汗がたれてきてしょっぱかった。

「お茶ありがと。とりあえずいただきますしよう」

 と俺がいうと、ようやくこっちを向いて、うなずいた。二人で両手と声を合わせる。

「はい、じゃあ、いただきます」

「……いただきます」

 普段の塩味より濃い色のご飯になんでだろうという顔をして、トモキがスプーンを口に運ぶ。

「あ、熱いから」

 といったのにスプーンでしゃくった分を全部一気に口に入れて、「あふぃい」といってあわてて麦茶を飲んだ。もうひとさじすくって、今度はよく冷ましてから、すこーしだけ口に入れる。しばらくもぐもぐ噛んでから、

「……うめえ!」

 と言って俺を見た。

 自分も皿からしゃくって口に入れる。……うまい。醤油に酒足してにんにく漬けただけでそんなにおいしくなるのかよ、とリポーターを疑っていたけど、たしかにうまい。それに、あとから日本酒を追加しなくていいっていうのは楽だ。重い一升びんを出してきて、ちょっと入れて、戻すっていうのは面倒だと思っていたんだ。

 トモキはもくもくとチャーハンを口に詰め込んでいる。

「サラダも食えよ」

 というと目だけこっちを見て、サラダのレタスだけ五枚くらい一気に箸で取った。

「トマトも食え。つかバランスよく食え」

 生ゴミを捨てるのがめんどくさいから食いきってほしくて俺が言うと、

「チカちゃんせんせーみたい」

 とトモキが言った。言いたくて言ってるんじゃないんだぞ。ゴミの腐った臭いなんてみんな嫌いじゃないか。「うっせえ」だけ言って俺はネコのボトルの顔の部分を回した。かたむけると口の部分から麦茶が出てくる。もとのところに置こうとして、さっき見た下敷きになってたプリントに茶色い輪っかの形のあとができてることに気づく。取ってジャージで水分をふいてポケットに入れて、ボトルを置きなおしてネコの顔をさっきと逆向きに回す。

「ごちそーさまー!」

 トモキが空になった皿の上にスプーンを入れる。

「あ、皿は流し!」

 そのまま部屋に戻ろうとするから引き止めた。「へーい」と言って皿を流しのたらいの中に沈める。

「あーあと洗濯物分けといて。できたらたたんで」

 ついでに頼むと「えー」とろこつにいやな顔をした。でも食器洗ったあと洗濯物までやるのは正直いってかったるい。

「昨日母さんが置いてったプリンまだ残ってるから食っていいよ」

 と条件を出した。

「え、まじで!?」

「まじでまじで」

 プーリーン! プーリーン! といいながらトモキが走っていく。

 俺も自分のチャーハンと、結局半分も減らなかったサラダを全部食べきって、流しに運ぶ。全部手洗いだ。

「あー……」

 伸びをする。まだ暑い季節だけど、油モノ作ったから、蛇口から出すのはぬるま湯。親父でも母親でもいいけど、そろそろ食洗機買ってくれてもいいんじゃないか?

 親ねえ。洗剤をスポンジにつけてぐしゃぐしゃもんで泡を作りながら今日の授業を思い出す。……めんどくさいことになってしまった。



 1.


 月曜日の三時間目、クラスの人数足す五枚くらいのプリントの束を机の上でとんとんそろえた家庭科の教師がうれしそうに言った。

「再来週はみんなが待ちに待った調理実習の時間です!」

 そこで教室がざわっとした。俺はあくびをかみつぶしていた。勝手に待たせないでくれよ。教師は続ける。

「でもね、あと二回教科書を読んで、献立の確認だけして、それでいきなり調理実習だと、ちょっとね、学ぶものも少ないと思います。ただ作って楽しかったー、じゃあ勉強にならないでしょ?」

 勉強という単語に、嫌な顔をするやつが何人かいたのが見えた。

「ということで、みんなにはまずこれをかいてもらおうと思います」

 教師はでかでかと黒板に書いた。

『一週間の献立表』

 また教室がざわっとした。

「明日から一週間、みんなのおうちの夕飯の献立を、このプリントに(さっきそろえたものだ)書いてきてください」

 えー、という声が聞こえた。

「えー、じゃないの。はい教科書見て。今やってるのは『衣・食・住』のうち『食』の分野ですね? これは、食生活を学ぶ上で大変重要なことなんですよ」

 大変、を強調した。

「人間が体を健康に保つには、たんぱく質とかミネラルとか、いろんな種類の栄養を必要としていて、そのためにはなるべく多くの素材をバランスよく取ることが重要です。今週までにお話しましたよね? まずは一週間、目に見えるように書いてみることで、自分には何が足りなくて何が多すぎるか、把握できるようになると思うの。そのうえで、みんなに料理することの手間と楽しさを知ってほしいんです、先生は」

 俺は自分のことを「先生」と呼ぶ先生を信用できる気がしない。内容はともかく。

「はい、じゃあプリントを配りますよ。なくさないで大事に持って帰ってね」

 わら半紙のプリントが扇みたいに広がっていく。大体みんなしゃべりはじめる。そりゃそうだ、こんなのしゃべらなきゃやってられない。かったるい。

 回ってきたプリントは、B5と書いてあるいつものノートより一回り大きいサイズを二倍にしたもので、左が四つ、右に三つ、日付と献立を書くマスがある。右下には感想欄。献立の部分は「(わかれば材料も)」だそうだ。

「献立のところに点線で枠があるでしょ? そこはちょっと小さいけど、絵を描いてください。どういうお皿にどういう風に盛ってあったかがわかればいいです。うまくても下手でも大丈夫です、評価は変わりません」そこで何人かが笑った。

 俺は感想欄の上から三分の二くらいに点線が引かれているのに気づいた。下の空欄には「保護者の感想」と書かれている。なんでまためんどくさいことを。

「あと、外食をした人は……」

 そこで誰かが手を上げた。

「センセー、日によって親いない場合はどうすんの?」

「それほんとにいないのー? 渡すのめんどくさいからじゃない?」教師は冗談みたいに言った。ちげーよーほんとにいないんだよ! と主張するそいつを「マジかよー」ととなりの奴がつっつく。

「いない場合は、とりあえず「いませんでした」でかまいません。でもできたら次の日にでも、親御さんにその日の分を見てもらって、感想もらってくださいね。あと外食の人は、食べてきた内容を書いてください」

 センセー、じゃあ親が作ってなかったらどうすんの? あとたぶん多くて週四とかしかうちの親帰ってこないんだけど。聞いてもよかったけど、手を上げるのは嫌いだ。あと細かいこと説明するのも。

 頬杖をついていたら授業は終わって、教師は上機嫌で帰っていった。

「ご両親がいらっしゃらない場合は、ごきょうだいとか、おじいちゃん・おばあちゃんでもかまいません。どうしてもだれもいなかったら、先生に言いに来てください。何か対策を考えます」

 だそうだ。

 俺はプリントをノートでも教科書でもファイルでもなく、制服のズボンのポケットにつっこんで、家に帰ってジャージに着替える前にポケットの中身を出すときまでずっと忘れていた。


「プリン♪プリン♪」と歌いながら、トモキが小さいスプーンとガラス製の器に入ったとろけるプリンを持って自分の部屋に入っていく。洗い物を終わらせた俺は携帯をいじる。メールが二通来ていた。一通はタカシから。

『プリントどうする? 俺絵描くのすげえやだっつかはずかしいんだけど』

 本山貴の絵はこう……たしか前衛的ってやつだ。下手を通りこしてると思う。前にやった「となりの人の顔を描く」というお題で、たまたまとなりになった鈴木って女子を、ピカソと……モディリアーニだっけ、やたら顔と首が長い絵の人。その二人を足して二で割ったみたいな絶妙なバランスで描いた。目の上にダンボみたいな耳のようなものがつき、鼻の穴が二つのようで一つにつながり、長い髪を、見たことないけど鬼ババってものがこの世にいたらこんな感じだろうって具合に踊らせた紙の中の鈴木を見て、鈴木本人は、泣いた。

『大丈夫、絵の上に全部文字で解説つければいやでもわかる』

 と返信しておいた。

 もう一通は森からだ。森かの子は同じマンションに住んでいて、学校も保育園からずっと一緒だ。でもこの距離でわざわざメールしなくてもいい気がする。女子ってよく隣同士でも手紙回してるけどそれみたいなもんだろうか。

『どうしよう、お母さんが超張り切ってる』

「張り切ってる」の後ろに涙の顔文字がついていた。

 最近森の母親は料理教室に通いだしたらしい。それですっかりはまってしまい、最近ルッコラだのコリアンダーだの、やたらカタカナの名前の野菜をたくさん食べさせられると嘆いていた。材料のマスを埋めるのが大変そうだ。

 俺は少し考えて、

『たぶんそういうのはそのうち飽きて普通の飯になるんじゃないかな』

 まで打って、少し迷ってガッツポーズみたいな絵文字をつけた。確定。送信。このマンションは電波が悪いので、少しでもマシなほうに携帯の先を向ける。ついでに一応メールチェック。……こない。壁の時計を見ると八時近い。母親はともかく、親父もまだ帰ってこない。そろそろ風呂も入れなきゃなあ、と思いながらプリントを広げる。一週間分の空欄をどう埋めようか。



 次の日、学校に行くとタカシが声をかけてきた。

「おはよー。……あれどうした?」

「あ、おはよ。あれって?」

 俺が聞くとタカシは「あれだよ、あれ」と言った。

「昨日のやつ。家庭科の」

「ああ……」

 結局真っ白のまま寝てしまった。

「タカシは?」

 と先に聞くと、タカシは頭をぼりぼりかいた。

「その……やっぱさあ、絵がさあ」

 言いにくそうに言う。

「そもそもあんな小さいところに描ききれねえよ、絵とかさ」

 字も絵も体もでかいタカシがぶつくさ言った。そして聞いた。

「……そんで、どう?」

「とりあえずてきとーに」

 俺は答えた。うそだけど。

 タカシも小学校からの付き合いだ。俺の家がしょっちゅう俺と弟の二人だけになるのも、よく知っている。たまに遊びに来て、夕飯も食べて帰っていく。

「てきとーかよ。むしろお前ほめられんじゃね?『あらあ、いつも自分で? えらいわねー!』みたいな感じでさあ」

 家庭科の教師のしゃべり方をまねしてタカシが言う。

「……気色わりい」

 俺にとって夕飯はもう作るのが習慣になってるものだから、いまさらそんな言い方されてもなんか嫌だ。あとあの家庭科の教師の変にオペラみたいなしゃべり方で「あらあ」なんていわれたら気持ち悪い上に……腹が立ちそうだ。

「全部親が作ったことにしようかな」

 と言ったらタカシに、

「親の感想どうすんだよ」

 と言われてしまった。たしかにそこまで想像力使ってる暇があったら作ってもらったほうが早い。

「そうだよなあ」

 俺は頬杖をつく。それにトモキがぽろっと誰か知り合いに言ってしまわないとも限らない。

 ……トモキ?

「あ」

 俺は頬杖をやめた。

「え? なに?」

 タカシが顔を近づけてくる。

「親がいなかったらじいちゃんばあちゃんでもきょうだいでもいいんだよな」

「あー、なんか言ってたよな。……トモキ?」

 タカシは気づいたらしく人差し指を立てた。

「そ。感想くらいかけるだろ、あいつも」

 保護者ってわけにもいかないが、小さい弟が一生懸命かいた感想をけなすような学校の教師はいないだろう。それと……俺はちょっとしたいたずらを思いついた。



 2.


