5-10 自分にできること ……セレン
色のない冬の朝陽が窓辺に揺れる。
何となく、セレンはその陽を追った。窓の外を見ると雪が降っていた。
移動は退屈だった。始めのうちは同伴するリーシュや侍従たちと話していたが、やがて会話もなくなった。
暇なので、読むでもなく聖書に目を通した。しかし、神の言葉よりも指のささくれの方が気になった。ささくれをちぎり取ると、血が出た。
「お止め下さいセレン様。みっともありませんよ」
注意するリーシュがハンカチを取り出すが、拭き取る前に血は止まっていた。
不思議そうな顔をするリーシュをよそに、セレンは眠いといった顔をして目を閉じた。
目蓋の向こうに、茫洋とした白い闇が広がる──怖気を感じるほどの寒々しさは、しかし今は温かいように感じた。
どこからか、風が音を運んでくる。軍靴、鼓笛、馬蹄……、物々しい行軍の音がリズムを刻む。現在、セレンら第六聖女親衛隊は、ハベルハイム将軍の軍勢とともに、
クリスタルレイクの戦いが終わり、三週間が過ぎた。教会遠征軍の第二軍を率いるヴァレンシュタイン元帥は、遠征の旗印である第六聖女親衛隊とヨハン元帥の残存部隊は接収したものの、
ぼんやりとしたときの中、セレンは馬車の揺れに身を任せ、事の成り行きに思いを馳せた。
*****
〈第六聖女遠征〉が始まって以降、セレンは初めて人に意見した。
初めて、というのは正確ではないのかもしれない。しかし、意見を発すること自体が相当に珍しかった。
普段は教皇や大司教らの指示に従っていればよく、意見をするどころか、考えることすらしてこなかった。だからか、緊張で声は上擦り、内容も支離滅裂だった。それでもセレンはヴァレンシュタイン元帥に、「
セレンの言葉を聞くヴァレンシュタイン元帥の鉄面皮はいつも通りだったが、返答までの沈黙はやや長かったように思えた。
息苦しさを感じるほどの沈黙のあと、元帥は幕僚たちを集め軍議を始めた。終始騎士団を罵倒するハベルハイム将軍の大声の横で、様々な意見が交わされた。騎士団の境遇への同情、救援計画の検討、〈帝国〉と交渉する場合の利用価値、そして今後の付き合い方……。ただ、現状は足手まといであり、関わりは最小限に留めるべきだという声が大勢を占めた。
一通り意見が出終えると、全員の視線が一人の男に収束する。無言で軍議を聞いていたヴァレンシュタイン元帥が、少しの沈黙ののち口を開く。
元帥は、
次いで、ハベルハイムが輸送部隊の指揮官に指名される。当人はやはり悪態をついたが、元帥がもう一度命令すると素直に従った。
このとき、セレンはまたヴァレンシュタイン元帥に意見をした。
軍議が終わると、すぐに将兵たちが動き出した。
色々なことがあまりにもあっさりと進み始めた。セレンのたった一言二言で、止まっていたときは再び動き出していた。
ただ、なぜヴァレンシュタイン元帥が意見を聞き入れてくれたのかはわからない。深海の玉座という謎めいた紋章が表すように、その鉄面皮の奥の感情はやはりよくわからなかった。
*****
ぼんやりとした時間が続く。昼頃には着くはずだが、到着まではまだしばらく時間がかかると言われた。セレンは馬車の揺れに身を任せ、眠ろうとした。
そのとき、空のどこかで北風が哭いた。
冬の雷鳴、北風の笑い声、戦いの狂騒──聞き慣れた、忘れえぬその音に、セレンの背筋は凍りついた。
セレンは馬車の窓を開け、外を見た。
見上げた先で、また冬の空が燃えていた。
恐らく誰もが見ていたであろう方角から、黒煙が立ち昇る。それを前に、群れが小さく震える。親衛隊の誰もが、遠くから聞こえてくる戦いの狂騒に足を止め、固唾を飲む。
一瞬の沈黙を、親衛隊長のレアの号令がかき消す。物見の騎兵が四方に走り出す。行軍縦隊が解かれ、セレンの馬車を中心に方陣が組まれる。
