二人の距離
いつの間にか、パイロンが目を覚ましていた。まだ眠気の残る顔で、俺に抱きつく。
「何だよ、ニヤニヤして」
「もっと褒めて褒めて」
「バカ、もう何も言わん!」
「えーっ」
俺を抱きしめてゆらゆらと揺れながら、パイロンが残念そうな顔をした。
「もういいから離れろ。帰るんだから」
早く帰らないと家の連中に怪しまれる。ただでさえ、帰りが日に日に遅くなってるからな。
だが、パイロンが体勢を入れ替える。俺にのしかかってきた。
至近距離で、俺はパイロンと見つめ合う。
いつものジョークだと思った。
けれど、パイロンの帯びた熱からは、冗談の気配は感じない。
真琴もクヌギも、知らないうちに姿を消してるし!
「んん!?」
引きはがそうとしても、パイロンの身体が離れない。こんな細い腕のどこにこんなバカ力があるのか。
パイロンは、赤面して瞳を潤ませていた。俺より有利な体勢のはずなのに。
「今日は本当にありがとうね、爽慈郎」
「いいや。ま、まあ、こういう契約だしな」
俺の方が冷静になってるとか、意味が分からん。
「そうじゃなくて、そういうお仕事とか関係なくて、何というか、とにかくありがと」
支離滅裂な言語を、パイロンが連発する。自分でも何と言っていいのかわからないのか。
「俺も、販売なんて初めてだったから、不備があった。悪かった」
ブンブンと首を振って、パイロンは俺と視線を合わせる。
「そんなことない。すっごく助かったもん!」
「ありがとう、パイロン。じゃあ俺、帰るから。またな」
俺が礼を言うと、パイロンはもう見ていられないくらい顔を赤くした。
「うう、泊まっていけばいいのに」
「俺だって泊まりたいさ! ずっと一緒にいたい!」
しがみつこうとするパイロンを、身を切る思いで遮る。
「ふみゃあああ!」
俺が真意を伝えると、パイロンが発情した猫のような声を発した。
「今の言葉ホント? 爽慈郎?」
「もちろんだ! 俺だって男なんだよ。当たり前じゃないか」
そりゃあ、夜遅くまで片づけ作業をしてもいいようだし、掃除だって一晩中できるならしていたい。あんまり夜遅いと、洗濯機や掃除機なんて音を気にして動かせないからな。
「俺にも向こうに生活がある。ここに留まりたいが、向こうに心配もかけたくない」
「そ、そうだよ、ね」
シュンとした顔で、パイロンが肩を落とす。
「爽慈郎様、今の言葉は語弊があるかと」
「そうか……あ」
自分で言ったことを脳内で反芻し、ヤバいことを言ったと思う。
「ですが、お嬢様の誘惑には、つられそうになったでしょう?」
「まあ、な。正直悪い気はしなかった」
あんな事をされて誘いに乗らないなんて、自分でも白々しいと思う。
しかし、今パイロンと際どい関係になれば、舞い上がって掃除や部屋の片づけどころではなくなる。その場の勢いで、変な気分になってはいけない。そうなれば、俺はとんでもないミスを犯すだろう。
それではダメだ。煩悩を断って、明日に備えなければ。
「わかったよ、爽慈郎。おやすみ」
「また明日な」
後ろ髪を引かれる思いで、俺は帰宅した。
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