 学校から帰って荷物を置いてから、学童保育に行っている弟を迎えに行く。ついでにスーパーで買い物をする。金は大きな婦人物っぽい黒に花の刺繍みたいなのがついたがま口から出す。がま口には一月分の食費と新聞の集金なんかに払う用の金が入っていて、その中でやりくりをすることになっている。あまったら俺のこづかいにしていいっていうのは母親と相談して決めた。

 友達の家に行くとか、そういう予定がなければ、トモキはランドセルのままついてくる。余裕があるときはチョコやらアイスやらお菓子を買ってやったりもする。ちなみに買うときは大入りパックだ。俺も食べるから。

 スーパーに行く道の途中でトモキに相談をもちかけた。

「あのさあ」

「なに?」

 野良猫が歩いているのを目で追いながら声だけで答える。

「ちょっと手伝ってほしいことがあんだけど」

 トモキがこっちを向いた。

「えー、なに」

 想像通り、いやだなあ、という顔で答えるトモキに、

「昨日の分から来週の水曜まで、夕飯はおいしかった、とか、まずかったとか、紙に書くだけなんだけど。トモ夏休みの宿題で絵日記ほめられてたじゃん、あんなかんじで」

 と言ってみた。

 トモキは上を向いて考えて、

「絵かくの?」

 と言った。

「いや、絵じゃなくて、字」

「えー、字ばっかりかよ」

「……絵もあるけど」

 それを聞いたトモキの目がかがやいた。しまった。

「じゃあオレが絵かくからチカちゃん字かけばいいじゃん。それなら手伝ってもいいぜ」

「オレ」の「オ」にアクセントをつけてトモキは答えた。夏休みの宿題で絵日記をほめられて以来、絵を描くのがマイブームらしい。予想外にクレパスと色鉛筆の減りが早くて、食費から少し出すかどうか迷っている。

 それはともかく……親の書くところじゃなくて、絵を担当してもらうというのは……ありだろうか。

 家に帰ってからプリントを出してきて、弟に見せた。

「これなんだけど」

「なにこれ。……なんかあとついてるよ」

「麦茶こぼしただけだから気にしないで。そんで……ここなんだけど」

 献立の絵を描く小さなマスを指さす。

「ちっちゃい」

「……ちっちゃいんだけど、ここに毎日夕飯に何食ったかかいて」

 トモキはしばらく見たあと、

「えーこれめんどっちくね?」

 といってプリントをぺらぺらさせた。

「めんどっちいんだよ……」

 ほんとにな。

「じゃあやらせんなよー」

「俺以外の人にもちょっとかいてもらってくださいっていう宿題なんだよ。親父も母さんもまだ帰ってこないじゃん」

「あー、そっか。チカちゃんオレをたよりにしてんだな」

 俺は考えて(つけあがられたら困るからな)、

「そうだよ。頼りにしてるよ」といってから「あとチカちゃんやめろ」とつけくわえた。

 案の定トモキはえらそうな声で、

「じゃあそれなりの、「みかえり」をようきゅうする」

 と言った。


 帰ってくるとさっそくトモキは俺のプリントを開く。

「今週一週間で母さんが菓子買って帰ってきたら、俺の分も食っていい」

 という条件で昨日の夕飯の絵を描き始めた。まあ、チャーハンだけど。

「にいちゃん、今週お母さん何回帰ってくるかな」

 心底楽しみ! って顔をしてトモキが言う。

「まあ、一回以上じゃん?」

 冷蔵庫に卵と牛乳を入れながら答えると、

「いや三回! 三回以上ないとオレが困る!」

 とでかい声が返ってきた。

 母親は長距離トラックの運転手をしている。夜通しで運転するときもあれば向こうで止まって帰ってくることもあるらしい。家にいても、俺たちが学校に行っている昼間だったりする。だからあまり顔をあわせない。

 トモキは色鉛筆をにぎって口をとんがらせている。

 俺は部活に入っていなくて(だからトモキの世話とかいろいろ出来るんだけど)、趣味も今のところとくに思いつかない。家に帰ってもせいぜい宿題やったりするくらいだ。それもそこまで真面目にやる気はしない。部活のやつは大変だなあ、帰るの遅いし疲れるし、とときどき思う。それでもやめないってことは、夜遅くまで野球やったりサッカーやったりがそんなに楽しいのか。うらやましい?……いや、どうなんだろう。まあ無趣味ってのもなんか微妙だなあとも思うけど。

「できたー! こんなんでいいのー?」

 俺が見に行くと、それなりにチャーハンにみえる絵ができあがっていた。ちゃんとみじん切りの具材も見える。タカシの絵よりよっぽど再現はできてるな。……でも一皿しか描いてない。

「サラダは?」

 聞くと、トモキは渋い顔をした。

「オレあんまり食ってないもん」

「食ってなくても出たら描くんだよ」

「えー、さしずすんなよー」

「文句なら先生に言えよ」

「えー」

 しかたねえなあ、と言うとトモキはまた色鉛筆をにぎる。

 携帯のバイブの音がした。俺のだ。

 見ると森からだった。

『うち今日はビーフストロガノフだって』

 そりゃすげえ。森の家も大変だ。

 時計を見るともう五時半近い。そろそろか。俺は立ち上がる。

「トモ」

 呼ぶと「なにー?」と声だけの返事が返ってきた。

「それ描き終わったら俺の机の上おいといて」

「んー」

 描くのがだんだん楽しくなってきたようだ。よしよし。

 俺は家用のジャージの袖をまくると、手を洗うために蛇口をひねった。


 こんにゃく入りの肉じゃがと青菜のおひたしを作って相変わらず二人で食べたあと、トモキにもう一度紙を渡す。

「悪いけど今日の分もまとめて描いてくんない?」

 水切りが終わった食器を戸棚に戻していたトモキが振り向く。

「え、なんで?」

「つか、全部まとめて描いてもいいよ」

「なにそれ」

 トモキははあ? という顔をした。当たり前だ。俺はバカなことをしようとしている。

「むしろ全部絵のとこチャーハンでいいよ」

「……今日肉じゃがだったじゃん」

 わけわかんない、という目をされる。

「いいから。描くの楽でいいじゃん」

 俺は押し切った。

「オレはべつにいいけどさー」

 トモキは首をかしげながら食器をしまった。

 何をしようとしてるのかというと、一週間ずっと「今日もチャーハンでした」と書いてやろうってことだ。なんでやろうと思ったのか。なんでだろう。完全にはらいせというか、なんというか。意味はない。そういう家も一つくらいあるんじゃないかと思う。あと変に真面目に全部書くのがばかばかしくなった。森の母親じゃないけど、きっとやりだしたら俺は凝ると思う。作るものは変わらないけど、書き方とか。何を使ったとかどこで買ったとか、そういうのを詳細に書き出す自分を想像すると、ぐしゃぐしゃに丸めてぽいっとゴミ箱に放りこみたくなる。なんていえばいいんだろう、気持ち悪い。

 自分のところはあとでまとめて書くつもりだから、紙はトモキが描きやすいように茶の間の出入り口の近くに画びょうでとめておくことにした。

 寝る前になって母親からメールが来た。

『あさってくらいに一度帰ります。またプリン買ってくからね。とろけるやつ』

 と書いてあった。よかったな、トモキ。



 3.


 次の日学校に行くと、タカシが頭を抱えていた。

「……どうした」

 俺が言うと、タカシはゆっくりこっちを見上げた。

「あ、チカ……おはよう」

「おはよう。……なんかあったの」

「俺バカやった……」

 自嘲って言うんだっけ。あーあ、という顔をしてタカシは笑った。

 彼いわく、「最初はただの親子喧嘩だった」らしい。部屋片付けろとか掃除手伝えとか。母ちゃんダイエットしろよとか。だがしかしタカシがこづかいで買ってくる雑誌の趣味までぐちぐち言い出した母親に、ついにタカシはいらっときた。そして、

「そんなに言うならこづかい出すなよ!」

 と思わずどなってしまったらしい。

「それで?」

「それでって、そりゃ……今日からこづかい無しだよ……」

 タカシは涙目だった。口の端が引きつっている。なんだか哀しい。

「かわいそうに」

 俺は同情した。バイトができない中学生にこづかいなしってことは、イコール、収入源なしだ。貯金をきりくずすしかない。

「俺これからどうやって暮らしていけばいいんだよ……」

 嘆くタカシの肩をたたいた。食費をなんとか浮かせて、ちょっとだけほかの人より(俺調べだけど)多いこづかいをもらってる身としては、ちょっとくらいはおごってやってもいい気がするけど、どうしよう。とりあえず、

「まあ、たまには飯食いに来てもいいよ」

 とだけ言っておいた。勢いって怖いな。

 担任がやってきた。朝のホームルームがはじまる。眼鏡をかけた国語教師はいつもやたらと暑苦しい。なんであのテンションが午後まで持つんだろう、ほんと。

 そのまま流れで国語の授業が始まる。一学期の最初あたりにひまをもてあまして教科書の中身を全部読んでしまったのでやる気が出ない。教師は熱弁を振るっている。その話、何時間持たせるんだよ。それよりメロスがいつ裸になったのかのほうがよっぽど気になる。あと買い物袋はどうした。それにしてもこれ全部三日間の出来事か。めまぐるしいな。……先生、眼鏡くもるぞそのうち。

 一時間目が終わったあと、森がやってきた。

「チカちゃんおはよー」

「……そろそろちゃんづけやめてくれよ。お前のせいでトモまで言うんだよ」

 げんなりした声で言ったのに、森は笑った。保育園とか小学までだったらちゃんづけでもよかったけど、中学入ってまでまだ俺をちゃんづけで呼ぶのはもうこいつだけだ。

「えー、いいじゃん。え、トモくんもいうの? かーわいー」

 肩までの髪を揺らして森が笑う。かわいいなんて冗談じゃない。あいつただのクソガキだぞ、うるさいし俺よりマリオカート強いし。勝ったらうるさいし負けてもうるさい。俺はあいつのためにかなりの量のおやつとこづかいを犠牲にしている気がする。

「あたしも弟欲しかったなあ」

 欲しいんならくれてやりたい。トモキのことは別に嫌いではないけど、兄弟なんてめんどくさいことにかわりはない。森は一人っ子だ。

「それでさあ、どう?」

 森は聞いてきた。

「え、どうって」

「料理のやつ。宿題」

「あー」

「やっぱり自分で作ったやつ書くの?」

「まあ……」

 ごまかしておいた。くだらないいたずらの話なんかしなくてもいいかと思って。

「じゃあ杉下くん」

 改まったように森が言った。

「……なに?」

 俺は答える。

「よかったら、なんだけど……」

 森はそこで言葉を切った。

「うん、なに」

 そしてほんとに困ったって顔で俺の目を見て、俺に向かって両手を合わせた。

「……うちの親、止めてくれない?」


 ……森の母親は三日たってもまだ料理に凝り続けているらしい。先週ついにパスタマシーンを買ったのでそれから一週間パスタ三昧。それが終わったと思ったら月曜は皮から作った自家製小龍包と春巻き。昨日はビーフストロガノフ、今日はカレー。ちょっとマシみたいに聞こえるけど、ルーから手作りで肉は圧力鍋で煮込んでたそうだ。そういえばスパイスキットを買ってきて片っ端から開封してるので台所がけむい、という実況メールが朝届いていた。

 止めてくれ、というのはこういうことだ。

「チカちゃ……じゃなかった、杉下くんさ、今日あたりひま?」

「……まあ」

 放課後は基本家事くらいしかやっていない。

「じゃあさ、一回うちにご飯食べに来ない?」

「……なんで?」

 俺は聞いた。森の家には、小さい頃はよく行ってたけど、最近はさっぱりだ。

「ほら、うちのお母さん、あんまり料理うまくないじゃん」

「ああ、うん」

 親が帰ってこない日に森の家に預けられて、一緒に晩ご飯を食べた記憶がある。自分で出来るようになってから行かなくなったけど。味付けがいつも薄いか濃いかのどっちかなんだ。

「でもあたしが『おいしくない』っていってもあんまり聞いてくれないんだよね。『いっつもおいしくないもの食べさせちゃってたからそっちでなれちゃったのかもね、ちょっとはお母さんの腕も上がったから味付けも変わったのよ、きっとこれがおいしい味なのよ』って。はっきりいって全然変わってないんだけど」

 それは面倒だ。

「でもさすがに杉下くんに『おいしくない』って言われたら、お母さんも考え直すかなあって。うちお父さんのほうが料理うまいのね、でも最近お父さんも『母さんが楽しいなら』って遠慮しちゃってて」

「ああ、うん」

 森の優しそうなお父さんを思い出す。ひょろっとした背の高い眼鏡のおじさんだ。森のお母さんはどーんと重量級っぽいから、ちょうど足して二で割ったらちょうどいいと挨拶するたびに思う。

