2-23 殺し合う親と子  ……ヤンネ

 吹雪く夜風のせいだろうか、振り抜いたサーベルはしばらく震えていた。


 親子の殺意が、夜闇に触れ合う。


 強き北風ノーサー──有無を言わさぬ圧倒的な殺意がヤンネの全身を刺す。


 父の横暴と凶行はいつものことといえばそれまでだった。普段なら苛立ちこそすれ、自分には関係ないと放っておく。しかし今日は体が勝手に動いていた。別にキャモラン軍団長を助けようと思ったわけではない。嫌いだし、嫌な人だし、助けるに値するような人間でもない。

 それでも軍の上官である。軍人である以上は従わねばならない。ストロムブラード隊長だって心を押し殺して頭を下げている。にも関わらず、そんな周りの気持ちなど一切考えず好き勝手に暴れる父の存在を、今夜は許せなかった。

「軍団長! 早く逃げて!」

 背後で泣き喚く情けない悲鳴が夜風の隅へと消えていく。キャモラン軍団長とその取り巻きが尻尾を巻いて逃げていく。


 夜が、冬の風が、急速に冷えていく。


 ヤンネは目の前の狂獣を睨んだ。

 血走った目をひん剥き、熊のような髭面を歪め、全裸で屹立する大男──眼前に、雪の中に、父が屹立する。

 体中に迸る古傷が、その歴戦を物語る。体中に彫られた刺青いれずみが、その生き様を物語る。こと対人戦闘において、父オッリに敵う者はそうそういない。それは息子であるヤンネ自身が最もよく理解している。

 覆し難い彼我の差。しかし十字架を犯す冒涜的な刺青いれずみを見るたびに、ヤンネの心は怒りで打ち震えた。


 極彩色の馬賊ハッカペルの戦士は成年とともに体に刺青いれずみを刻む。それは戦士の証であり、騎馬民の矜持であり、先祖たる〈東の覇王プレスター・ジョン〉に捧げる生き方である──少なくとも父はそう信じている。


 厚手のバフコートの下、ヤンネの体にもその刺青いれずみは彫られている。そんなもの本当はやりたくなかった。しかし父や年長者からは部族の伝統だと強制された。

 三年前、十二歳の成年を迎えその現実を突きつけられたとき、ヤンネはストロムブラード隊長夫妻に泣きつき、助けを求めた。夫妻の間でも意見は分かれた。隊長は自由意志を尊重するべきと父に提言したものの、強硬に反対もしなかった。ユーリア夫人レディ・ユーリアは最後まで反対し、ヤンネの味方になってくれた。しかし最終的には部外者扱いされた。

 結局、ヤンネの思いも虚しく刺青いれずみは体に刻まれた。

 事が済んだあと、父は一人前になったと喜んでいた。その友人であるストロムブラード隊長は自らの無力を詫びた。その妻であるユーリア夫人レディ・ユーリアはただ受け止めてくれた。


 大人になったその日から涙は捨てた。そしてただ前だけを向くようにした。


 そして今、目の前には父がいる。

 〈神の依り代たる十字架〉を信じぬだけでなく、それを冒涜し嘲笑うチンピラ──父の存在のせいで、どれだけ馬鹿にされ、無下にされたことか。どれだけの苦痛を味わい、どれだけの辛酸を舐めたかことか──それを思い出すたび、心は殺意に燃えた。

 憎んでも憎んでも憎んでも、どんなに憎んでも、前に立ち塞がる壁。しかし体格ではもう劣っていない。剣の腕も、弓の腕も、馬術だって負けていない。それに今回、父は病み上がりである。どんなに強かろうと、傷を負い、ずっと寝ていた相手である。感覚は鈍っているはず──きっと勝てる。そして、殺せる。


 背中の傷──あの父に傷を負わせた騎士はきっと凄い奴に違いない。父に傷をつけたとされる月盾騎士団ムーンシールズの若き月盾の長、ミカエル・ロートリンゲンという男に対し、ふと、そんなことを思った。


