1-15 祈りと誓い  ……ミカエル

 うらぶれた祈りの歌が北の空に虚しく響く。


 月盾騎士団ムーンシールズ、そして第六聖女親衛隊の前から、帝国軍の黒竜旗と極彩色の馬賊ハッカペルの姿が一時的に消える。

 立ち込める白煙の中、束の間の静寂が戻ってくる。しかし、遠巻きに燃える戦火は凍てついた冬の夕景に燃え続けている。


 騎士団の隊伍を整えると、ミカエルはすぐ天使の錦旗に駆け寄った。


 教会遠征軍の旗印である第六聖女の軍旗の周りには死傷者が集められていた。白騎士の親衛隊だけでなく、従軍司祭たちもその白装束を血と泥で染めていた。本来ならば戦うことのない第六聖女の侍女や女騎士でさえも、その様子は同様である。

 ある者は包帯を巻かれながら茫然と虚空を眺め、ある者は吹っ飛ばされた片腕を握りしめていた。矢を胸に受け絶命した少女。首なしの白騎士。腹部から内臓を撒き散らした子供……。戦火に燃える雪原には、いくつもの血塗れの人形が転がっていた。


 紛れもない敗北者の姿──それは何度も目にしてきた光景だった。馬上から、勝者として。


 その光景に息を呑みながらも、ミカエルは天使の錦旗に向かい声を上げた。

月盾騎士団ムーンシールズの騎士団長、ミカエル・ロートリンゲンであります! 我らが旗印、第六聖女セレン様はご無事でありますか!?」

「ミカエル様! よくぞご無事で! 救援痛み入ります!」

 ハルバードを手にした大柄な体躯の女騎士、親衛隊を率いるレア隊長がミカエルの前にやってくる。白騎士と称される親衛隊の甲冑は、やはり拭いきれない返り血に染まっている。

 レア隊長の馬に同乗する第六聖女セレンが、女騎士の腕の中からミカエルに視線を向ける。

 第六聖女遠征軍の総帥たる少女──天使の紋章を抱く白銀の甲冑を前に、ミカエルは下馬し跪いた。

 見上げたその表情は震えていた。

 体が震えるたび、甲冑の金属音が弱々しく鳴く。華奢な容姿に不釣り合いな白銀の甲冑は血と泥と煤に汚れていた。戦前は美しく穏やかだった少女の面影は今は微塵も残っておらず、ミカエルもよく知る、最も真摯なる者と称される微笑みも今は恐怖に歪んでいた。


 危惧していた事態が現実となった。目の前にいるのは、伝承に語られる誇り高き〈教会七聖女〉ではなく、戦火に怯えるただの少女だった。


 数ある高名な修道会の中から弱冠五歳で〈教会七聖女〉の第六席に選ばれた少女……。今回の遠征に先立ち教皇庁で行われたパレードでも、白銀の甲冑をまとって軍の先頭に立ち、十五歳とは思えぬほど穏やかで慈愛に満ちた表情で、兵士らに祈りを捧げていた聖女……。だが敗色が濃厚になった今、旗印たる役目はあまりに荷が重すぎた。彼女の祈りも、彼女を守るべく捧げられる祈りも、迫り来る黒竜旗の前ではあまりにも無力だった。


 第六聖女セレンは完全に殺戮の舞台に呑まれた。


 ならば、誰かがそれを守らねばならない。〈教会〉と〈神の依り代たる十字架〉に忠誠を誓う騎士が、それを守らねばならない。


 『高貴なる道、高貴なる勝利者』──ミカエルはロートリンゲン家の家訓モットーを胸に、セレンに向かい敬礼した。

「セレン様……。我らが力及ばず、旗印たる御身を汚してしまい誠に申し訳ございません。これよりは我ら月盾騎士団ムーンシールズがセレン様をお守りいたします」

 ミカエルの言葉に、セレンが辛うじて頷く。

「ご助力感謝いたします。ミカエル様」

 セレンに代わり、レアが礼の言葉を添える。

 そのときだった。少女の唇が、震えながら開かれた。

「何か……。何か、私にもできることがあれば……」

 震える唇から漏れる言葉はあまりにもか細く、必死に言葉を紡ぐ少女の姿は悲しいほどに健気だった。

「セレン様は司祭の方々と共に、戦う者たちに祝福を。その祈りが、我らの力になります」

 ミカエルの声に、セレンが小さく頷く。気丈に振る舞おうとするその小さな姿はやはり痛々しく、ミカエルは地面に視線を落とした。

 

 父ヨハンは殿軍として本陣に残ったとレアは話した。しかしどうあがいても敗勢は覆しようがないと思った。

 第六聖女親衛隊は憔悴し切っていた。ディーツは日没まで耐えれば活路は見出せると言ったが、これでは日没までの僅かな間も戦えそうになかった。同様に、元帥である父ヨハンとの合流に失敗した月盾騎士団ムーンシールズもまた路頭に迷っていた。


