第1話 one step back(2)

 剛大は昇格の喜びでいつにも増して上機嫌だった。練習の始まる数分前までテンションは最高潮だと言わんばかりに煩くてずっと表情が緩みっぱなしだった。


しかし、僕はというと昇格を一緒に喜んであげられる程、人間ができていないようだ。現に心の奥底では“何か”が燻ぶり続けている。


僕がアイスホッケーを始めたのは剛大よりも前だった、剛大と出会った初期の頃、剛大には言い方は悪いが格下の同級生という認識で接していた。幼少期からそれなりの大きなチームで活動していたせいかチームメイトは仲間でも競争相手ライバルといった考えが拭えず、接していても闘争心が見え隠れすることが多かった。


そこに現れた剛大は何も考えずに話ができる存在だった。そこから時が経つに連れ、成長を続ける剛大を見て、“頑張ってるな”から“負けたくない”に変わり、一心で練習に励むようになって、いつの間にか“コンビ”なんて周りから呼ばれるようになった、その事がちょっと嬉しくて、剛大と一緒にプレイするのが楽しくなった。けれど今は…


「咲場ぁ!」


「!?」


ぼーっと突っ立っている僕の横をビュンっ!とパックが通り過ぎ、そしてその後バンっ!という殴打音が後ろから聞こえた。考え事にふけっていた為、自分へとパスされたパックを取れず壁にぶつかった事を遅れて理解する。


「ただ突っ立てんなら今すぐ防具脱いで帰れよ!」


先輩からの怒号が自分へと向けられる。これはやらかした。


「す、すみません」


「声が小せーよ!」


「すみません!」


そういいながら僕は振り向き、滑りながら進んだ…


今は練習が開始され、ウォーミングアップとしてパス練習をしている所だった。先ほどの出来事が自分でも驚くぐらい尾を引いていて練習が始まってからもずっと上の空だった。剛大がレギュラーに抜擢ばってきされ、昇格したという、たったそれだけの事なのに、僕は剛大との差が明確に現れてしまったという事実にショックを受けていた。練習に集中する為に、すぐさま“何か”の燻ぶりを消すように僕は頭を大きく振った。


アイスホッケーは6対6という事から分かるようにチームスポーツであり、仲間との連携が不可欠であるため、チームメイト同士のコミュニケーションを計る名目でパス練習の相手は学年の違う人と行うのがうちのルールだった。


そして今日の僕の相手は運が悪い事にこのチームのアシスタントキャプテンの1人、細谷ほそやてる先輩だった。この先輩は怖いと評判の先輩だった。確かに目元は切れ目で身長は高く、ヘルメットから軽く出る前髪は茶髪でまるで少し前のヤンキーと見間違うくらいの十分な恐さがあって、怖いという評判に拍車をかけている。しかし、僕はこの先輩のことが嫌いではない。それはこの人のホッケーに対する態度や姿勢が尊敬できるからだ。努力家で、苦しい練習は率先してみんなを引っ張り、練習中にキャプテンと張り合っている姿を何度も見ている。一人、社会人チームやバッカス以外のチームに懇願し、練習に参加させてもらっている姿も目撃したことがある。こんな先輩を怖いの一言で片づけてしまうなんて、それこそ軽薄というものだ。


アイスホッケー選手は見た目が結構バラバラで、骨格がしっかりとしたキャプテンと比べると輝さんは少し細い。しかしそれには理由がある、アイスホッケーは相手に負けないという闘争心やプライドが何よりも重視されるが、その次に必要なのが“体格”である。ことに『チェック』と呼ばれる相手の妨害やパックを奪取する際に行う、いわゆる『体当たり』は体格差がもろに影響する。この『体当たり』は簡単に言っているが迫力は凄まじい。傍から見ると人が潰れるという表現がよく分かる程、相手をまるでスクラップにするような勢いでつぶすのだ。だからこそ体格の大きな選手が有利になり、相手を倒し、自分は倒れない事に特化している選手もいる。体格に恵まれず、力勝負では劣る輝さんは『チェック』に対し、人をつぶすのではなく、かわすためにスピードに特化したのだ。うちのチームで輝さんは一番の速さを誇る。


だが、先ほど言ったように、それは輝さんが考え、努力し、導き出した輝さんなりの“答え”なのだ。そんな先輩だからこそ、1軍の座に就いている。


そんな輝さんは当然、練習に不真面目な奴には容赦ない。前回の練習では同期の一人がサボって手を抜いているのを輝さんに見つかり、氷上から追い出されていた。


「はやく取ってこい!」


背中からまた輝さんからの怒号が響く、明らかに声色に不機嫌さが出ている。


「はい!」


すぐさま全力疾走し、壁にぶつかったパックを拾い、元へ戻る、輝さんの顔はヘルメットのおかげで全体はよく見えないが目元は険しい表情をしていた。怖い目がますます細められていて直視する勇気はなかった…


