2-24 虚無の冬  ……ヤンネ

 冬の日。雪が揺れている。


 否──揺れているのは自分だ。何もかもが覚束ぬまま、ただ虚無を漂っている。この白いだけの雪の中で、何かに縋ろうと彷徨い続けている。


 降り続く雪が、体を、意識を蝕む。

 体中が痛かった。父の拳は、怪我の後遺症など一切感じさせない、純然たる暴力だった。

 体の痛みに加え、心も痛かった。その痛みの根源が何なのかは考えたくなかった。


 そして、思い出したかのように吹きつけた突風で目が覚めた。


 目覚めると女の子がいた。ヤンネよりも幼いその少女は、お湯に浸した布で、ヤンネの体を拭いていた。

 目覚めに気づいた少女が、小さく悲鳴を上げ、後退る。

 見慣れない顔。だが、どこかで見た覚えのある顔──侍従ではないし、従軍娼婦でもなさそうである。身なりこそやつれた囚人服だが、その顔つきや体つきは、いかにも上流階級という乙女に見えた。

「誰だ……?」

 寝台から上体を起こし、声をかける。しかし少女は、顔を引きつらせたまま幕舎の隅で震えている。

「ゴメンよ……。怖がらせるつもりはなかったんだ……」

 どうしていいかわからず、とりあえず謝る。しかし、困るヤンネをよそに少女は幕舎から走り去ってしまった。


 朦朧とする意識の隅で風の音が鳴り響く。幕舎の外の吹雪が吹き荒れるたび、痣だらけの体が、軋み、痛む。


 少女が去ってしばらくすると、無数の足音がどたどたと押し寄せてきた。

「ヤンネ! やっと起きたのかよ!」

 子供のように声を弾ませ、コッコがやってくる。コッコが寝台の横で膝をつき、拳を前に突き出してくる。ヤンネも、反射的に拳を合わせる。仲間内でのいつもの挨拶が済むと、コッコは嬉しそうに笑った。

「親父殿に歯向かうなんて何考えてんだよ! 殺されるんじゃないかって冷や冷やしてたんだぜ!」

 いきなり幕舎が賑やかになる。コッコに続き、副官のサミ、同年代の戦友たちと、言葉を交わす。みな、顔を見合わせ喜んでいる。蜂蜜酒が杯に注がれ、ちょっとした宴会も始まる。

 しかしヤンネは自らが仕出かしたことを思い出し、気まずさを覚えていた。久しぶりに会う仲間たちと、どう向き合っていいのか考えてしまった。


 ヤンネが顔を伏せる横で、会話を途切れさせぬように気を使ったのか、仲間たちが近況を話し始める。


 キャラモン軍団長殺害未遂事件は、帝国軍内でも相当な騒ぎになっていた。


 父オッリの処刑、並びに騎兵隊への処罰を訴えるキャラモン軍団長は、軍司令部にまで請願書を提出し、厳罰を求めた。当然、軍司令部も事態を重く見た。だが、最終的には皇帝グスタフ三世の一言で全て仲裁されたようだった。

「それでさ、キャモランの野郎が殺されそうになったから助けてーって泣きついて、陛下が何て返事したと思う? 『それでこそ、我が強き北風ノーサーである!』 だってさ。皇帝陛下って脳みそまで筋肉で出来てんのかな?」

 明るく話すコッコが、大仰な動きでグスタフ三世のものまねをする──真なる黒竜、北限の征服者、燃える心臓の男──みな、絵画で見るか、パレードで遠巻きでしか見たことがないにも関わらず、似ていると笑い合っている。

 それは薪を真っ二つに割ったような、あまりに乱暴な回答だった。しかし王侯貴族や権力者というのは得てして平民の常識の範疇を逸脱している。国家を統べる絶対的な権力者ともなれば、尚更なのだろう。


 皇帝と会ったことのないヤンネにも、何となくその人柄は想像できた。しかしその返答は理解できなかった。


 様々な異名を欲しいままにする、男の中の男。自ら剣を取って戦場を駆ける生粋の武闘派。〈教会〉に弓引き、この〈大祖国戦争〉を主導する対〈教会〉強硬派の筆頭。そして〈黒い安息日ブラック・サバス〉を引き起こした、神をも恐れぬ冒涜的殺戮者──しかし語られる皇帝の姿は、ヤンネにとっては遠い存在でしかなかった。


 コッコのものまねが終わると、サミが話を本線に戻す。

 今回の一件は皇帝の鶴の一声で手打ちにこそなったが、何の罰則もないわけはなかった。

 父は処刑こそ免れたものの、営倉での禁固が科せられた。極彩色の馬賊ハッカペルの兵員も連帯責任で謹慎が科せられたが、こちらは野営地内での軟禁らしく、ある程度の自由はあるようだった。ヤンネ自身に関しては特に罰則はなかった。