 白い風が視界を覆う。しかし互いの殺意が交錯するたび、狂獣はその輪郭を色濃くする。


 言葉はなかった。唐突に、父は落ちていた剣を拾い上げた。そして間髪入れずに突っ込んできた。

 一糸まとわぬ全裸の大男が、殺意の塊となって襲い来る──強き北風ノーサー──それがすぐ横を吹き抜ける。触れたサーベルは震えている。

 気圧されるな──サーベルを握り直し、踏み込む。剣身がぶつかり合い、暗闇に火花が散る。

 打ち合う。殺意の風圧がその重みを増し吹き荒れる。しかしその切っ先は捉えている。体の動きも追えている。殺意の渦の本流は見えている。

 ならば対応できている。ヤンネは上から斬り下ろす構えを見せたうえで、足下の雪を蹴り上げた。

 雪の塊が父の顔面で弾ける。父が得意とする、目眩ましの小細工である。

 瞬間、父の懐に空白が生まれる。その空白を、サーベルで薙ぐ。

 また、剣撃が響く。態勢を崩してなお、父はこちらの攻撃を防ぐ。

 もう一度、ヤンネは体重を乗せ、薙いだ。

 音が弾ける。父の手から剣が抜け落ちる。父の体が雪原を転がる。その巨体が態勢を立て直す前に、ヤンネは跳びかかりサーベルを突き刺した。


 白い風に血が流れた。しかし浅かった。


 動きが止まる。心臓に突き立てたサーベルの剣先は、しかし何物も貫くことなく止まってしまった。

 ヤンネの眼下で父は笑っていた。雪上に倒れる父はサーベルの刀身を素手で握っていた。

 ヤンネは殺意の赴くまま、吼えた。

 さらに体重を乗せ、力を籠め、そのまま突き刺そうと試みる。しかし指の肉が少し喰い込み、少しの血が垂れ落ちるばかりで、サーベルはびくともしなかった。


 一瞬の膠着。そしてヤンネが次の一手を考え終わる前に、痛烈な痛みが襲い来る。


 股間を蹴り飛ばされる。思わぬ攻撃に均衡が崩れる。続け様、顎に放たれた頭突きが頭を揺らす。

 そこからは、よく知る感覚だった。

 一方的な暴力が全身を蹂躙する。厚手のバフコート越しにも伝わる、圧倒的な拳が腹を抉る。何発も放たれる拳に、今度は逆にヤンネが雪上に倒される。

 殴られるのは慣れている。だからどんなに痛くても耐えられる。しかし普段と違って、その拳には明確な殺意があった。その殺意は少しだけ怖かった。


 どれほどのときが経ったのか。どれほどのときを殴られていたのか……。唐突に、銃声が吹雪を裂いた。


 親子は同じ方向を見ていた。恐らく、この場にいた誰もが同じ方向を見ていた。夜の淵、銃声の先には歯輪式拳銃ホイールロックピストルを持った騎士殺しの黒騎士がいた。

「気は済んだか?」

 ストロムブラード隊長が近づいてくる。父の背後には、隊長の護衛である無口な影スーサイド・サイレンスも潜んでいる。

「あ!? 何だ!?」

 立ち上がり怒鳴る父を、無口な影スーサイド・サイレンスが羽交い絞めにする。黒いローブの奥の眼光、目にも止まらぬその動きはやはり暗殺者のそれである。父が拘束を解こうともがいても、ピクリとも動かない。

「気は済んだかと訊いている」

 もう一度、黒騎士は訊ねた。地面に蹲るヤンネの位置からではその表情は見えなかった。しかし父は何も言わず、悪態さえつくことなく、そのまま連行されていった。


 野営地から喧騒が消えていく。吹雪さえもが、その風の音を止める。


 痛めつけられ、地に取り残されたヤンネの元に足音が近づいてくる。視線を上げると、そこには黒騎士の影があった。

 体を苛む痛みと緊張が、不意に和らぐ──この人は、いつでも味方だった──父の暴力と母の無関心によって育てられてきたヤンネや弟妹たちに、ストロムブラード隊長とその妻であるユーリア夫人レディ・ユーリアはいつも手を差し伸べてくれた。

 ヤンネは痛みを堪え、隊長の名を呼んだ。

「下手なことしやがって。今すぐ俺の前から消えろバカ」

 しかしストロムブラード隊長は一瞥だけくれると、すぐに背を向けてしまった。

 もう一度、ヤンネは縋るように隊長の名を呼んだ。その瞬間、乱暴に胸倉を掴み上げられた。

 対面する黒い瞳がどろりと澱んでいた。薄っすらと篝火に照らし出された黒騎士の顔は恐ろしいほどに無表情だった。

 背筋に悪寒が走った。何の温もりも感じさせない表情を前に、先ほどの安堵感は消し飛んでいた。


「オッリを殺したいお前の気持ちは理解する。だが奴にもしものことがあったら俺がお前を殺すからな」


 それだけ言うとストロムブラード隊長はヤンネを地面に突き放し、そして夜闇へと消えていった。


 痛みが再び湧き上がる。群がっていた人影は徐々に消え、雪の白だけが夜に残る。


 遠退く意識の隅で、ヤンネは同じように捨て置かれた簀巻きの少女を見た。


 その娘も、自分も、ただただ惨めだった。


 何かが、頬を伝った。どこからか流れ出る血が雪原に黒く滲んだ。

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