第三章 蠢く静寂

嵐の前の冬

3-1 身を焦がす意志  ……ミカエル

 濁った北の空のどこかで雷鳴が哭いている。


 白く染まった丘の上に月盾の軍旗がはためく。月盾の騎士団旗の下、ミカエルを先頭に月盾騎士団ムーンシールズの人馬が整列する。

「必ずや義父を説得し援軍を連れて参ります。それまでどうかお元気で」

 外套の下、胴鎧に刻まれた月牙の紋章が雪に白む。騎士団の上級将校、アンドレアス・アナスタシアディスがミカエルの手を取り微笑む。

 固く握手を交わし、互いの武運を祈る。

 別れの挨拶が終わると、アナスタシアディス率いる先遣隊四百騎が南へと駆け出していく。雪中行軍の装備に身を包み、食料や馬の飼料を積んだ馬車を連れ、馬群が王の回廊を南下していく。

 街道、森、湖沼……何もかもが、どこまでも白い。有史以前の伝説の時代、古の王が凱旋したとされる王の回廊は、ミカエルらが北上した北陵街道と同じように深い冬に染まっている。


 ミカエルは古めかしい直剣を抜き、それを頭上に掲げた。

「我らの軍旗に! 仲間たちに!」

 旗手のヴィルヘルムが騎士団旗を高く掲げる。整列する騎士たちが剣を抜き、それを軍旗に向ける。

「銃士! 礼砲射撃!」

 ミカエルの号令に、アンダースと銃兵数名が空に向かって空砲のマスケット銃を発射する。

 見送るミカエルらに振り返り、最後尾の一騎が剣を掲げる。別れを告げる月牙の騎士の姿が雪の白に溶けていく。アナスタシアディス率いる四百騎の姿はすぐに雪帳ゆきとばりの向こうへ消え、見えなくなった。


「ヴァレンシュタインの奴、ある意味で一番発言力のある者を体よく遠ざけましたね」

 ミカエルの横に馬を寄せるアンダースが薄ら笑いを浮かべ耳打ちしてくる。

「ウィッチャーズを失ったうえ、アンドレアスまでいなくなっては、騎士団の運営に支障が出るかもですね。五千人いた兵員も今や半分になってしまいましたし。もっとも、ヴァレンシュタインはこちらの戦力など当てにしてないと思いますけど」

「確かにその通りだが、この任務はアンドレアス殿しかできない。ヴァレンシュタイン元帥の思惑はともかく、残された我らで騎士団の孤塁をしっかりと守らねばならん。お前も気を引き締めろ」

 この期に及んでアンダースの軽口は相変わらずだった。ミカエルは窘めたが、弟は生返事をするばかりだった。


 ミカエルら教会遠征軍本隊の残存部隊とヴァレンシュタインの第二軍が合流したのち、まず議題に上がったのが、国境沿いに留まるティリー卿への援軍要請についてだった。ボルボ平原での敗北前までなら援軍がなくともどうにかはなっていた。だが全体としての形勢不利が濃厚となった今、ティリー卿からの援軍は死活問題となりつつあった。

 ヨハン・ロートリンゲン、ヴァレンシュタイン両元帥からの再三の援軍要請を無視するティリー卿に対し、誰がこの窮状を伝え、説得するかが問題だった。ただ使者を派遣するだけではこれまで通り無視されるだろうし、家柄のある将軍や将校に頼むにしても、〈教会五大家〉の一角であるティリーが容易に取り合わないのは目に見えている。

 結果、月盾騎士団ムーンシールズより、アンドレアス・アナスタシアディスが適任者として選ばれた。ロートリンゲン家の外戚家系でもあるアナスタシアディス家は〈教会五大家〉に次ぐ家柄であり、さらにアンドレアスの妻はティリー卿の娘である。義理の息子相手ならさすがのティリーも無下にはしないはずだし、雪中行軍の指揮能力を加味してもアナスタシアディスなら問題なくやり遂げるとの判断だった。


 アンダースの言う通り、ヴァレンシュタインにも、もちろん何かしらの思惑はあるだろう。現にアナスタシアディスはヴァレンシュタインに対してもあまり忖度そんたくせずに意見を言う方だった。

 しかし今は、家同士、派閥同士の争いに興じている暇はない。将兵の一つ一つの行動が、この〈第六聖女遠征〉の、教会遠征軍の命運に直結してくる。その積み重ねはやがて国家の趨勢にさえ影響を及ぼすだろう。


 人にできることは限りがある。騎士団を率いる月盾の長であり、〈教会五大家〉筆頭のロートリンゲン家の後継者でもあるミカエルにさえ、限界はある。だが、一人の男として力を尽くす覚悟はできている。一人一人の意志は小さなものかもしれないが、しかし意志は人を動かし、やがて大きなうねりを生む。


 ふと、ミカエルは思った──弟に、その自覚は、覚悟はあるのだろうか?