「わざわざそこまでおいしくないもの食べさせるために招待するっていうのも、すごく、悪いとは思うんだけどさ、ゆりちゃんとかけーことか呼ぶのも、っていうか……こんなこといえるのほかにいなくってさあ……」

 女子の友達呼んだらそれこそあとあと敬遠されるってことか。大原はともかく松田はクラスの中ではうるさいほうだ。

「なんかずいぶんめんどくさい付き合いしてんだな……」

 俺はイスの背もたれに頬杖をついた。

「ごめん」

「いや、いいけど」

「プリントには『ほかの学校の友達呼びました』って書くから」

「あー、うん」

 心底悪いと思っているらしい。普段は適当に穴に通しているだけでろくにさわりもしないセーラー服のスカーフをずっといじっている。

「なんか俺もまあ、適当に書くから……」

 すでに適当通り越してるけどな。

「うん。そうしてくれると助かる」

 森は笑った。

「トモくんも一緒でもいいよ」

「あ、そう? じゃあ連れてく」

 作る手間が省けるのはまあ、悪くない。

 チャイムが鳴った。「じゃあまたあとで」といって森は手を振って、席に戻った。なんでこの距離で手振るんだろう。

 授業が始まった。二時間目は社会。またしても一学期の最初に教科書はほとんど読んでしまった。でも日本史の教科書は分厚いから、まだ現代史のあたりが残っている。そのへんをぺらぺらめくっていると、机の上に薄い水色の紙が飛んできた。ごみかと思ったけど折り方が妙にきれいだ。開いてみると、丸っこい文字で「さっきかのこと何話してたの?」と書いてある。だれだ。あたりを見回すと、髪をお団子にした女子と目が合った。手を振られた。松田ゆりかだ。授業が終わったら返事をしようと思ってそのまま教科書をめくりつづけたら、もう一枚同じ紙が飛んできた。開くと「返事」と書いてある。俺はその字の下に「世間話」と書いて半分に折って、教師の目をぬすんで松田に投げた。机のすぐ近くに落ちた紙を松田はなんでもないように拾う。すぐに読んだらしい。紙から目を上げると俺をにらんできた。どういうことだ。だいたいそんな感じだぞ。教師に指されて松田はこっちを見るのをやめた。問題に答える。正解。よく手紙とか書いてて話も同時に聞いてられるよな。

「じゃあ次のページ、杉下読んで」

 呼ばれて俺は、ページをめくって、立ち上がる。

「ええと、『一九四五年の第二次世界大戦かっこ大東亜戦争終結後の日本はマッカーサー率いるGHQによって統治・占領された。帝国議会での協議と国民投票の末、日本は大日本帝国から日本国と名を変え……』」

 横ととなりのやつの顔が笑う。なんだ? と思い教科書から顔を上げると教師が、

「お前どこ見てんだ」

 と言った。

「まだマッカーサーのひいひいじいさんが生まれたくらいだぞ」と続けて笑う。クラスのうちの何人かも笑う。松田も笑っている。

「……すいません、間違えました」

 今やっているのは江戸中期の日本だった。おのれ、松田。


 放課後、帰ろうとすると、松田が近寄ってきた。スクールバッグを両肩に背負って、ジャージの入った袋とバドミントンのラケットを両手に持っている。

「ねー杉下さ、ほんとになにしゃべってたの、かのこと」

「え」

「世間話って?」

「世間話は世間話だろ」

 俺は答えた。

「主婦じゃないんだからさあ」

 松田は笑う。

「なんか拝まれてたじゃん」

 拝む?

「ああ」

 さっき両手を合わせてたことか。

「……別にまあ、俺と森同じマンションじゃん。その関係のことをしゃべってたってだけ」

「その関係?」

 松田は首をかしげた。もうちょっと何か言おうとしたらしく口を開けたが、

「ゆりー」

 と大原に呼ばれてそっちを見た。大原が松田に手を振っている。「先行くよ」という大原に「あ、ちょっとまって」と声をかけてから、

「ま、いいや。じゃあね、杉下」

 と松田は俺に手を振って走っていった。

 ……女子は近距離でも手を振るものなんだろうか。よくわからん。

 とりあえず帰って、トモキにも今日の予定を伝えてこよう。俺は教科書の入ったリュックを背負って二年C組の教室を出た。

 家に着いてから携帯を見ると、親父からメールが届いていた。

『今日は早く帰れます。どこかに食べに行かないか? それとももう作っている?』

 ……タイミングが悪い。仕方ないので、

『今日は俺もトモも森の家にごちそうになる予定なので何も作らないよ。昨日の肉じゃがの残りならあります。飯も両方冷凍庫』

 まで打った。それから考えて、

『もう一人増えてもいいかって森に聞く?』

 と続けて、さすがに三人は迷惑かなーと思いなおして、消した。

『どうするか早めに連絡ください』

 と付け加えて確定、送信。

 誘われなかったら夕食にする予定だった昨日の肉じゃがを、冷蔵庫から出して、タッパーに移して冷凍庫に入れ直す。冷凍なら明日もいける。何回か試したけどまだ腹は壊していない。炊飯器の中のご飯も全部出して冷ます。あとで冷凍庫行き。

 ついでに朝食の後片付けもしようとしたらメールが来た。

『了解です。森ってかのこちゃん? 久しぶりに聞いたなあ。よろしく言っておいてください。家で食べて待ってます』

 親父からだった。やっぱり冷凍しなくていいか。見終わるともう一度携帯が震える。森からだ。

『今日は七時半くらいに来て欲しいそうです。朝から煮込んだチーズ入りカレーらしいよ。見た目はいいけど……あんまり期待しないでね』

 最後に困った顔の絵文字。返事を打つ。

『了解』

 送信。

 さっきタッパーにつめて冷凍庫に入れた肉じゃがはもう一度冷蔵庫に戻した。ついでに冷めたご飯も別のタッパーに入れて冷蔵庫へ。親父にメールを打つ。

『訂正。肉じゃがと白飯は冷凍庫ではなくて冷蔵庫の中です。あっためて食べてください。たぶん九時前には帰ってくる』

 俺はメールはよく打つけど、あんまり人と電話をしない。するとしても家の電話でかけてしまう。あんまり電話しないといけないような用事がないのだ。ほぼメール専用で、通話は警察と救急車とあとどっか一件くらいだけの携帯があったらいいのにといつも思う。きっと売れる。値段も安いだろうし。その分をインターネットに回してくれたらいい。一応パソコンは俺と弟と兼用のが一台あるけど、つけるのが面倒なときは携帯で見るほうが楽だったりするんだ。

 七時半にはまだ十分余裕がある。学童保育もまだ迎えに行かなくていい時間だ。今日は授業が早く終わる。こういうときは部活があるやつがうらやましい。やることがないと基本的に俺はひまをもてあます。とりあえず後片付けをして……コンビニに雑誌の立ち読みにでも行くか。

 まだ着っぱなしだった制服を脱ごうと、俺は自分の部屋に移動した。


 いつものジャージに着替えてから、学童保育から帰ってきてランドセルを置いたトモキと一緒に森の家の前まで行って、インターホンのボタンを押そうとすると、トモキが「オレが押す」といってずずいと前に出た。ぴーんぽーん、と俺の家と同じ音が鳴る。しばらく待っているとぱたぱた足音が聞こえてきて、ドアが開いた。ピンクのチェックのスリッパを履いた森が出てくる。

「いらっしゃい。トモくん久しぶり」

「あ、かのこちゃんだ。その服かわいい」

 制服から着替えた森は、濃い青緑色で長袖の、丈がひざの上くらいまであるハイネックの上に、同じくらいの丈の、薄っぺらい白っぽい色のカーディガンを着ている。下は黒い……レギンスっていうんだっけ。スパッツみたいなの。すそにリボンがついていた。ジャージで来るんじゃなかったかな。それにしてもトモキ、そんな言い回しどこで覚えたんだ。

「お前まずはお久しぶりです、だろ」

 俺が言うと森は笑った。

「ふふふ、ありがとう。じゃあ中へどうぞー」

 と奥に行きかけてから、「あ」となにか思い出したみたいに声を出して戻ってきて、客用のスリッパを出そうとする。普段そんなものを履く習慣がないのでどうしようか迷っているとまたトモキが、

「どーぞおかまいなく!」

 と答えた。うちって普段どんなドラマつけていたっけ? 森は、

「じゃあそうさせてもらいます」と言ってさっきよりもっと笑った。

 久しぶりに入った森の家は、色が全体的に赤とかオレンジ系で統一されていた。小さい頃見たときもそうだった気がする。冷蔵庫には、トールペイントっていうんだっけ、木の枠に絵の具で草花とテディベアの絵が描いてあるホワイトボード。メモがある。「ローレルの葉は食べる前に取り出す」。ローレルって……聞いたことはあるけど入れたことないぞ。そもそもスーパーに売っているのか?

 リビングにはカレーの匂いが漂っている。面倒だからと畳の部屋のちゃぶ台で食べている俺の家とは違い、森家はフローリングの部分に置いた机とイスで今でも食事を取っているらしい。俺とトモキは奥の席に案内された。

 イスに座って台所を見ると、縦も横もでかい森の母親が大きな鍋をかき回している。横からちらっと見上げると、ずいぶん真剣な面持ちだ。……やっぱりジャージで来るんじゃなかったか。森がとなりに行って「お母さん、チカちゃん来たよ」と声をかける。森の身長は平均くらいのはずなのに、母親と並ぶとずいぶん小さく見える……それはともかくチカちゃんはやめてくれ。

 森の母親は顔を上げると俺を見た。

「モトチカくん! ひさしぶり!」

 つられて「お久しぶりです」と俺も言う。トモキが「おばさんこんばんは!」とあいさつすると、

「あらトモくん、おっきくなったわねえ」とこれだけは森によく似た顔で笑う。

「何年生だっけ?」

「小学二年」

「そうかあ、そりゃ大きくなるはずよねえ」

 森の母親は大きくうんうんとうなずいた。

「チカちゃんもまあ、ずいぶん背が伸びて。トモくんくらいのときは、かのちゃんよりちっちゃかったのにねえ」

「え、そうなの?」

 トモキがびっくりした顔で俺を見る。俺と森の身長差は、たしか春の身体測定のときで大体十センチくらいだった。

「チカちゃんってずーっとでっかいと思ってた」

 トモキが言う。余計なことを。

「チカちゃんおっきくなったの、中学生になってからなんだよ」

 森が追い討ちをかける。

「俺の話はもういいじゃん……」

 自分でもわかるくらいげんなりした声で話す。

 森がちらっと母親の手元を見た。

「お母さん、もう十分あったまったんじゃない? こげちゃうよ」

「そうねえ」

 もう二・三度鍋の中身をかき回してから、森の母親はコンロの火を止めた。換気扇も、ひもを引っ張ってとめる。

「かのこから聞いてると思うんだけど、最近私、お料理教室に行きはじめたのね。正直いってご飯なんて食べられればいいや、おいしいものは外行って食べればいいし、って思ってて、あんまりやる気なかったんだけど、だんなにすすめられちゃって。まあ市のやつだから安いし、つまんなかったらつまんなかったでいいわ、やめる理由になるじゃないって思って適当に申し込んだんだけど、それが結構楽しくって。こうなるんだったらもっと早く申しこんどきゃよかったわ」

 にこにこしながら言う。

「今日おじさんは?」

 と聞くと、「今日に限って残業なのよー」と返事が返ってきた。

 森に「かのちゃん、お皿とコップとスプーン出して」と言ってから、森の母親は俺たちに、

「そういうことで、今日は腕によりをかけたカレーをごちそうするわよ!」

 ととびっきりの笑顔を向けた。

 たしかにこれは言いにくい。あんまりおいしくないだなんて。


 結論から言うと、たしかに森の母親の料理は、食べられないわけではないけど、すごくおいしいとは言えなかった。牛肉はほろほろになるほどよく煮込んであって、かつにんじんもじゃがいもも煮くずれてなくて形が残っていたのはすごいと思った。ガラムマサラとチャツネの配合がどうの、カルダモンを何回ふると味がどう変わるだのといろいろ聞いたけど、そのへんは俺にはよくわからない。そこまで凝ったカレーを作ったことがない。

 トモキは帰ってから、「なんか辛かったね」と言っていた。弟は辛いものが食べられないわけではない。我が家の中辛カレーも食べられる。でも森の家のカレーの辛さはスパイスの辛さじゃなくて、しょっぱいからのような気がした。味が濃いから辛く感じるというか。「明日になったら味がなじんでもっとおいしくなるわよ」と言っていたが、さらに煮詰まって辛くなるかもしれない。あとなんか葉っぱみたいなものを何度か食べた。もしかしたらローレルとかいうやつだろうか。

 だがしかし俺は、面と向かって森の母親に「そこまでおいしくない」とは言えなかった。うちの親父みたいに、食べる部分が見つけられない黒こげ卵焼きとか、口に入れて噛むとどうしたら出るのかわからないようながりがりという音がするきんぴらごぼうを出されるならともかく、見た目は完璧、食べられないわけでもないものに対して「苦労が報われてる味じゃないです」というのは残酷な気がしてしまったんだ。「どう? すごいでしょ」と苦労を語るおばさんの前で、トモキは首をかしげながら食べていたけど、自分は「おいしいから黙々と食べているふり」をした。せこいことをしたのはわかってる。でも言えなかったんだ。



 4.