どうなるのか、どうすべきか──セレンがそれを考え終える前に、ハベルハイム将軍の伝令がやってくる。そして開口一番、全軍撤退を命令する。
「
レアは伝令に食ってかかったが、伝令は口上だけ伝えると、さっさと引き上げてしまった。
ハベルハイムの軍勢から、早々に撤退の鼓笛が響く。最初から
取り残された天使の錦旗が、北風に揺れる。
すぐに物見が戻ってくるが、風は重いままだった。その静けさに耐えられず、セレンは馬車の窓を開け、レアに声をかけた。
「レア。
訊ねたが、レアや幕僚らの表情は暗く、口調も重かった。
「敵は帝国軍第三軍団の
「そんな……。何とか……、何とか持ち堪えられないのですか?」
「いくら精強な騎兵でも、統率の取れた主力部隊に当たる際は、歩兵と砲兵と連動して動くはずです。その騎兵が単独兵科で攻撃しているということは、独力で勝てると判断してのことと思われます」
レアの返答はやはり重かった。その声色が、事の全てを物語っていた。
「お願いです! 彼らを……、
無理は承知だった。それでも、セレンはレアに懇願した。
しばらくの間、重苦しい沈黙が続いた。
耐え切れず、セレンは馬車を飛び出した。そして、止めようとするリーシュの手を振り切り、天使の錦旗へと走った。
セレンは教会遠征軍の旗印を指し示し、兵たちに訴えた──助けてほしい、と。
闘争の果ての光景が脳裏を過ぎる──容赦なき暴力、むせ返るほどの硝煙、夥しい流血、狂気に満ちた殺し合い、その果てに積み上がる死……。
今、騎士団と相対する敵は、これまでもその苛烈な戦いぶりで教会遠征軍を苦しめてきた相手である。〈
セレンが語り終えると、一瞬の静寂のち、歓声が湧いた。その歓声は、大きく、力強く、勇ましかった。
気づくと、セレンは泣いていた。親衛隊の白騎士たちの姿は、涙でおぼろげだった。何度拭っても、涙は止まらなかった。
「セレン様、どうぞこちらへ」
レアがセレンの手を取る。表情は涙でよく見えなかったが、レアの声は優しかった。
「いかに
レアが地図を指し示す。よくわからないが、セレンも指し示す点に目をやる。
「この先に村があります。敵に圧力をかけつつ、その村に
力強いレアの言葉に、幕僚たちも頷く。ずっとそばにいて守ってくれた若き女騎士は、やはり頼もしかった。
「セレン様、私は最後まであなたのために剣を振るいます。騎士団を助けるため、共に戦いましょう!」
「はい……!」
すぐに、従軍司祭が祈りの言葉を唱える。天使の錦旗を前に、勇ましい賛美歌がこだまする。
セレンもともに祈り、歌った──ただ、セレンはもはや神を信じてはいなかった。それでも、〈神の依り代たる十字架〉の名を唱えた。
祈り歌う白騎士たちの姿は勇ましかった。かつては見た目こそ勇壮だが、実態は儀仗兵でしかなかった。五千人いた兵も、今では三千人にまで減ってしまった。それでも、幾多の実戦を経た親衛隊の白騎士たちは、今はどんな軍よりも頼もしく見えた。
そんな彼らのことを本気で思うならば、来た道を引き返せばいい。残酷なことだが、
この号令で、また何人もの兵が死ぬだろう。それはもちろん理解していたし、罪悪感もあった。
実際、これはただのわがままである。〈教会七聖女〉の第六席であるだけの、〈第六聖女遠征〉の旗印であるというだけの、何の力もない女の気まぐれである。
この冬だけで、様々なことがあった。それでも、見捨てることはできなかった。
雪荒ぶ冬に抱いた、一筋の希望。ミカエルから感じた、確かな温もりの意志──。
セレンは声を張り上げ、神の名を唱えた──ただ、自分にできることをするために。
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