「たださ、戦利品の大半はキャモラン軍団長に没収されちまった。それでも反逆罪の連座で死刑とかにならずに済んだのは運がよかったのかな?」

 コッコに代わり、サミが落ち着いた声で話す。しかしすぐにコッコが横槍を入れる。

「安心しろよ! 捕まえた女たちはみんな残ってるからよ! お前も元気になったら好きな女抱けよ!」

 コッコは相変わらず明るかったが、捕虜の女たちにとっては引き続き地獄でしかないだろうと思った。


 ヤンネの周りで仲間たちの雑談が盛り上がっていく。外で吹き荒れる吹雪と相まって、幕舎の中は騒音状態に陥っている。


 そんなすし詰めの幕舎に、さらに人がやってくる。

「あぁ、よかった。目が覚めたんだね」

 なよなよとした文官が人混みをかき分けて入ってくる。赤毛のエイモット幕僚長が、朗らかな笑みを浮かべる。

 エイモット幕僚長はキャモラン軍団長の部下ではあるが、お飾り上司の下で実質的に第三軍団を指揮する人でもある。軍司令部と細かく連絡を取り合うのもこの人で、ストロムブラード隊長ら現場士官たちにも信頼されている。

 突然の上官の来訪に、ヤンネは姿勢を正し、敬礼した。

「いやいや、楽にしてていいから」

 エイモット幕僚長が寝台横の椅子に腰かける。

「君が身を挺してくれたおかげで、キャモラン軍団長も少しだけ溜飲を下げてくれたよ。それにしても、あのオッリ殿と互角に戦うなんて君は本当に強いんだね。びっくりしちゃったよ」

 明るく話すエイモット幕僚長は本当に感心しているようにも見え、ヤンネは少し恥ずかしかった。

 無能な指揮官と血気盛んな現場部隊の中間を取り持つ、難しい立場の人、という印象しかなかったので、その気さくな雰囲気は新鮮だった。ただ、ストロムブラード隊長と同じ四十代なのに、すでに髪は禿げ上がっているようで、常時かつらを着用している。目尻の皺も老人のように深く、やはり気苦労は多そうだった。

「動けるようになったら、ストロムブラード殿にお礼を言った方がいいよ。彼がひたすら頭を下げてくれたおかげで、お父さんは反逆罪で死刑にならずに済んだんだから」

 エイモット幕僚長はそう言ったが、ヤンネは素直に感謝できなかった。

 今まではあまり気にならなかったストロムブラード隊長の偏屈さが、ささくれのように引っかかった。

(あんな馬面のハゲ野郎に跪き、頭を下げるくらいなら、最初から父を拘束し、止めていればよかったのだ。それなのに傍観してわざと事を荒立てるなんて、何を考えていたのだろう?)

 長年の恩人に対し、初めて嫌悪のような感情を抱いた。そんな自分自身にヤンネは困惑し、苛立った。

 不機嫌になったのに気づいたのか、エイモット幕僚長が顔色を窺うように、また人当たりのよい笑顔を見せる。

「二人とも、第三軍団、ひいては帝国軍の大事な戦力です。戦時で気が立っているのもわかるけど、今後は内輪揉めなどの軽率な行動は控えるように。それから軍団長への不敬罪も。普段から胃が痛い立場なのに、これ以上のゴタゴタが続くと敵に殺される前に過労死しちゃうよ」

 うまいことを言ったという顔をしてエイモット幕僚長が笑う。しかし赤毛のかつらの隙間から流れる汗は、拭いても拭いても流れ落ちていた。


 一通り話が済むと、仲間たちとエイモット幕僚長は去っていき、再び少女が戻ってきた。


 嵐のような賑やかさが消え、また吹雪が哭き始める。


 ヤンネは従者を呼ぶと、少女について訊ねた。

 彼女は〈教会七聖女〉の元侍女で、父の戦利品ではあったが、多少医術の知識があったため、世話役に加えているとの話だった。

 自分よりも幼い従者、それも女性が医学的な知識を備えていることに、ヤンネは素直に驚いた。〈帝国〉と比べると、〈教会〉は総じて教育水準が高いと聞く。〈帝国〉と文化が違うとはいえ、女性でも騎士になれるなど、身分格差が少ない社会構造も根づいているようで、実際に〈教会七聖女〉やその近習は、孤児院や身分の低い出身者が多いらしい。

 ヤンネは怖がらせぬように恐る恐る少女を見た。少女は相変わらず怯えていたが、逃げ出す様子はなかった。

 しばらくして思い出した。この子は、あの夜、父に簀巻きにされ、挙句、捨て置かれていた少女であった。

「君、名前は?」

「……シャナロッテ」

 おずおずと答えるシャナロッテにヤンネは微笑んだ。しかし少女はまだ怯えている。

「シャナロッテ。ありがとう」

 怯えるシャナロッテは何も答えなかった。


 ヤンネは寝台に横になると、目を閉じた。


 また、雪が揺れる。


 同じ神を信じているはずなのに、どこで差が生まれたのか、ヤンネは不思議に思った。


 〈教会七聖女〉──本来、〈神の依り代たる十字架〉の信徒は、信仰の導き手たる彼女らを奉り、崇拝しなければならない。しかし同じ神の御名の許、〈教会〉と〈帝国〉は戦争を繰り広げている。


 様々な世界が脳裏を過る──〈帝国〉、〈教会〉。皇帝、第六聖女。強き北風ノーサー、騎士殺しの黒騎士。極彩色の馬賊ハッカペル黒騎兵オールブラックス月盾騎士団ムーンシールズ


 疲れた──そして考えるのを止めた。なぜなら、答えがないのはわかりきっている。


 冬の日。吹雪が哭く。体は、意識は、ただひたすらに虚無を彷徨っている。

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