 家の鍵は開いていた。親父がいるからだ。トモキは出迎えた親父に、「お父さんおかえりー!」といって抱きついた。「おお智樹、ただいま。おかえり」と親父は抱きとめる。こんな甘え方めずらしいなーと思っていると、

「おう、肉じゃが食ったぞ。腕上げたなあ元親」

 と親父が俺を見て笑った。

「ま、いつも作ってますからね」

 嫌味っぽく言うと親父は苦笑いをした。

「悪いとは思うんだけどなあ。俺が作るよりは、なあ」

 親父に作らせるくらいならこのくらいなんでもない。生焼けのハンバーグなんてまず衛生的に危ないじゃないか。

「母さん明日帰ってくるってさ」

 俺が言うと親父は、

「こっちにも連絡来たぞ」と携帯を出した。見せてもらうと、俺に来たメールより絵文字の量が多い。目がちかちかする。いや、若々しいのは悪いことじゃないけどさ……。

「つか寒いよ。ほら早く奥行け」

 俺が急かすとトモキは「へいへい」と言って親父から離れた。


 風呂に入ったあと、俺は茶の間の壁のプリントを見た。トモキはなかなか律儀に絵を描いてくれているようだ。三日分埋まっている。十二色の色鉛筆の全色使っているんじゃないかってくらいにカラフルだ。一日目はチャーハン、二日目は肉じゃが、今日はカレーの絵。……あれ?

「トモ」と呼ぼうとして、親父がいたのを思い出す。さすがにばれたら怒られる。「毎日チャーハン食いました」ってあほなうそつこうとしたなんて。

 茶色い輪のついたプリントをちゃぶ台においてため息をついていると、

「トモならもう寝ちゃったぞ」

 親父が部屋から顔を出す。俺の顔を見て、

「おう、どうした。暗いなあ」

 とパジャマ姿で前に座った。

「どうしたじゃねえよ……」

 俺はため息をつく。せめて親父がいつももうちょい早く帰ってきてたら楽なんだよ。ちゃぶ台の上のプリントに気づいたらしくのぞきこむ。

「なんだそれ。授業参観?」

 このあいだ終わったばっかりだ。

「……宿題」

 俺が言うと、親父は、

「へえ。たまには父さん教えてもいいぞ」

 と言った。普段は人の宿題になんて全然口を出さないくせに。親父はとなりの県の私立高校の教師だ。片道二時間かかるらしい。「無理だよ、家庭科だし」と俺が答えると、残念そうな顔で「そうか」と言った。親父は数学の教師だ。俺が小さい頃は、よく間違えて俺の前でも自分のことを「先生」と言ってしまって、母親に笑われていた。

「でも、今の中学校の家庭科ってどんなことやるんだ? あ、技術家庭って言うんだっけか」

 親父が言う。

「どんなって……」

 俺は答えに詰まる。なんていえばいいんだ?

「……来週の木曜の授業は調理実習」

 それだけいうと、

「ほう。じゃあそれは予備指導ってことかな?」

 と親父は眼鏡を押し上げた。

「え、なんでわかんの」

 おどろいて身を乗り出した俺に、あごをかきながら親父は答えた。

「大体どんな授業でもね、実習の前には、予備指導って言って、下準備みたいな教材とか課題を配るんだよ。より理解を深めるためって名目でね。高校の調理実習でも一緒。カレーに入れるじゃがいもの皮をむいて芽をとるようなもの」

 カレーと聞いて、さっき食べた森家の味を思い出した。うーん、いまいち。

「……料理できないのにたとえは料理」

 俺がつぶやくと親父は笑った。

「たとえはたとえだからねえ。……それで、なんなの、それは」

 ここで言ってもいいものか。迷った。

「……一週間分、夕食のメニューをかいてこいって」

「へえ。おもしろいねえ」

 と言うと親父は紙をのぞきこんだ。

「この絵はトモか」

「ん」

「なかなかいいじゃないか」

「夏休みの絵日記から火がついたらしい」

 俺が言うと親父は笑った。おいしいカレーをごちそうすると言ったときの森の母親に似た顔だった。

「あれ、保護者欄?」

 親父がプリントをもう一度見て言う。……しまった。

「ここになんか書けばいいのか?」

 と聞いてくる。

「……いい」

「え?」

「いいよ。親じゃなくても、家族ならだれでもいいらしいから。絵に矢印引っ張って『弟が協力してくれました』って書く。弟が一生懸命描いた絵をだめって言う教師はいないだろ」

 俺の答えに、親父は笑いながら、

「まあ、なかなかいないなあ」と返してきた。

「じゃあ、あんまり遅くなんないようにな」と言ってから親父は茶の間を出て、出口の壁に手をかけてこっちを向いて「おやすみ」と言った。俺も「おやすみ」と返した。親二人の部屋のふすまが閉まる音がする。

 誰もいなくなってから俺はもう一度ため息をついた。絵は色鉛筆でしっかり色がついている。

 いたずらの計画はまっさらだ。


 結局俺は、木曜から日曜まで、実際作って食べた料理をそのままプリントに書き込んだ。やってることは間違ってない。でもなんだかすっきりしない。……まあ、いたずら自体ただの思いつきだったから、やらなくていいことしなかったっていうだけなんだけど。

 木曜の朝起きたら森からメールが来ていた。

『お母さん、「チカちゃんたちがおいしそうに食べてくれた」って自信持っちゃった……』

 返信しづらくて何も書かなかったら、森は月曜まで話しかけてこなかった。

 その日は母親がいつもの土産を持って帰ってきて、俺は約束どおり弟にあげた。デパートでしか売ってないようなちょっと高級なやわらかいプリンだ。

「今週中、お母さんが買ってきたにいちゃんのぶんのお菓子は全部オレがもらっていいんだぜ」

 と胸を張ったトモキに母親が聞く。

「へえ。トモ、なにやったの?」

 母親はトモキに甘い。

 俺がなにも言わないでいるとトモキは勝手にしゃべりだした。

「なんかにいちゃんの宿題でさ、毎日夕飯のこんだて書くんだって」

「あ、ばか」

「へー、おもしろいねえ。なんの宿題?」

 母親はこっちに向き直って聞いてきた。技術家庭だよ、と言うと、

「今そんなことやってんのねえ」

 と感心したように腕を組んだ。

「私のときは男子が技術で女子が家庭科しかやらなかったのよ」

 だそうだ。それだと確実に男子の生活能力は女子より落ちるんじゃないかなあと思ってしまった。

 その日は親父も早く帰ってきて、久しぶりに四人で夕食だった。肉じゃがは親父が全部食べきっていたので、買ってきたアジの干物とほうれん草のおひたしと豆腐。金曜はまた二・三日いないという母親のリクエストでオムライス。土曜はそろそろ秋も本番なので栗ごはんの作り方をネットで検索してまねした。トモキが「ご飯なのに甘くてへんなかんじ」と文句を言った。あと煮物。次の日も残りの煮物と、玉子焼き。

 トモキは小さいスペースに絵を描くコツをだんだんつかんでいったみたいで、後半になるほどきれいに枠の中に料理がおさまっている。これなら先生も文句は言わないか。俺の字は最初から最後までかなり適当だ。むしろこっちにクレームが来そうだった。



  5.


 次の週の月曜、前の休み時間からずっと寝ていた俺は、家庭科の教師の「はーい、じゃあ先週のプリント回収しまーす!」という歌ってるみたいな言い回しの声のでかさにびっくりして、右手から頭がすべり落ちた衝撃で目が覚めた。一番後ろの席から来たプリントの束に自分のも乗せて前に回す。それから机を動かして、班ごとに調理実習で何を持ってくるか分担を決める。……松田と同じ班になってしまった。タカシが一緒なのがまだ救いかもしれない。そのタカシはというと、ひどく落ち込んだ顔をしていた。話しかけても「ああ」とか「うん」しか言わない。こづかい無しがひびいているんだろうか。

 作るのはビーフシチュー。五人の班のうち女子三人がさっさと役割分担を決めていく。俺とタカシは食器を並べるのと切った野菜を入れるのと鍋がこげつかないようにかき回すのとゴミ捨て係だそうだ。男子はだいたい遊んでて手伝わないもんだという前提らしい。俺はともかくタカシはそこまでふざけたやつじゃないぞ。食材は、「なんか適当においしそうなルー買ってきて」。まあ、楽でいいか。

 授業終わりに机を戻していると、松田が近寄ってきて、

「杉下、かのことけんかした?」

 と俺を見上げた。

「え? なんで」

「なんかこんどしゃべらなすぎてあやしい」

「なんでお前に怪しまれなきゃなんないんだよ」

 俺が意味わかんないなあと思いながら頭をかいていると、松田は怒ったように言った。

「だって」

「……だってって、なに」

 意味がわからない。松田は大原のいるほうに行ってしまった。

 給食が終わって昼休み、俺はタカシに話しかけた。

「あのさ……どうしたの?」

 タカシはこっちを見て、

「もうあの親やだ……」

 と言った。こづかいゼロ円以上のことがあったんだろうか。

 くわしく聞こうとしたら、家庭科教師の声がした。教室の前の入り口の近くに立って、タカシともう一人、生徒を呼んでいる。……森?

