5-9 燃え落ちる兄弟  ……ミカエル

 異変に気づいた瞬間、感嘆の息は凍りついた。


 誰が最初に異変に気づいたのか、底知れぬ悪寒が連鎖的に絡みついていく。誰もが、南の地平線に燃える朝焼けを前に、固唾を飲む。

 その朝焼けが何を意味するのか──考える前に、ミカエルは馬に拍車を入れ、駆け出していた。


 風が逆巻く。馬蹄が雪を蹴るたび、灯る色が色濃くなり、舞う粉雪が熱を帯びていく。


 そして、夜が明ける──月盾騎士団ムーンシールズの野営地は、燃えていた。


 野営地に近づくと、いきなり歩哨に銃撃された。

「味方だ! よく確認しろ!」

 ミカエルは外交旗を示し、歩哨を怒鳴りつけた。撃たれたが、幸い当たった者はいなかった。

 敵でないこと、交渉から帰還したことを大声で伝え、馬を進める。野営地の外周部には防衛態勢が敷かれているが、兵たちは明らかに浮足立っている。個々の武装はバラバラで、鎧兜がない者どころか、寝間着のままの者さえいる。

 まず、防衛の指揮を執る者を呼ぶ。すぐにウィッチャーズがやってくる。

「ウィッチャーズ! 何があった!? 状況は!?」

「物資保管庫で火災です。延焼は防ぎましたが、火元の消火は不可能です」

 現状、騎士団で最も実戦経験豊富な将校であるウィッチャーズは、いつも通り冷静だった。ただ、体からは少しだけ酒の匂いがした。

「原因は!? 兵は敵襲だと騒いでいるが、本当に敵の仕業なのか!?」

「アンダース様は敵の密偵が入り込んでいたと言っています。ただ、私が起きたときには火は燃え広がっており、私自身は確認はできていません」

 まずい状況だった。情報が錯綜している。ウィッチャーズの言葉も歯切れが悪い。敵の真偽はともかく、曖昧な情報で群れが動いている。

 まずは、状況を見極めねばならない──ミカエルは冷静になるべく、深く息つき、呼吸を落ち着かせた。

「密偵についてはアンダースに訊こう。まずは損害を確認し、態勢を立て直す」

「物資の被害は甚大ですが、人的被害はそこまでありません。頭数は足りています。しかしその……、ディーツ殿が行方不明です」

 こんなとき、副官のディーツが健在なら、どれだけ頼もしかっただろうか──そう思った矢先の失踪は、事態の深刻さを物語っているようだった。

「留守を預かりながら、このような事態になってしまい、面目次第もありません……」

「気にするな。君にばかり負担をかけてしまってしまった私の責任でもある。それよりも、今は補佐を頼むぞ!」

 ミカエルはウィッチャーズに追従するよう促すと、アンダースのもとへ向かった。


 ウィッチャーズが言った通り、物資保管庫はほぼ全焼の有り様だった。兵たちも幕舎への延焼を防ぐので手一杯だったのか、消火はほとんど諦めている。

 そんな燃え盛る炎の前で、月盾の軍旗が翻る。

「いやぁ兄上! ご無事の帰還、何よりです!」

 騎士団旗を持つ、一人の月盾の騎士──青羽根の飾られた長つばの騎兵帽、髑髏どくろの紋章が刻まれた一点物の胴鎧、きめ細かな意匠が施された歯輪式拳銃ホイールロック・ピストル、艶めく赤銅を湛えた刺剣レイピア──名だたる工房の武具技師たちに作らせた軍装に身を包むアンダースは、ニヤニヤと笑っていた。

 一目見て、普通の状態ではないとわかった──青い瞳は、爛々と燃えている──弟は、異様なまでに興奮していた。

「〈帝国〉との交渉はどうでした!? 何か成果は!? 野蛮な北部人どもに話が通じたのならいいのですがね!」

「こちらは特に問題はなかった。それよりも、まずはここで何があったか説明してくれ」

 明らかに不穏な空気が垂れ込めていた。ミカエルは距離を計りつつ、弟に説明を求めた。返答自体はウィッチャーズが先ほど話した内容と大差はなかったが、威勢よくまくし立てる言葉の数々は、どうにも要領を得なかった。

「アンダース、まずは落ち着いて状況を整理しよう。これは本当に敵の夜襲なのか? 他に敵の姿を見た者はいないのか?」

「敵襲ですよ! 夜明け前に、姑息にも放火して我らを攪乱しようとするなど! せっかくの騎士団の勝利も、勝利の宴も台無しですよ!」

「宴だと!? 飲んでいたのか!? その間、見張りはどうしていたのだ!?」

 冷静に話を進めようと思っていたにも関わらず、ミカエルは声を荒げてしまった。

 ウィッチャーズをはじめ、多くの者が視線を落とす。だが、アンダースだけは悪びれる様子も、いつものように憮然とすることもなく、笑っている。

「勝ったんだから少しくらいは勝利の余韻に浸ってもよいでしょう! そのぐらいしてやらねば、ここまでついてきた兵たちがあまりにかわいそうですって!」

「だとしても! その結果がこれでは、部下たちに示しがつかないではないか!? 名代としてもっと自覚ある行動をするべきだったろう!?」

「ハイハイハイ! わかってますって! いつもいつも……、兄上は気にしすぎなんですよ! いいですか!? 指揮官ってのは……、月盾の長たる者は、もっと泰然自若としているべきなんです! 何でもかんでも事細かに文句ばかりつけて、いつまでも親父みたいなツラすんな!」