 教会遠征軍の誰もが傷つき、疲弊し、消耗していた。


 兵士たちが生死の狭間で踏み止まるには、それを支える力が必要だった。しかし、信仰心の拠り所である〈神の依り代たる十字架〉の軍旗は無残にも討ち破られた。そんな今だからこそ、〈教会七聖女〉という象徴は、第六聖女という旗印は、残った者たちにとって必要不可欠な存在だった。

 この〈第六聖女遠征〉を束ねる総帥といえば聞こえがいいが、実際のところは第六聖女セレンはただの旗印に過ぎない。これまでも実務は元帥である父ヨハンが取り仕切っていた。だが、たとえ軍が指揮できなくとも、その存在はこれまで兵の心を一つにまとめていたし、今もまとめることができる。騎士たちが守るべき乙女……。掲げるべき大義の旗印……。人々を導くために遣わされた神の聖女……。それらは団結力となり、絶望的な劣勢の中でも戦う勇気を与える。二百年前、古の〈教会七聖女〉が剣と軍旗を手に、〈神の奇跡ソウル・ライク〉を顕在させ、〈東からの災厄タタール〉を退けたときと同じように……。


 あらゆる思いがミカエルの血を駆け巡った。そのときだった。悲鳴にも似た声が束の間の静寂を切り裂いた。


「敵騎兵来ます!」

 誰かが告げたその一言で、戦慄が走る。

 白煙の先、漆黒の胸甲騎兵が一つのどす黒い塊となり駆けてくる。その周りには、先ほど追い払った極彩色の馬賊ハッカペルがけたたましい鼓笛を打ち鳴らし追従する。後続にはまとまった数の歩兵隊も見える。

 身震いするような揺れが、地を再び狂騒に陥れる。

「ここは我らが防ぎます! 騎士団長は聖女様を連れてお退き下さい!」

 即座に反応したウィッチャーズの部隊が敵騎兵と対峙する。

 黒騎兵オールブラックス極彩色の馬賊ハッカペル合わせて四千騎、後続の追手を加えればそれ以上にもなる兵力を、僅か千騎で迎え撃つことがどういうことか、それはミカエルにもわかっていた。しかし今は部下のウィッチャーズにかけるべき言葉が見つからなかった。


 なし崩し的に、再びの戦端が開かれる。敵に向かっていったウィッチャーズの部隊は、やがて雪と白煙に覆われ見えなくなった。


 ミカエルは月盾騎士団ムーンシールズと第六聖女親衛隊にそれぞれ防衛態勢を整えるよう命じると、剣を抜き、セレンの前に再び跪いた。

「我はロートリンゲン家の月盾の長! この剣と軍旗に誓い、必ずやその身命をお守りします!」

 剣を地に添え、誓約の言葉を述べる。セレンは相変わらず不安げな表情だったが、僅かに微笑んでくれた。

「ミカエル様!」

 レアに抱えられ方陣内に退避するセレンが、震える声で叫ぶ。

「別れ際、ヨハン元帥は仰られました……。生きて帰還せよと。共に……、共に今日を生き延びましょう……! どうかご武運を!」

 震えながらもどこか力強さを感じさせるその声に、ミカエルは改めて敬礼した。


 旗印たらんとする第六聖女セレンの小さな意志がミカエルを奮い立たせる──第六聖女たる少女は、健気にもその務めを果たそうと、必死に立ち上がろうと、勇気を振り絞っている──ならば今はその意志を信じるべきだ。


 ミカエルは馬に跨ると、〈帝国〉の黒竜旗を見据えた。

 遮二無二に枯れた森の中に逃げ込んでしまえば平地で騎兵に嬲り殺しにされることは避けられる。だが大多数は敵の追撃の犠牲となる。何より、敵に背中を向けた瞬間から潰走が始まり、親衛隊も月盾騎士団ムーンシールズも崩壊するのは火を見るより明らかである。たとえ今日を生き延びることができても、立ち上がり抗うことは二度とできない。


 だから戦う。日没までの僅かな時間である。戦況は劣勢だが、日没まで耐えれば次へ繋がる道はある。


 戦場の狂騒が殺意を増して近づいてくる。極彩色をまとった黒い騎兵隊が、駆ける黒竜旗が、その輪郭を濃くしていく。


「憶するな! 我らには第六聖女様がついておられる! 偉大なる十字架旗に、天使の軍旗に祈れ! 共に戦う仲間を信じ、立ち向かうのだ!」


 目の前に迫る暴力的な音圧に向かい、ミカエルはありったけの声で吼え、剣を構えた。

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