 タカシはためいきをつくと、

「今日お前ん家飯食いに行っていい?」

 と言った。とくに問題はないのでいいよと答えた。

 どいつもこいつもどうしたんだ。


 弟と一緒に帰ってきて、もう一日甘辛系にしてしまうか全然違うものを作ろうか考えているところで、玄関のインターホンが鳴った。

「はーい」

 とトモキが出る。

「チカちゃ……じゃなくてにいちゃん、タカちゃん来たよ」

 タカシだった。

「いらっしゃい」

「ああ、おじゃまします」

 やっぱり元気がないタカシに、

「今日なんも思いつかないからリクエスト聞くけど」

 と言うと、すごい笑顔で、

「肉!」

 と即答された。

「え、じゃあオレもオレも! パイナップル食べたい!」

 とむちゃくちゃなことを言うトモキに「時期じゃないからすっぱくておいしくないぞ」と答えながら冷蔵庫の中身を見に行く。豚の挽き肉がある。

「マーボーでいい?」

 とタカシに確認すると、

「いいよ!」

 と言われた。メニュー決定。

 ちょうど昨日の夜で冷凍庫のご飯を使い切ってしまったので、タカシとトモキに、

「ちょっと米炊いといてくれない」

 と頼む。二人は「わかったー」「おう」と言った。

「先に手洗ってな」

「はーい」「へーい」

 タカシまでトモキの言い方を真似して、洗面所に手を洗いに行った。


 一時間後、若干辛さ強めの麻婆豆腐ができあがった。炊けてからしばらく蒸らした白いご飯にどんとかけて、れんげで食べる。

「あふい」

 だからトモキ、もっと冷まして食えっていつも言ってるだろ。

「うめえ!」

 タカシが笑う。ペースを見るとどう考えてもおかわりする気だ。多すぎるくらいに作っておいてよかった。

「そりゃどうも」

 俺もおかわりしたい。人間、落ち込んだときと困ったときに食べるのは丼物が最強だと思う。

 腹に入るだけつめこんだあと、皿洗いを手伝ってもらった。流れ作業で俺が洗ってタカシがふいて、トモキが乾いた食器を棚に入れる。そのあとトモキは「オレもう風呂はいるー」といって勝手に風呂場に行ってしまったので(飯を炊いてからどこにいるのかと思ったらさっさと湯をはっていたらしい)、俺がやることをなくして茶の間に座り、ついでにタカシがやってきて座って、今に至る。

 そういえば、と俺は話しかけた。

「今日どうしたの」

「え? ああ」

 タカシは顔を上げる。そして、深ーくため息をついた。困った顔で話し出したのは、水曜の夜のことだった。こづかいがゼロになったのは聞いたが、そのあとだ。

「さすがに、きまずいじゃん。そんなにしゃべれねーじゃん。親と。けんかした次の日とか。そんで黙って食ってたわけよ。でも宿題あるから、何使ったかとかは聞かなきゃなんないだろ。だから聞いたわけよ」

 本山家の夕食はきんぴらごぼうだったそうだ。

「聞いてる間に親父がなんか、ツッコミいれてくんだよ。『うーむ、でもこのごぼうちょっとかたいよなあ』とか『にんじんもうちょっと細いほうが良くないか?』とか」

 微妙にタカシの言い方は物まねが入っている。

「それでさ……」

 タカシは言いにくそうにちょっと間をおいた。

「『あれ、いるじゃないか、杉下さんちの。あの子に一回聞いたらどうだ』とか」

 なんでそこで俺が引き合いに出されるんだ。

「だよな。つか俺はべつにかあちゃんのきんぴら嫌いじゃないぜ。……そんでかあちゃんがきれちゃって」

 父親と母親がけんかを始めてしまったらしい。タカシとタカシの兄の頭上には箸だのお玉だのが飛び交い夕飯どころではなくなったため、途中で切り上げて自分たちの部屋に戻ろうとしたそうだ。

「そこでじいちゃんがいきなりばーんと立ち上がってさ」

 タカシのおじいさんには何度かあったことがある。タカシの後ろにいたら見えなくなりそうな小柄な人で、とても無口だった。

「『うるさい!』って言ってさ。テレビ投げたんだよ」

 俺はしばらくタカシの言ったことの意味を考えた。考えて、

「それで?」

 と続きをうながした。

「それで……とうちゃんとかあちゃんのあいだをテレビが飛んでって、障子突き破って庭に落ちて……じいちゃん部屋に戻っちゃってさ。俺ら全員しばらくぽかんとしてたね」

 おじいさんを見送ったタカシの母親はタカシに言ったそうだ。

「『私の料理で一番好きなのなに?』って言うから、『チャーハン』って言ったら、『じゃあ明日から私チャーハンしか作らないから』って……」

「じゃあ……」

 水曜から日曜までチャーハンしか食べてないのか?

「おう……」

 それをそのまま書いたから先生に呼び出されたってことか。

「マーボーまじうまかったわ。土日ずっとチャーハン食い続けてもう、限界でさあ。給食が神に思えたね。そして晩飯これとか、まじ幸せ」

「そんなに喜んでくれるとは思わなかった」

「喜ぶよ。お前もやってみりゃいいよ毎日チャーハン」

「いや……いいわ」

 さすがに言えない。そういううそをわざわざつこうとしてたなんて。

 そこにがちゃりと音がして、時間差で外の風が流れてくる。

「ただいまー。あれ、誰か来てるの?」

 玄関から直接茶の間に顔を出した親父に、タカシが「おじゃましてます」と頭を下げる。時計を見るともう八時をすぎていた。

「あ、こんばんは。あんまり遅くならないようにね」

 と言うと親父は自分の部屋に戻っていった。

「じゃあそろそろ」

 タカシが立ち上がる。まあ、いい時間だ。

 ああ、とかうん、の中間みたいな返事をして俺も立ち上がって、玄関まで送る。手ぶらで来たタカシは、特に用意もせずに歩いていって、ぼろいスニーカーのかかとを踏まずにはいた。タカシのそういうところが俺は好きだ。

「んじゃ、ごちそうさまでした」

「あーいえいえ。……チャーハン攻めに負けるなよ」

「すでに心くじけそうだよ」

「大丈夫、給食は俺らの味方だ」

「明日の給食のメニューなんだか知ってるか?」

 そんなのいちいち確認していない、と言うと、タカシは哀れっていう言葉が似合うような顔で言った。

「豚キムチチャーハン」


 ちょうど風呂から出てきたトモキと二人でおやすみを言った。部屋の窓から見るとタカシがとぼとぼ歩いて帰るのが見えた。本当に毎日チャーハンにしたらああなっていたのか。実際に毎日作る気はなかったけど、あのままプリントを出していたら、リアリティを出すために、俺はそういう演技をすることになったのかもしれない。

「(演技であの背中か……)」

 無理だと思った。

 相変わらず森からは電話もメールも来ない。

 そのかわりって言うのもなんだけど、水曜日になぜか松田からメールが来た。

『ほんとにかのことどうしたの? なんかめっちゃそのこと言うとスルーされるんだけど』

 考えたけど返事が思いつかなくて、なにも答えずに俺は携帯を閉じた。むしろ俺が聞きたいんだ。



 6.


 日曜日、いつもの買い物のついでに近所のスーパーでビーフシチューのルーを買う。めずらしくついてきた親父がかごの中を見て、

「お、今日はビーフシチュー?」

 と言った。

「いや、明日用。調理実習」と返事をすると、「そういえばこないだなんか紙かいてたな」と親父はあごをさすった。

「よく覚えてるね」

「まあねえ、トモキと合作だなんて珍しいと思ったからな」

「俺も頼んだの初めて」

 俺の、というか俺とトモキ作の一週間の献立表は、少なくともタカシよりは問題なかったらしく、今のところなにも言われていない。話題に困ってタカシの家の親子げんかの話をすると親父は場所も考えずに笑い出した。

「笑いすぎだろ」

「いや……。テレビってそんなに飛ぶんだね」

 本来は飛ばない、きっと。

 必要なものは全部入れたのでレジに並ぶ。夕方四時半のスーパーはちょうど混みだしたところで、俺の前にもほかのレジにも最低三人は人がいる。もう一・二時間遅くなるとだいたい二倍くらいになってしまうから、まだマシだとは思う。親父が言った。

「チカ、あれ森さんのお母さんじゃないの」

 森の? 親父の向いている左側を同じように向く。

「あ、かのこちゃんもいる」

 相変わらずビッグサイズの森の母親の影に、森が見えた。

 森の母親は、何か話しをしているらしく、けらけらと笑っている。食材で一杯のかごを持っている森は、声までは聞こえないけれど、なんとなく浮かない顔のように見えた。森の母親がちらりとこっちを向く。俺たちに気づいたらしい。手を振ってきた。親父が目で礼をする。森はこちらを見ない。列が進んだのに進まない母親の袖を引っ張って前に一歩ずれる。かごの中身を考えるとやっぱりまだ料理にはこり続けているんだろうか。でもれパートとかじゃなくて近所のスーパーなんて品ぞろえはたかが知れていると思うんだけど、足りるんだろうか。こるのは具材じゃなくて調理法ってことか?

「お次のお客様どうぞ!」

 気づくと俺の前にもだいぶ間が開いていた。というかもう次だった。後ろの人に白い目で見られていそうだ。森たちを見るのをやめて、かごをレジに置いた。

 俺が豆腐とか生ものを薄いビニール袋で包んでいる間に、親父が野菜やらペットボトルを半透明のちょっと厚いビニール袋に入れていく。袋に入れ終わったらしい森の母親が近寄ってきた。

「チカくん、ひさしぶり! このあいだはありがとね」

 どん! と肩をたたかれて俺はちょっとゆらっと揺れる。

「……お久しぶりです」

「どうも、お久しぶりです」

 あいさつした親父に森の母親は言った。

「あ、ご無沙汰してます。このあいだね、チカくん家にカレー食べに来たのよ、ね」

「……はあ」

「文句が出なかったところを見ますと、なかなか好評で、ね。私あんまりお料理得意じゃなかったんだけど、これで自信ついちゃった。チカくん自分でお料理するから怖いなーって思ってたんだけど」

「私もどうも料理だけはさっぱりで。子供に頼りっぱなしじゃ悪いとは思うんですが」

「お父さんも今度されてみたら?」

「いやあ」

 親父が苦笑いする。人には向き不向きってのがあると思うぞ親父。

「明日調理実習よね、がんばってねー?」

 と森の母親がからかうように言ったところで、後ろから森が親の服を引っ張った。

「……先帰るよ?」

「え、……ああ、そう?」

 森はこっちをちらっと見ると、母親の買い物袋を受け取って、何も言わずにスーパーから出て行ってしまった。

「最近ずっとあんな感じなのよね」

 森の母親があごに手をあてる。……もしかしたら、ちょっとだけ、俺のせいかもしれない。

「あ、でも明日ね、私もちょっとだけ応援するから」

 森の母親は意味深に笑った。応援? なんだそれ?

「それは、明日までのお楽しみ」

 やっぱり笑うと森と森の母親は少し似ていた。



  7.


 調理実習だけじゃないけど、そういう特別授業の日は朝から空気がそわそわしている。俺が教室に入ると、やっぱり例外なくそわそわしていた。席に荷物を置くとタカシが近寄ってくる。

「おう、おはよう」

「はよ。……まだチャーハン?」

 俺が聞くと、タカシはげんなりした顔で、ああとかうんとか言ったあと、少し明るい調子で、

「でもそろそろ終わると思う」

 と言った。

「昨日の晩飯でかあちゃんがついに『飽きた』って言いだしたからさ」

 作る本人の根気が続かなくなったら終わるだろう。良かったな、タカシ。

 森は相変わらず話しかけてこない。でも見た感じ、松田や大原とはしゃべるようだ。もしや俺だけさけられている?

「……お前森のこと好きなの?」

 タカシが俺を見て小さい声で言う。

「……なんで」

「最近しょっちゅう見てないか?」

「いや……」

 そんなことはない、と思う。

「俺が急にお前としゃべらなくなって一週間とかたったら、気になんない?」

 と答えたら、

「……気になるっていうか、まあ、『えー』って思うかな」

 と返ってきた。

「そういう感じ」

「へー」

 タカシは首をかしげる。そのあと、

「なんかあったの?」

 と聞いてきた。

 ……森のプライベートに関わる話だからなあ。

「あとでメールあたりで」

 ということにしておいた。俺は基本、学校に携帯を持ってきていない。

 担任がいつまでたっても入ってこないと思ったら、隣のクラスの数学教師が代理で出欠を取りに来た。担任は貧血で倒れたらしい。熱血なのに貧血もちって。数学教師は適当に名前を読んで、今日出す数学の宿題の話をちょっとしてから、さっさと戻っていった。


 三時間目の始まる前、移動した家庭科準備室で、女子たちはわいわいしゃべりながら、エプロンをつけたり髪をまとめたり、色とりどりのバンダナやら大判のハンカチを巻いたりしている。男子は、だいたいエプロンは持っていて、人によってはバンダナみたいな布を持っているけれど、三分の一くらいは忘れてきている。ちなみに俺も忘れた。

 そんな様子を見て、こちらも早めにやってきた家庭科の教師は、

「お料理の中に髪の毛が混ざっても知りませんからね!」

 と腰に手を当てていた。

 こっそり森を盗み見る。ちょっと下を向いてバンダナをつけているところだった。ため息をついたのを見られたらしく、同じ班の大原に「森ちゃん暗いなあ!」と背中をたたかれていた。