 誰よりも派手な軍装は戦塵に塗れてなお派手だった──青羽根の飾られた長つばの騎兵帽、髑髏どくろの紋章が刻まれた一点物の胴鎧、きめ細かな意匠が施された歯輪式拳銃ホイールロックピストル、そして艶めく赤銅を湛えた刺剣レイピア──弟の青い瞳は、騎兵帽の長つばに隠れ、よく見えなかった。

「ちょっと訊いていいです?」

 ミカエルが問おうとしたとき、逆にアンダースが質問をしてきた。

「兄上はこれからどうするつもりですか?」

「どういう意味だ?」

「その、つまり……、これからどうするかってことです。この遠征は恐らく失敗に終わります。父上も死に、ロートリンゲン家としても岐路に立たされています。兄上としては望まぬ形で跡を継ぐことになったとは思いますが、新たな家長として、これからについて、どう考えてるのかを知りたいんです」

 アンダースの青い瞳が騎兵帽の奥から様子を窺ってくる。普段は人のことなど意に介さない弟にしては珍しいことである。

「これから……?」

 やるべきことは山積している。果たすべき使命、守るべき誇り、貫くべき道……。あらゆる責務が脳裏を過る。


「皇帝グスタフを誅殺し、この戦争の大義を成し遂げる」

 弟の青い瞳を見ながら、ミカエルはそう答えた。


 しばらくの間、アンダースは唖然としていた。

「本気で言ってるので? そもそも我らは退却してるんですよ? 何をどうしたらそんな発想に至るんですか? 我が家の家訓モットーを重んじる、模範的な騎士たる兄上らしくもない……」

 騎兵帽の被り直しながら、呆れたようにアンダースが苦笑する。

 苦笑いするアンダースに、ミカエルはもう一度目を向けた。視線が合うと、アンダースはばつの悪そうな顔をして視線を逸らした。


 どこからか燃え上がる炎が身を焦がす。怒りが、憎悪が、殺意が、静かな意志に薪をくべる。


 熱かった。自らが口にした言葉、その言葉に秘めた意志を胸に、ミカエルは雪原の先を見た。


 このとき、ミカエルは本気だった。

 我々には信仰がある──〈神の依り代たる十字架〉の信仰の許、団結するのだ。神の代理人たる教皇の手、〈教会七聖女〉の天使の軍旗を旗印に、立ち向かうのだ。

 敵には信仰がない──〈帝国〉は悪だ。〈黒い安息日ブラック・サバス〉を引き起こした皇帝グスタフ三世は、天に仇なす男であり、誅殺すべき巨悪だ。

 正当性はこちらにある──全ての将兵がそれを胸に刻み、躊躇いなく戦えば、敗勢から逆襲に転じ、必ず勝利することができる。

 グスタフ三世の首を取り、教会遠征軍に勝利をもたらし、この〈北部再教化戦争〉を終わらせる。失った誇りを取り戻す。それは遠征軍の指揮を執った父ヨハンに託された、そして五大家筆頭ロートリンゲン家に課された使命である。


 だがそのために、一人の少女が犠牲になる必要がある──第六聖女セレン──〈教会七聖女〉の第六席、まだ齢十五にしかならぬ、一人の娘。

 

 早ければ一ヵ月後には援軍が来る。そう第六聖女セレンには伝えた。それを伝えたとき、セレンは少し安堵していた。

 冬に凍え、日に日にやつれていく聖女の姿は痛ましかった。だが辛うじて意志を保つ少女の姿は、苦境にも慈愛を忘れぬ少女の微笑みは、ミカエルに勇気を与えてくれた。

 犠牲にはさせない──その存在がたとえ国家の生贄だとしても、決してこの戦いの犠牲にはさせない。

 「生きて帰還せよ」と父は言った。その遺言、亡き父に託された少女を守るため、自らが先頭に立って戦わねばならない。〈教会〉の騎士として、月盾の長として、一人の男として、折れるわけにはいかない。


 また、北の空のどこかで雷鳴が哭く。

 後衛で遅滞作戦を展開するヴァレンシュタイン軍が帝国軍と戦っているのであろう。時折、こうして思い出したように砲声が鳴り響く。


 『我ら、〈神の依り代たる十字架〉を守りし月の盾。我らが進むは高貴なる道、そして我らは高貴なる勝利者たらん』──ミカエルはロートリンゲン家の家訓モットーを胸に刻み、前を見た。


 濁る冬空の隅で、おぼろげな冬の陽が揺れる。丘の上から望む地平線はどこまでも白く、冬はどこまでも深かった。

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