雑念を一旦払い、向かい合っている輝さんに集中する。僕の2つ上の3年生、のちの4年生だ。輝さんや、キャプテンにとっては最後の1年。1日も無駄にはしたくないはずだ。


そのことが影響してるのか、最近チーム内はいささかピリピリとした緊張感が漂っている。僕はこの空気感に感化され、開いてしまった剛大との差を埋めるために、もっと努力しようと決意して練習を再開し、真摯に練習と向き合った。気づけば練習が終わる時間になっていた。


疲れ果てて家へと帰宅した僕は静かな部屋にドスドスと足音をわざと立てながら浴室へと向かいシャワーを浴びた。俯きながら前髪から垂れ続けるお湯を眺めて心を落ち着かせる。垂れるお湯はまるで自分の中から漏れ出る“何か”が具現化したみたいだった。


練習が終わると集中力が切れ、頭の中では、剛大の昇格のこと、自分だけが置いていかれてしまうという焦燥感、自分の中で燻る“何か”が気分を沈める原因となって自分を蝕んでいく…自分が腐っているのが自分で分かる。一体僕はどうなりたいんだ。


僕は今…ホッケーが楽しくない。嫌悪まで感じてしまっている。なんで僕はアイスホッケーという競技を続けているんだ。それが…分からない。


剛大と一緒にプレイするのはとても楽しかったはずだ。お互い切磋琢磨し合って、充実という言葉がすんなりと出てきた。しかし、今は、今日は、胸が苦しい。アイスホッケーをしていても、剛大と話していても、一人でいても、心の中にある“何か”が僕を狂わせて、なぜだか涙が出た。


浴室の棚にあるシャンプーのボトルを乱雑にプッシュし、液をいつも出す何倍も多く出し、髪の毛を強引にガシガシと洗う。頭皮が悲鳴を上げ、頭頂部には痛みが走る。その間も目からは涙が止まらなかった。


練習の終了後、剛大から練習前に取り付けた約束のラーメンに一緒に来ないかと誘われた。キャプテン達も来ていいと言ってくれたが、僕は行く気にはなれなかった。今すぐにでも帰って一人になりたかった。なのに、僕は良い断り文句が思い浮かばず、ゴニョニョと言い淀んでいると、僕の気持ちを知る由もなく、剛大が僕の腕を引っ張って連れてかれてしまった。


ラーメン屋には、僕、剛大、キャプテン、輝さんの4人で行くこととなった。ラーメン屋に向かう道中、剛大はキャプテンと楽しげに話し、輝さんは後ろから黙って歩いていた。僕はその3人から数歩距離を取り、俯きながら歩くしかなかった。数回、輝さんが僕の方を振り返ってきたが話しかけてくることはなかった。ラーメン屋に着くと食券を買って貰ってからボックス席に座り、注文した商品をひたすら待った。練習前はご相伴(しょうばん)を願ったものだが、今となっては一刻も早く帰りたい気持ちでいっぱいだった。


「腐るなよ」


急に横に座る輝さんが話しかけてきた。その短な言葉の中にある意味は僕を羞恥に染めるのに十分だった。この人は僕の胸の内を理解したのだ。されてしまった。


僕は立ち上がり、トイレへと向かった。急に立ち上がった僕をびっくりした目で見つめる正面の二人の視線から逃げるように僕は走っていた。トイレの個室に入ると、急に胃から這い上がってくるものに耐えられず、嘔吐した。もう心は限界だった。僕は個室から出ると、店を出てしまった。駅までふらふらと歩き、電車に辛うじて乗ると空いている席に座り、うずくまった。第三者の目から見ればこの時の僕はなんと無様な姿をしていたことだろう。


しばらく放心し、落ち着いた所で携帯電話を取り出し、キャプテンに『LINK』と呼ばれる通信アプリでメッセージを送る。


『すみません、少し気分が悪いんで先に帰らせてもらいます。ラーメンのお金は今度お返しします。』


単調な連絡となってしまい、申し訳なく思ったが今はこれが精一杯だった。しばらくするとキャプテンからメッセージが届いた。


『分かった、お大事にな』


何も詮索してこない事に若干驚きつつも、キャプテンにもばれているのだと悟った。


「悪いことしちゃったな。」


そんな心にもない事を口走りながらシャワーの蛇口をひねった、気分は少し落ち着いている。風呂から上がり、髪を拭きながらスマホの画面に目を向けるとなにやら不吉な文字が表示されていた。画面にはこう表示されている。


『今から行くわ!』


まぎれもない剛大からの連絡だった、


「勘弁してくれ…」


先ほどやっと気持ちが落ち着いた所だったのに原因が向こうから近づいてきた。すぐさまスマホを掴み返信を打とうと思った瞬間、家のチャイムが鳴った。

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