 チャイムが鳴る。教室がざわっとする。

「はい、では始めてください! 早くしないと時間内に終わんないわよ!」

 お手製らしいエプロンをつけて教師が言う。基本的に毎週三時間目と四時間目が連続で家庭科になっているんだが、授業一回は五十分だから、休み時間を無視したって百十分しかない。普段料理をしない生徒もまとめて指導するわけだから教師も大変だろう。

 俺とタカシは、机の上に並んだ食材を女子たちがそれぞれ手にとって洗ったり皮をむこうとするのを見ながら、空いている流しで手を洗おうとした。

 そこにノックの音が聞こえた、気がした。教室内はうるさかったからもしかしたら気のせいかもしれない。

 がらがらっと教室の前の扉が開いて、教師以外の大人がもう一人入ってきた。

「こんにちは!」

「森さん! わざわざどうもありがとうございます。ごめんなさい、ちょっとだけこっち注目!」

 教師が口に手を当ててもう片方の手を上に上げた。

「今日は特別講師として、この森さんのお母さんにもお手伝いをお願いしてます」

 視線が森に集まった。「なんで?」「さあ」みたいな声が四方の壁から反射している。それに答えるみたいに教師は言った。

「ちょっと実技はね、先生一人じゃ見きれないところもあるかなって思ったのと、このあいだのプリント、森さんのがとってもすごくてね。ね、お母さん?」

「いやだ、そんなことないですよ」

 森の母親は笑う。となりの班で森がため息をついて腕を組むのが見えた。大原につっつかれてなにか答えているが聞き取れない。母がこり倒した料理を森は律儀に全部書いたんだろうか。

「そういうことで、先生たちは教室を回ってますので、手順がわかんなくなったら、聞いてくださいね。はいじゃあ戻ってください」

 俺たちは料理に戻った。教科書に載っている方法で作るので、該当ページをぐりぐり押して開きっぱなしにする。でも食器を並べるのと切った野菜を入れるのと鍋がこげつかないようにかき回すのとゴミ捨て係に任命されている俺とタカシはまだやることがない。

「松田、なんかやることない?」

 聞いてみたら、にんじんの皮を包丁でむこうとしていた松田は、

「今いいとこだから話しかけないで!」

 と言った。どこがいいところなのかわかんないけど、松田の目が必死だったので俺は黙った。

 タカシが「鍋とか出しときゃいいんじゃね?」と言ったので、俺もそうすることにする。タカシが鍋を机の下から出して、俺はお玉と菜ばしとフライ返しとピーラーを教室の壁沿いの棚の引き出しから出してくる。洗ってあるとは思うけど一応水洗いしてふきんで拭く。ついでに「あ、ガスの元栓」まで言ったら同じ班の女子の前園が開けていた。

「いちいち開けんのめんどくさいよねえ」「ねえ」

 ともう一人の女子の江上と話している。

 松田はまだ皮むきに苦戦している。おもわず、やろうか、と言いたくなったが、俺だったら最後まで自分でやれないのは嫌だなあと思ったので黙っていた。でも包丁でむくにはそのにんじんは細すぎると思ったので、松田に話しかけた。

「松田ピーラー使えば。持ってきたし」

「え。……いいよ」

 こっちをちらっと見たがそのまま視線を戻してしまう。

「それ包丁だと食うとこなくなる」

 松田はしばらく考えたが、わかった、と言って、さっき俺が持ってきたピーラーを手に取った。

 もう一人包丁をにぎっていた江上は予想外に手馴れていて、松田がにんじん一本に苦戦している間に包丁でじゃがいもの皮むきと芽を取る作業を終わらせている。あとたまねぎとブロッコリーと肉か。肉は煮込む時間がないからばら肉だ。

「杉下、肉に塩コショウしといて」

「へいへい」

 松田に言われて俺は先生の机から塩コショウのびんを取ってくる。全体に均一にかかるように並べて、振る。

 先生が「煮込む用の赤ワイン配ります」と言ってびん入りのワインを持ってきた。班の数分の大きめのコップに注ぐ。前園が取りにいった。

 班によってはそろそろジュウウという肉を焼く音が聞こえてくる。うちはかなり松田が手間取ったのでちょっと遅い。でもそれ以上に江上の手際がいいから、松田がにんじんを切り終わればもう火を使う作業に入れそうだ。

「本山くん、次なんだっけ」

 江上に聞かれてタカシが教科書の作り方のところを読む。

「えっと、千切りにしたたまねぎをあめ色になるまで炒める」

「じゃあ男子、炒めて」

 松田の指示で俺とタカシが鍋を置いたコンロの火をつける。サラダ油を引いて、たまねぎを入れる。タカシが鍋の取っ手と菜ばしを持った。横から軽く塩コショウを振る。はしがたまねぎをぐるぐるかき回す。「そろそろ肉じゃね?」といって俺が肉の乗ったまな板を持っていこうとしたら松田が止めた。

「待って、あめ色でしょ? ちゃんとあめ色になった?」

 そしてタカシの横から鍋をのぞきこむ。だいぶしんなりしてはいるけどあめ色まではまだ行かない。

「……まだじゃん。もうちょっと」

 と言って松田はまな板を戻してしまった。仕切りたがりって一人はいるよな。ありがたいけど。

 俺の家では、というか家で俺が作るときは、入れるのに手間取ることを考えて早めに入れる。たまねぎはぼんやりしているとあめ色を通りこして焦げる。それならまだちょっと緑っぽいくらいのほうが食べられる。この先まだ煮たりなんだりするわけだしな。

「でもそろそろいいと思うぜ」

 タカシが言った。見るとだいぶ色が煮つまっている。俺はもう一度まな板を持っていって、菜ばしを借りて鍋に入れた。ジュウウというおいしそうな音がする。ばら肉は薄いのですぐに火が通る。早めに水とワインを入れてしまいたい。

「松田、水とかいれていい?」

 一応聞く。

 まな板を洗っていた松田は「え? ああ、……火通った?」

 と聞いてきた。タカシが、

「もう全体的に茶色い」

 と答える。

「じゃあ入れよう」

 と前園が水とワインを持ってくる。まず水の入ったコップを持って、ゆっくりはねないように入れるのかと思ったら勢いよくばっしゃあ! と水を注いだ、というより放りこんだ。じゅああ! という盛大な音がして、タカシと前園と俺は「うわあ」と言って飛びのいた。

「あ、ごめん」と言って前園が笑う。ポニーテールが揺れる。そして右手にはワイン。江上がやってきて「私やるから洗い物してて」と言った。

「わかったー」といって前園が松田のいる流しに戻る。

 江上がゆっくりワインを鍋に注ぐ。火をちょっと弱くする。そして「これこれ」と言って密閉パックからよくわからない葉っぱみたいなものを取り出した。

「なにそれ」

「ローレルだよ。日本語だと菩提樹。煮込むときに入れると臭みが出にくくなるんだよ」

 タカシに江上が答えた。江上詳しいんだな、今度話を聞いてみたい。でもそれには俺が料理をしているという事実を言わなきゃならないのか……。

 前園が持ってきたアク取り用のシートなるものをかぶせてふたをする。ちょっと休憩。洗い物が終わるのを待って、手を洗う。全員肉を触ってる可能性があるからな。

 俺の班からも、ほかの班の鍋からも、ぐつぐつという音とともにいい匂いが漂ってきた。そろそろいいんじゃないかなあ、とふきんの上から鍋のふたを持つ。

「あ、こら! ぱかぱか開けないでよ、冷める!」

 怒ったような松田の声が飛んできた。ぱかぱかもなにもまだ開けるのは二回目で、ついでに一回目に開けたのは前園だ。

「確認も必要だと思うんだけど」

「まだ十分たってないじゃん」

「きっちり守ったらいいってもんでもないんじゃ」

「先生言ってたじゃん、料理は科学だって」

 なんだそりゃ。この分野の授業に入ってから家庭科の時間はほとんど寝ている俺に死角はなかった。

「そうよお、料理は科学なのよー」

 後ろから肩を持たれて俺は思わず振り払った。

 森の母親だった。

「チカくん、調子はどう?」

「はあ、そこそこです」

 びっくりしたのがまだ収まらない。変な汗をかきながら俺は鍋のふたを開けた。蒸気のあとに、それなりに煮込まれた感じのする液体が見えた。

「松田、まだ十分たたない?」

 松田は時計を見て言った。

「あ、もう十秒くらいだから……いっか」

 俺は菜ばしでアク取りシートなるものを取る。前園がにんじんとじゃがいもを持ってきて、入れようとするのをタカシが受け取ってゆっくり入れる。前園は「二回もやらないってば」と言っているが、どうだか。

 江上がもう一つの小さい鍋に水を張って、火にかける。ブロッコリー用だ。

 松田が「おばさん、こんにちはー」と森の母親にあいさつする。森の母親も「あらゆりちゃん、ひさしぶり」と答えた。タカシが何回か鍋をかき回して、またふたをする。森の母親は「ローレル入れた?」と江上に聞く。「あ、はい」と江上が答えた。

 松田はこっちによってきてひょいと鍋をのぞきこんで、それから森の母親に向き直って聞いた。

「そういえば杉下くんとかのこって小学校一緒ですよね?」

 何をいきなり。

 隣の班でルウを砕いていた森が、びっくりして大きなひとかけらを落っことした。「森さんなにやってんの」と言われているのが聞こえる。森の母親は森をちょっと見てから、

「うん。保育園から一緒なのよ。ね、チカくん?」

 と俺に話を振った。俺は、ああ、とか、まあ、みたいな曖昧な返事をする。

「え、じゃあ家族ぐるみとか」

 松田はまだ話しかける。何を言ってるんだ松田。嫌な予感がするぞ。

「ええ、結構ねえ。チカくんとこ、あんまりお父さんもお母さんもお家にいらっしゃらないから、うちでご飯食べたりとかね」

「……へえ」

 松田が答える。自分で聞いておいてなんでそんなにうれしくなさそうなんだ。

 森の母親は続けた。

「あ、でもこのあいだも食べにきてくれたのよ。弟くんと一緒に。私、料理自信なかったんだけど、チカくんにほめられたからやる気でちゃって。今日も来ちゃった。チカくんお料理上手でしょ?」


 森の母親になにか茶色いものが飛んできた。

「あいた。……なにこれ」

 全然痛くなさそうに森の母親は言って、床に落ちたものを拾い上げる。

「かのこ?」

 大原が森を呼ぶ。

 森の手からいくつも茶色いブロックが飛んでいく。森の母親にはまったく聞いていないが、クラスはあっけに取られていた。森は母親に、手に持っていたシチュールウのブロックを投げつけたらしい。

「帰ってよ」

 ぼそっと森が言う。

「かのちゃん?」「帰ってよ」

 戸口のほうへ母親を押す。

「え、でもかのちゃん、まだ授業中でしょ」

「いいから帰ってよ」

 普段特に目立つタイプでもない森が声を荒げていることにクラス内はびっくりしているようだった。

「何言ってるの、お母さん何か悪いこと言った?」

「いいから!」

 森は母親をぐいぐい押す。状況がよくわかっていない森の母親は戸口のほうに押されていく。

「森さん」

 家庭科の教師が出てきた。

「何があったのか知らないけど、お母様はボランティアで手伝ってくださってるのよ? その態度はひどいんじゃないの?」

 森は教師を見て、押すのをやめてしばらく黙ったが、

「家庭内の問題なので」

 と答えた。

「それならなおさら、おうちに帰ってからやってちょうだい」

「最初に引っ張り出したのは母です」

 森は教師の目を見て引かない。

「私の家のことだけならともかく杉下君の家庭の事情までいきなり話し出すのはどうかと思います。ボランティアって、そういう話をするために来たんじゃないでしょう?」

 と言って母親の目も見る。

「え……ただ、普段の話の延長でつい……」

 森の母親は俺を見た。

「チカくん、じゃない、杉下くん、……ごめんね、嫌だった?」

 クラスの視線が俺に集まった。とんだとばっちりにもほどがある。

 ここがどこであれ、だれの口からもれたのであれ、俺の家になかなか母親と親父が帰ってこないのは事実だ。俺が夕食を作っているのも、事実。言おうが言うまいが変わらない。

 だから、だけど俺は、俺は……。

「あ、鍋」

 前園が言った。

 教室中のコンロの上のぐつぐつと煮える鍋。

 家庭科教師が気づいたように手をたたく。

「ともかく、作業を続けましょう! 料理は生き物ですよ!」

 そうだった。これでおいしくなくなってしまうのも困る。消費するのは自分たちだ。

「あー……」

 と江上ががっくりきている。ブロッコリーが煮えすぎたらしい。湯から上げてもちょっと緑があせている。

「大丈夫、原形とどめてればまだなんとかなるなる」

 前園が江上の肩をたたいた。前向きなやつだ。

「前園」

 俺は初めて彼女に話しかけた。

「え?」

「いやあの……ありがと」

「……なにが?」

 ルウをべきべき割っていた前園は、よくわかっていないという顔で答えた。タイミング的にってことだよ。まあいいけどさ。

 前園はそのルウを鍋の中に入れようとする。松田が「ああ」と言って止めようとするが、

「大丈夫、大丈夫」

 と答えて、今度こそ慎重にかけらを入れた。タカシがほっと息をつく。

 それ本当はお玉に乗せて水分とちょっとずつ混ぜたほうが早いんだぞ……と言いたくなったが、ちょっとくらい遅くなっても、タカシがこまめに混ぜてくれているのでこげつかずに溶けそうだ。