 アンダースが、笑いながら怒鳴り散らす。あまりの剣幕に、ミカエルは思わずたじろいだ。

「あのクソ親父は死んだんだ! 親父は憤死だ! 歴史書には憤死って書かれるんだ! お笑い草だ! ざまぁみろ!」

 まるで会話がかみ合わなかった。何が原因かは不明だが、弟は気が動転しているとしか思えなかった。ミカエルの言葉に返答こそしているが、恐らく内容はまるで理解していないだろう。

「……わかった。火災についてはどうしようもないから、まずは敵の襲撃に備えよう。さぁ、軍旗を渡してくれ」

 ミカエルはゆっくりと距離を詰めようとしたが、あろうことかアンダースは歯輪式拳銃ホイールロック・ピストルを抜くと、それをミカエルに向けてきた。


 絡みつく緊張の糸が、一瞬にして張り詰める。


 この場にいる誰もが、困惑しながら剣や拳銃に手をかける。それを誰に向けるべきかもわからずに……。

 唯一、従士のヴィルヘルムだけは抜刀し、剣先をアンダースに向けた。ただ、剣を持つ手は震えている。

「剣を収めよ、ヴィルヘルム」

 このままではらちが開かない。アンダースはもちろん、アンダース隊の将兵らもなるべく刺激しないように、ミカエルは古めかしい直剣と短剣をベルトから外し、拳銃を革袋ホルスターごと外し、地面に置いた。

「ミカエル様!? いけません!」

「大丈夫だ。任せてくれ」

 狂気に呑まれているとしても、弟の気性は理解している。何を求め、何に執着しているのかも──。

「火蓋を閉じろ。暴発するぞ」

 ミカエルはアンダースと間を置き、待った。その間も、弟はずっと引きつった笑みを浮かべていた。


 どれだけの間があっただろうか──ただ、燃える音だけが冬の朝を焦がす。誰も何も言わないし、動かなかった。体も、呼吸さえもが、凍りついたように静かだった。


 そのとき、空のどこかで、北風が哭いた。


 風の音に気づいたと同時に、鋭い衝撃が体を貫く。重い痛みが、背中から腹を抉る。撃ち抜かれた腹から、矢じりの先端が顔を出す。穿たれひしゃげた鎧には、血肉が滲んでいる。

 崩れ落ちるミカエルの視界の隅で、無数の矢が降り注ぐ。何人もの兵が、ミカエルと同じように矢に貫かれ倒れていく。


 血を帯びる北風が、炎に煽られ吹き荒れる。

 兄弟の視線が交錯する。ミカエルが見上げる先で、騎士団旗を持つアンダースが、震えながら後退あとずさる。

「どこに行く気ですか!? それはあなたの物じゃない!」

 飛び出したヴィルヘルムが、アンダースに掴みかかる。手を伸ばし、騎士団旗を奪い取ろうとする。

「黙ってろこのクソガキが!」

 抵抗するアンダースの拳銃が火を吹く。ヴィルヘルムの頭蓋が吹っ飛び、血が出る。噴き出る血が、ヴィルヘルムとアンダースの二人を赤く染める。

 倒れたヴィルヘルムはしばらく痙攣していたが、虚空を仰ぐその目はとうに光を失っていた。

 アンダースが死んだ少年の体を蹴り、唾を吐く。血眼になったその青い瞳は、やはり笑っていた。


 辛うじて残っていたか細い糸が、切れる。


「大丈夫ですよ兄上! あとのことは全て俺に任せて下さい!」

 弟の声は勇ましかった。しかし、軍旗を抱え、古めかしい直剣を拾い抱える弟の青い瞳は、ミカエルのことなど見てはいなかった。

「ジョー! 一緒に来い! 逃げるぞ!」

 凍りつく静寂に、狂気染みた一声が響く。アンダースがウィッチャーズを手招く。対して、ウィッチャーズは直立不動のまま応えない。

 ウィッチャーズの応答を待たず、また矢が風を切り、降り注ぐ。無数の矢が月盾の軍旗を掠め、次々と地面に突き刺さっていく。

「敵を迎え打つ! 動ける者は私に続け!」

 ウィッチャーズが剣を抜く。飛んでくる矢を打ち払い、前線へと駆け出していく。

「月盾の騎士団旗はここにあるぞ! 死にたくない奴は俺について来い!」

 返り血に染まる弟が叫ぶ。麾下の幕僚らを引き連れ、矢が届かぬ方向へと走っていく。


 「逃げろ」と叫ぶ弟の声が遠ざかっていく。


 混乱が渦巻き、雑踏が入り乱れる。もはや統制は失われている。


 声は出なかった。部下が体を支えてくれたが、立ち上がることはできなかった。重く、苦しく、朦朧とするときの中、ミカエルは目を閉じ、まぶたの奥に広がる白い闇に身を任せた。


 戦に敗れ、崩れ落ちたあのときとは、また少し感覚が違っていた。

 何かが、ゆっくりと体から抜け落ちていく──多分、これで終わるのだ。月盾騎士団ムーンシールズも、ロートリンゲン家も、この冬の日々も。

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