3-2 王の回廊の冬晴れ  ……アンダース

 吹き抜ける青空に白い光が輝く。


 北の空に冬晴れが訪れる。


 少し前までの吹雪が嘘のような快晴だった。どんよりと垂れ込めていた雪雲はいつの間にか消え、空には雲一つない。

 青空のどこからか、風に流れ舞う粉雪が冬晴れの白にきらめく。

「いい天気だな」

 大沼の氷上から空を見上げ、アンダースは呟いた。


 〈帝国〉を南北に縦断する主要街道の一つ、王の回廊は北陵街道と比べて飽きさせない場所だった。

 一面雪景色なのは変わらない。街道自体は北陵街道の方が進みやすいし、整備もされている。だが、ひたすらだだっ広い平野に田舎町が点在するだけの北陵街道と違い、王の回廊の風景は実に多彩だった。ヴァレンシュタインとの合流後、ほんの数日の行軍だけでも、その風光明媚な景観は素晴らしく美しかった。

 深緑輝く樹氷の森、雪原を薙ぐ岩石地帯、様々な波紋を浮かべ凍りつく山河、鮮やかな青を湛える無数の湖沼群……そして冬の太陽。有史以前、この街道を踏破したといわれる古の王は余程の観光好きだったのだろうとアンダースは思った。


 白光の青空に雪が舞う。


 ルクレールの指示の下、部下たちが切削具ドリルで凍った大沼の氷に穴を開ける。そのそばでは、従者が釣り具を用意し、釣り糸に餌をつけている。

 氷上釣りの噂は知っていたし、それができるかと訊ねもしたが、本当にやれるとは思っていなかった。そもそも、それら軍務と一切関係なさそうな物を誰がどこから持ってきたのかも謎である。

「氷の上でも穴を開ければ釣りができるっていうが、そのままひび割れて崩落しないか?」

「ご心配なさらず。〈教会〉の厳冬期と比べても北部の冬はものが違います。臼砲きゅうほうで砲弾を撃ち上げでもしなければ、そうそう割れません」

 ブーツの底で足下を探るアンダースに、平静とした表情でウィッチャーズが答える。

 敗北の中で別れて以来、一カ月ぶりに話す騎士団の同僚は、見た目には随分とやつれてしまっていた。その軍装も、洗濯と清掃をしてもなお拭い切れぬ汚泥に塗れている。それでもその眼光は未だ力強く、異様にぎらついてもいる。

 戻ってきてもそんな状態が続くウィッチャーズに対し、アンダースは休息の必要性を説き、気晴らしに魚釣りへと誘った。だが当人はあまり乗り気ではなさそうだった。



*****



 アナスタシアディスが救援要請に出たあと、月盾騎士団ムーンシールズに久々の吉報が届いた。

 ボルボ平原の会戦以降、行方不明になっていたジョー・ウィッチャーズとその配下の五百騎が戻ってきた。誰もが、もう会えぬと思っていた仲間たちの生還を喜んだ。千騎いた部隊員は半数にまで減耗していたが、それでもなお彼らの歩みは雄々しいままだった。

 事の詳細に誰もが涙した。教会遠征軍が雪崩を打って敗走する中、唯一の殿軍となって後衛戦闘を務め、そして戦い抜いたウィッチャーズ隊を、騎士団の全員が称賛した。独断専行だったとはいえ、上官の兄ミカエルもそれを咎めなかった。もちろん、アンダースも惜しみない称賛を送った。



*****



「それにしても、この雪の中を生き延びただけじゃなく、あの負け戦のあとも敵と戦って、そのうえ撤退交渉までしてきたんだろ? あの堅物の父が、いきなり騎士に抜擢したのも頷ける戦果じゃないか」

「運がよかっただけです」

 氷上に空いた穴に釣り糸を垂らしながら、アンダースはまたウィッチャーズを褒めた。だがその反応は相変わらず薄かった。

 父ヨハンの死を告げてもウィッチャーズが取り乱すことはなかった。だが、遺骸を前にしたほんの一瞬、その鋭い眼光に動揺が走ったのをアンダースは見逃さなかった。

 それも当然である。この男は元は貴族でもない傭兵出身者である。父ヨハンに取り立てられたとはいえ、他の将官と違い、騎士団内に一切の縁故がない。ゆえにその立場は非常に不安定と言わざるを得ない。そしてヨハン・ロートリンゲンという絶対的な後援者が死んだ今、その立場が明確に危うくなったことは本能的に理解しているはずである。