 これであとはとろみがつくまで煮込むだけだ。森の班をちらっと見た。森がつい投げてしまったぶんのルウを、もったいないからと水洗いして使用したらなんだか水の味がする、みたいな話をしている。森は小さくなって「ごめんなさい……」とつぶやいていた。

 森の母親は教室の隅で家庭科教師と話をしている。

 時計を見るとそろそろ給食の時間だ。

 教師が森の母親との話をやめて言った。

「今日は調理実習ということで、このクラスの分の給食はパンとサラダとデザートだけ来ることになっています。給食当番の班がみんないなくなっちゃうと困るので、各班一人ずつ手伝いに来てください」

 俺の班は前園が行くことになった。最初は江上が行くと言ったが江上がいないといろいろつらい。

 スプーンだの箸だの、教室の壁沿いの引き出しから食器を出しに行くと、「あたしも」と言って松田がついてきた。

 こっちを見て、気まずそうに言う。

「杉下ん家って、親いないの?」

「いるよ。元気だよ」

「……そっか」

「それだけ?」

 俺は逆に聞いた。

「……えっと」

 松田はさらにきまずそうだ。

「あの、あたし、料理ダメで」

 見てればわかる。

「でもこの機会に、出来るようになりたいなー、とか思ってて、だからすごいがんばって用意とかしてきたんだけど」

 恥ずかしそうにうつむくから髪のお団子がよく見える。

「ぜんぜんだめで。仕切るのも勝手わかんないし。いっそ前園ちゃんくらいに開き直ってればよかったのかな」

「……いや」

 そんなことはない。

「むしろ俺は、そういう風に考えて仕切ろうと思える松田はいいなって思うよ」

 言うと、松田がぱっと顔を上げた。

「ほんとに?」

 俺は意味もなくうそはつかない。

 班のテーブルに戻る。シチューはもう火が止められていた。江上が二・三回かきまぜて手を離す。前園たちが戻ってくる。班の分のパンとサラダとデザート。今日は牛乳かんだ。

 タカシと俺が食器を並べる。松田たちがよそう。

 なにはともあれ、一応ビーフシチューのようなものが出来上がった。だいぶジャガイモが溶けて小さくなっていたけど、まずいにおいはしない。

 教師と森の母親の分もほかの班からよそわれた。

「あ、まだみんな食べないでね? 先生が一応チェックして回ります」

 全部の班がよそいおわると、教師は教室を一周して、シチュー以外のものができあがったりしていないか見て回った。致命的に違うものが出来た班はないようだった。森の班もなんとかなったらしい。

「はい、大丈夫みたいですね。じゃあ今日のみんなのがんばりを祝して、ご飯にしましょう!」

 教師がよくわからない声をかける。生徒に特に反応はない。

 続けていった。

「では、いただきます」

 いただきまーす! とこっちは大きな反響とともに迎えられた。

 ちょっと冷めたシチューを口に運ぶ。無難というか、良くも悪くも普通のビーフシチュー、みたいな味がした。まずくない。

 斜め前に座った江上が話しかけてきた。

「杉下くんも料理するの?」

 だいぶ考えてから、まあ、とだけ言った。江上は笑って、「私も、よく手伝うんだけど……なんかはずかしいんだよね、そういうの人に言うの」と言った。

「趣味がお菓子作りとかだったらかわいい感じするけど、普段の食事の料理手伝ってます、みたいなのって、悪くはないけど変な気使われそうっていうか」

 俺はちょっとびっくりして、江上を見てうなずいた。そう。そういう気持ち。

 別に深い意味はなくて、たまたまやるような状況があって、やってたら出来るようになったって、それだけなんだ。えらいわけでもなんでもなくて、それが普通だったってだけ。

「すごいよくわかる」

 俺が言うと、江上はうれしそうに言った。

「よかったあ」


 森の母親は、俺たちが後片付けをしているあたりで帰っていった。

「私も最近料理に目覚めたばっかりだけど、みんなの中にも、そういう人が一人でも二人でも増えたらいいなって思います。楽しいわよ、お料理」

 だそうだ。

 森はその日一日、一言もしゃべらなかった。

 家に帰ってトモキを迎えにいって、といういつもどおりのやることをやったあと、めずらしく今日は母親と親父が似たような時間に帰ってきた。俺とトモキはもう食べ終わっているので、親二人で温めなおして食べている。ちなみに今日はしょうが焼き。

 トモキは、これもこれでめずらしく、「宿題! 宿題やんなきゃ!」と言って部屋に走っていってしまったので、茶の間には俺と母親と親父が残された。個人的な気持ちだけど、俺は親と話すとき、トモキをクッションにするくせがあると思う。おかげで親と自分だけって状況が苦手だ。うまくはなしかけられない。

 テレビを見ながら仲良く白飯をほおばる両親に、なんとなく俺は話しかけた。

「あのさ」

「ん? どうした、チカ」

 親父が言う。

 なぜか、今日江上とちょっとだけ話したことを思い出していた。

「俺さあ、こういうの、……あの、トモの迎えにいってスーパー行って飯作る、みたいなの、いつものこと、だから慣れちゃっててさ、別になんとも思わないんだけど、……ええと、そういう風な家がそんなに多くないことも知ってるわけでさ。でも別に大変かどうかなんてわかんないんだよ、タカシん家みたいにテレビ飛んできたりとかしないじゃん、家は」

 そのあとタカシのじいちゃんがテレビを投げた話をした。

 母親は爆笑したあと、

「そうねえ。まあ、タカシくんとチカとじゃ苦労してるところが違うもんねえ、……でもこの間言われたのよ、上司に。子供にいろいろやらせすぎだって。もうちょっとかまえって。そういったって仕事は来るからしょうがないじゃない?」

 母親はそこで言葉を切った。

「……チカ、お父さんと私に、謝ってほしい?」

 聞かれて俺は……困った。

 最初、宿題を出されて、いたずらをしようとした理由。かまってほしいから? 違う。注目されたい? そんなわけはない。「食事は親が作るもの」ってことになってる中で全部自分が作ったものを「自分でやりました」って書いて出したくなかった。悪目立ちするのがわかってたから。タカシや森みたいに小さい頃から俺を知っている人ばかりの中で暮らしているわけではない。だからって自分で作ったものを全部「親が作りました」ってうそつくのも無理だった。だったら、親がいないのでありものでチャーハン作ってしのいでました、くらいにしておけば、変な目立ち方はしないし教師も苦笑するくらいで見逃してくれるだろうと思ったんだ。

 俺がそんな迷い方をしたのは、親父と母親が共働きだから、というのもなくはない。この状況を作り出したのは部分的には親たちだ。だったら謝ってもらうか?

「チカ、あのな」

 親父が口を開いた。

「……なに」

「父さんか母さん、このあいだ、どっちか仕事をやめようかって話をしてたんだ」

 しばらく俺は固まった。初耳だった。

「それも含めてちょっと聞いてみたいのよ」

 母親が追い討ちをかける。

 ……今すぐそれ一気に答えろってのかよ。

 何を言おうか頭をフル回転させて考えていると、俺の携帯のバイブが鳴った。親から目線をそらしたくて画面を開く。だれからか確認する。

『今出てこられる? 下の自動販売機のあたり』

 森からだった。

「ごめん、ちょっと」

 俺は立ち上がった。

「ちょっとチカ、どこいくの?」

 母親が眉を寄せる。もう月が出ている時間だ。

「森がなんか連絡があるらしくて。今日話しとかなきゃって」

 俺はもごもごと言い訳する。ごめん森、だしに使った。

「……戻ってきたら返事するから」

 と言って俺は茶の間を出て玄関に向かった。

「もう寒いから上着着ていきなさいよ!」

 母親の声がした。いつものジャージの前を閉めてポケットに財布をつっこんで、スニーカーをつっかけて、家を出た。階段を下りる。



  8.


 自販機でなにか買おうかと物色していると、森がばたばた走ってきた。首のあたりにリボンのついたピンクのパジャマの上に黒いパーカーをはおっている。かかとがぱこぱこしていると思ったら男物のサンダルだ。父親のだろうか。

 迷ったのでボタン二つを同時押しする。コーンポタージュとペットボトルのゆずはちみつ。どっちもホット。がこんと音がしてゆずはちみつが落ちてきた。森が笑う。

「それ、右のが落ちてくるようになってるらしいよ」

「まじで?」

 確認するとゆずはちみつは右の上のほうだ。対してコーンポタージュは左の隅。

「まじか」

「らしいよ」

 森はもっともらしい顔をして言った。

「そんで、なに」

 俺が言うと、あ、という顔をして、森はずっともじもじしている。マンションのすぐ横を通っている路面電車の線路のほうを見ながら、電車がこっちに来ないかなと待ってるみたいだ。言いかけては何度もやめるので俺はだんだんいらいらしてきた。

「……なに?」

 いらいらした声のまま俺は言った。

「うん……あのね」

 森はようやくしゃべりだした。と思ったらくしゃみをした。

「……もっとあったかい格好してこいよ」

 最近やっと、夜が涼しいを通り越して寒い。来週あたりにはきっと本格的に秋になると天気予報が言っていた。

「うん、まだ冬物出してなくて。寒い」

 森は鼻水をすする。そういえばこいつ前まで寝るときは俺みたいにジャージ着てなかったか。Tシャツよりずっと首周りのあいた、パジャマから首と鎖骨が見える。ズボンも少し短くて足首が見えている。髪もまだぬれている。いつもの、セーラー服のスカーフが曲がってようとスカートの長さがうまく調節できてなくて斜めになっていようと気にしない森とは別の人みたいだった。

 俺は落ちてきたゆずはちみつを森に投げた。

「あげる」

「え」

「おごり」

 もう一度百円玉と十円玉を入れて、今度はコーンポタージュを押す。出てきたのを拾う。熱い。ジャージのすそで持っているような感じになる。

 森はだいぶ迷ったあと「ありがとう」と言ってゆずはちみつを受け取った。

 しばらく冷ましながら飲む。

 のどが温まったところで森が言った。

「ごめんね」

「え?」

「今日。お母さん無神経なこと言ったでしょ」

 調理実習のときか。

「ああ……」

 家にあんまり両親がそろっていないこと?

「別に」

 俺は答えた。コーンポタージュを一口飲む。実際うちに両親がいる率は低いし、森の家には何度も世話になっている。それをかわいそうだという人はいるし、そう思うならそうでかまわないけれど、森の母親はそこまで言っていない。それに俺と弟がそれなりにうまくやっていることは知っていると思う。

「どっちかっつうと、森のほうが」

 森は下を向いた。

 しばらくして言った。

「ゆり、いるでしょ。松田ゆりか」

「ああ」

「チカちゃんのこと好きらしいよ」

「え?」

 松田が? 俺のことを? でも、

「……なんかそれ今関係あんの?」

「あるっていえば、ある」

 森も一口ゆずはちみつを飲んだ。

「私とチカちゃん幼なじみだって言ったら、すごいうらやましがってた」

「それどうしようもないじゃんかよ」

「そうなんだけどねー」

 森は言葉を切って、

「そうだって言ってるんだけどね」

 と笑った。

 それにしても……松田のやつ、なんで俺なんだろう。特に目立つような言動はした覚えがない。この間習ったけど、蓼食う虫も好き好きってやつか。自分のことを蓼って言うのもどうかとは思うけど。

「ゆりからさっきメールがきてさ。自分が突っ込んだこといっぱい聞いちゃったからあんなことになっちゃったって言ってて。結局なんにも起こってないんだから大丈夫だよって返したんだけど」

 たしかになにも起こっていない。ちょっとルウが汚れたとかその程度だ。あと、森は怒ると教師をにらむこともあるってみんなが知ったくらいか。

「お前があんなに怒ったの見たの初めてかも」

「そうかなあ」

 怒るようなことが今までおこんなかったってだけだよ。森は言った。

 ……怒らせたくない。

「あとね」

 森は続ける。

「……帰ってからお母さんに、料理まずいって言っちゃった」

 言ってなかったのか。

「ううん、『まあおいしい』くらいのこといってたんだけど。おいしいかおいしくないかだったらまだおいしくない寄りだよって、思わず。チカちゃんもそう言ってたよって」

 森は舌を出した。

 人の意見を勝手に代弁するな……。でもそこまで間違っていないあたり変に反論もできない。

 今日、森家では家族三人で今後の母親のお料理教室通いを続行するかどうかの討論会が行われたらしい。森は潔くやめてほしいと希望を出し、母親はまだ発展途上の腕前なんだからまともになるまで通いたいと申し出た。実は料理上手の森の父親は、

「料理は出来る人がすればいいと思うけれど、うまくなりたいという人のやる気をそぐのは気が進まない」と言って中立にまわってしまったという。

「でもね、やっぱりお父さんはお母さんに甘いのよ」

 森は大人ぶった口調で言った。

「いくら私が言っても、『まだ可能性はあるじゃないか』って言うの」

 最終的に、お料理教室通いは続行、家の食事については、父親と森は作ることを遠慮しない、母親はもっと積極的に味見をしてまずいと思ったら素直に認める、かつまわりに相談する、等の条件ができたという。

 寒い。俺はコーンポタージュの中のコーンをなるべく最後の一粒まで食べるべく、缶を逆さまにしてとんとん叩く。森が笑う。そんなにひどい形相だったろうか。

「まだある?」

 俺は森に聞いた。

「あ、もうちょっと」

 といって森はペットボトルを両手で転がした。

「あの、ね」

「うん」

「カレー食べにきたのチカちゃんだってばらしちゃってごめん」

 森は頭を下げた。

「ばらしたのお前じゃないじゃん」

「そうだけど……」

 どちらかというと気にしていたのは森のほうだ。たぶん女子のほうがそういうのは耳ざといやつがたくさんいるというか、かんぐるやつが多いんだろう。

「むしろ森のが大変なんじゃないの」

「うん……」

 森が歯切れの悪い返事をする。

 ……もしかして、松田が関係あるってこのことか。

「うん」

 聞くと森は答えた。

 放課後、俺がさっさと帰ってしまったあと、森は松田と大原にその件で質問攻めにあったらしい。

「ほかの学校の子っていってたじゃん」

「なんでわざわざ隠したの?」

「むしろ好きなんじゃないの? だから隠したの?」

 等々。

 最後は多分松田だろう。

「こうなるのがやだから最初から別の人ってことにしておこうと思ったんだけど、お母さんが学校に来るっていうのが予想外すぎた……」

 それはそうだろう。俺だって予想できなかった。

「チカちゃんなんか聞かれたりしてない?」

「いや」

 俺は答えた。ありがたいことにまだそういうメールは来ていない。

「あ、でも、明日学校行ったらゆりがなんかいうかも」

「松田かあ」

 松田の思考回路は俺にはよくわからない。まだ江上のほうがわかる気がする。と森に言ったら、

「江上さんは優しいからねえ」

 とのんびり言った。

 それから、

「なんか、変なこと聞かれたらほんとごめんね、私チカちゃんとはそういうこと全然考えてないから。チカちゃんのほうは」

 まで言って俺を見上げた。

 俺は、

「まあこっちもそういうの考えたことないよ」

 と返事をした。

 風が吹きこんできた。路面電車の踏み切りの音。さっきまでも、何分かに一回しょっちゅう聞こえていたはずなのに、カンカンとやけに耳につく。一両のみの小さい電車がそんなにきつくもない坂をゆっくりゆっくり下っていく。

「寒い」

 どちらからともなく言った。

「チカちゃんいっつもそれ着てるよね」

 森が俺のジャージを指さした。そういえばそうだ。制服を着っぱなしにするのもいやだけどいちいち服に着替えるのも嫌な俺は、家に帰るとジャージに着替える。学校の分厚いくせに妙に通気性のいいやつではなくて、ナイロンのカシャカシャいうやつだ。上下黒で白のラインが入っている。さすがに一着はきついので二着持っているけど、結局ひと夏着倒してしまった。俺もそろそろ冬物出してこないとな。

「まあ、くせで……つかそろそろ本気でチカちゃんやめろ」

「あ、ごめんごめん」

 森が笑ってゆずはちみつを飲み干した。

「飲んだ?」

「あ、うん。ごちそうさま」

「……じゃ、そろそろ」

「うん。ごめんね、こんな時間に」

「いや、いいけどさ」

 俺は頭をかく。

 森はペットボトルを持つとごみ箱に向かってシュートした。ゆずはちみつの小さいペットボトルはがこ! と音を立てて一回ふちにあたってからごみ箱に消えていった。

「ナイッシュー」

「どうもどうも。そっちもやろうか」

「いや、いいや」

 俺はごみ箱まで歩いていって缶を入れた。

「堅実ですねえ」

「まあな。面倒じゃん、落とすと」

「落としたら落としたでいいんだよー」

 と森は言うが何がいいんだ。トモキがシュートして外すゴミの清掃員にでもなってみろ、絶対面倒だって思うようになる。

 帰りは面倒なのでエレベーターのボタンを押す。階数表記がゆっくりと下まで降りてくる。ぐわん、と音を立ててドアが開く。このマンションは、最近建ちはじめたオートロックの高級マンションと違って、奇数階にしかエレベーターが止まらない。俺は六階、森の家は三階だ。七と三のボタンを押す。ゆっくりドアが閉まる。もうボロいエスカレーターだから動き出しのたびにぐわん、と音を立てて揺れる。いつ壊れるかわかったもんじゃない。一回から三階まで登る間、なんとなくジャンプ寸前くらいの上下運動をしてみた。森が「ちょっと、止まっても知らないよー」と言って笑う。俺も笑う。そう言っているうちにエスカレーターがぐわん、と言って止まった。まだ二階だ。俺は揺れるのをやめた。森と目を見合わせる。

 五秒ほど止まってまた動き出した。森は笑いながら俺を叩いた。俺は笑いながら「ごめん」と言った。

 三階に着いた。森が降りる。

「じゃあね。おやすみ杉下くん」

「おう、おやすみ」

 森は手を振った。俺もあわせて手を振る。ドアが閉まる。ぐわん、と音を立ててエスカレーターが動き出す。

 少し寂しい気がした。


 家のカギはまだ開いていた。あまり音を立てないように開けて、閉める。カギをかける。

「ただいま」と言って茶の間に入ると、母親と親父はドラマを見ていた。

「こんな展開あると思う?」

 と母親。

「いやあ、あったらいいなと思うから劇の中には出てくるんじゃない」

 親父は笑っている。

 俺がのぞくと、きらきらした街の灯りの中で二人の女が一人の男を取り合っていた。

「あ、チカ。おかえり。お茶飲む?」

 母が急須を持ち上げる。

「ああ、うん」

 俺は台所まで行って自分の湯飲みを持ってきた。母親がちゃぶ台に置かれたそれに日本茶を注ぐ。ありがとう、と言って一口飲む。もうだいぶぬるかった。

 しばらく一緒にテレビを見ていた。男は女のどちらも好きで、それぞれ好きなところが違うから一番なんて決められないと二人に言う。女二人は音もなく立ち上がり、それぞれ一発ずつ男の頬にビンタを食らわせた。

「あのさ」

 俺は言った。

「俺、どうでもいいわ」

 親父と母親は目を見合わせて、とりあえず母親が口を開いた。

「どうでもいいってなによ」

「さっきの話」

 俺はもう一口お茶を飲んで、話した。

「なんていうか……親父と母さんが仕事続けるとかやめるとか、そういうの、親父たちが決めることだろ? 俺の意見も、とか思ってるんなら、俺は二人の意見に従うよ。……でも、それで、決めて、これは俺とトモキのために決めたことだから、とか、そういう言い方はしないでほしい。自分たちのために自分たちで決めるんならそれでいい。……トモはどうなのか知らないけどね」

 あと、と言って、付け足した。

「今さら謝られたりとかしても、それだと今までの生活がどっか悪かったみたいな気になりそうっていうか、……べつに悪いと思ってないから、いい。謝りたいんなら聞くけど」

 最後のほうは自分でもえらそうだと思ったので、「いや、べつにいいんだけど」ともう一回追加した。

 親たちはまた目を見合わせた。

「……土下座してほしいとか言うと思った?」

 俺は聞いた。

「いや、そこまでは……でもお前は、私たちに腹を立てていると思ってたよ」

 親父が言った。そして、肩を落として、笑った。

 そこで一つ思い出して、俺は言うことを追加した。

「でも一つだけ謝ってほしいことがある」

「え、なあに」

 母親が言う。

「俺、プリンは固いのが好きなんだけど……いっつもいっつもどろっどろしたやつばっかり買ってきやがってちくしょう、って思ってた」

 甘いものが嫌いなわけじゃない、だがしかしどうしてもあの高級プリンだけは好きになれない。シュークリームやらケーキに入っているならいい、どうしてわざわざあのどろどろ部分だけを好きこのんで食べなきゃならないんだ。せめて固まれ。焼きプリン化しろ。だからトモキにあげてもたいして惜しくなかったんだ。

 母親は相当びっくりしたらしく、しばらく俺を見つめたあと、言った。

「ごめん、てっきりチカのが大好きなんだって思ってた」




 朝起きるとちゃぶ台の上にメモがあった。


『チカとトモへ。

 しごとに行ってきます。母さんはまた二・三日かえってこられません。父さんともなかなかタイミングがあわなくてごめんね。昨日はひさびさに四人で食事ができてうれしかったです。トモ、すききらいしちゃだめよ。


 チカへ。今までの謝罪の気持ちを込めて。こんなのでごめん。

 あ、これはチカの分だからね。                 母さんより』


 風で飛ばないように重石になっていたのはプリンだった。コンビニでも買える焼きプリン。トモが、

「にーちゃんなにそれ! なんでオレの分ないの?」

 と言っているが、

「トモのお世話代だよ」

 と答えておく。冷蔵庫に入れておいてあとで食べよう。でも朝食につけないとトモに勢いあまって食べられかねない。

「とりあえず着替えて顔洗ってきな」

 夜セットしておいた炊飯器がアラーム音を鳴らす。あと十五分くらい蒸らせばちょうどいいだろう。今日の朝ごはんは……昨日のしょうが焼きの残りと、適当に野菜でも切るか。あくびが出る。なんだかんだいろいろあった気がするが、昨日はよく眠れた。伸びをする。昨日の夜もタカシの家はチャーハンを食べたんだろうか。森家の食事のクオリティは上がるのか。学校に行ったら松田は近寄ってくるだろうか。昨日の話、森からまた松田に筒抜けなんてことないよな。今頃森の母親は朝食作りから張り切っているのか、それともがんばっているのは夕飯だけなのか。ああ、結構いろいろあるなあ。気になること。母さんか父さんは仕事をやめるんだろうか。そしたら料理は……父さんがやめることになったら、きっと状況は変わらないな。

 冷蔵庫を開けてプリンを入れる。昨日のしょうが焼きを出す。


 (終)


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