 だからこそ、アンダースは色々と気を配ってやった。

「謙遜するなよ。たまたまだとしても、お前は騎士団で唯一、北部の地理や情勢に明るい。傭兵時代に〈帝国〉で働いていた経験が役に立ったってことだ」

「二十年前も昔のことです。そのときとは何もかもが違います」

「それでも、馴染みの黒騎兵オールブラックス隊長と話しはできたんだろ? もし皇帝とも顔馴染みなら、交渉のときは頼むぜ?」

「残念ながらグスタフ三世とは知り合いではありません」

 アンダースは冗談のつもりで言ったが、一礼するウィッチャーズの表情は真顔だった。

 ウィッチャーズのことは元々評価していたが、しかし話していてあまり面白くはなかった。ウィッチャーズはいわば職業軍人である。昔から面白味に欠けるが、今はそれに拍車がかかっている。

 ただ、アナスタシアディスが去った今、実務経験豊富な同僚は存在それ自体が非常に貴重である。

 上級将校の同僚であるリンドバーグは戦場でこそ勇猛だが、平時の雑務などは一切関心を示さない。というか普段から人面甲グロテスクマスクを装着しており何を考えているかわからない。兄や他の連中はともかく、リンドバーグに関してアンダースはほとんど信頼していない。

 リンドバーグほどではないにしても、多くの騎士は後方任務全般に疎い。月盾の長である兄ミカエル、副官のディーツですら、戦いこそを華と重んじ、それに至る準備などを軽んじる傾向がある。それゆえに軍隊の動きそのものに精通しているアナスタシアディスやウィッチャーズのような補佐役はなくてはならぬ存在である。

「まぁ、その皇帝についてなんだが……。兄上は凄まじい復讐心を燃やしている。もしまた戦となれば、血みどろの激戦になるだろう」

 ふと、兄の言葉を思い出し、アンダースは口元を歪めた。「頭がおかしくなったんじゃないか」とも言いかけたが、それは直前で呑み込んだ。

「……どこまで本気なのでしょうか?」

 表情を変えずにウィッチャーズが聞き返す。

「さぁな? ともかく、アナスタシアディスがいなくなった今、お前の力は前にも増して重要だ。今後も騎士団を支えてくれ」

 言って、アンダースは笑顔を見せた。ウィッチャーズは戸惑いを隠すように頭を下げた。


 月盾の長たる後ろ姿を思い出し、兄は本当に立派な騎士だと思った──そして、愚かだとも。


 父は「生きて帰還せよ」と言い残した。その遺言に従い、故郷に帰るだけならば、戦闘はヴァレンシュタインに任せ、さっさと帰路につけばいいのだ。それなのに兄は敵と戦い、あまつさえその頭目たる皇帝グスタフを殺すと言うのだ。

 月盾の長として、そしてロートリンゲン家の長としてなら、一矢でも報いようとするのは当然の反応ではある──そして、勝利も、使命も、遺言も、全てを遂行しようとすることも──しかしこの状況下でそれを言い、実行しようとさえしているのであれば、それは愚かでしかなかった。


 ロートリンゲン家は勝利者の系譜である。本来なら、負けることも、逃げることも許されない。『高貴なる道、高貴なる勝利者』とは、つまりそういうことだ。


 アンダースは釣り糸の先を見た。ぶ厚い氷の下には大沼の深い青が覗いている。


 ここからしばらくは大小無数の湖沼群が続くらしい。王の回廊はそれらを避けつつ蛇行する。そしてその先には、この大沼の風景よりも遥かに荘厳なクリスタルレイクの景勝地が広がっているとみなが噂していた。

「ウィッチャーズ。お前、クリスタルレイクに行ったことはあるか?」

「あります」

「どうだった?」

 アンダースの問いに、ウィッチャーズが戦略面、戦術面での評価を踏まえて説明を始める。

 しかしそれはアンダースの期待した回答ではなかった。ウィッチャーズの返答はやはり面白味に欠けた。恐らく、王侯貴族が嗜むような美的観念というものは持ち合わせていないのだろう。

「ここも充分に美しいが、この先にあるクリスタルレイクはもっと綺麗なんだろうな」

 ウィッチャーズの話を聞き流しながらアンダースは呟いた。


 クリスタルレイク──数多の絵画に描かれたそれが、教皇庁の宮殿にすら飾られるほどの情景が脳裏を過る。〈帝国〉有数の景勝地と謳われる湖沼群、凍ってもなお透き通る深蒼の湖氷に、思わず胸が躍る。


 そういえば、父も死ぬ間際、クリスタルレイクを見に行きたがっていたことをアンダースは思い出した。

 思い出したが、すぐにどうでもよくなった。

 アンダースはまた釣り糸の先を見た。釣り糸はピクリとも動かず、魚が喰いつく気配はない。少し離れたところでは部下たちがはしゃいでいる。別の釣り穴を開けたルクレールは早くも魚を釣り上げている。


 能天気な奴らだと思いながらアンダースは空を見上げた。穏やかな北の冬晴れは美しかった。


 この戦いはどこに向かっていくのだろう──物思いに耽りながら、アンダースは粉雪きらめく白光を眺めた。

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