1-11 戦塵の第六聖女②  ……セレン

 開かれた馬車の扉から見えた冬の夕景は、ただただ白かった。


 屋形馬車の扉が開かれ、大柄な女騎士が現れる。

「セレン様、降りて下さい! 馬車に火が点きました!」

 〈教会七聖女〉直属の護衛であり、親衛隊を率いるレア隊長が肩で息をしながら馬車に入ってくる。その白い鎧にはうっすらと血が付いている。

「レア……。外はどうなっているのですか……?」

「お気になさいますな! これよりは一時的に私の馬に同乗して頂きます! 従軍司祭たちの馬車が追いつき次第、そちらに移動します! 侍従長たちも親衛隊の馬に同乗になりますので、遅れず移動を!」

 レアに手を引かれるがまま、セレンは外に出た。

 けたたましい戦場の狂騒が耳をつんざく。揺れる地面が足元を震わす。火の粉をまとった粉雪が、北風に煽られ、痛いほどに顔を打つ。

 馬車の天蓋からは黒煙が立ち昇っている。御者が外套を手に必死に消そうとはしているが火の勢いは衰えない。

「イリーナ! シャナロッテ! セレン様に遅れず、ついていきなさい!」

 セレンの背後で侍従長のリーシュが若い二人を急き立てる。

 セレンはシャナロッテと手を繋ぎながら、レアの鎧のベルトにしがみつき、必死に歩みを進めた。その間にも周囲を見渡したが、白騎士の親衛隊の人馬が高い壁となり、セレンの目線からは何も見えなかった。


 まるで靄の中に取り残されたかのようだった。

 白い靄の中は、何もかもがわからなかったが、それでも何とか状況を把握しようとセレンは空を見上げた。


 空には火が舞っていた。


 燃える夕景を背に、火が粉雪が切り裂く。そして次の瞬間、それらはセレン目がけて飛んできた。


 風を切り、火が哭く。刹那、レアが巨躯を翻し、セレンに覆い被さる。セレンも崩れるようにして身を屈める。

 風が哭き止み、僅かな悲鳴と呻き声が聞こえたあと、セレンは目を開いた。セレンのすぐ後ろにいた侍女のイリーナは仰向けに倒れていた。

 イリーナの胸には燃える矢が刺さっていた。見開いた目からは血涙が流れ、悶え苦しむたびに口や鼻から血が噴き出た。

 セレンはイリーナに駆け寄った。体に触れると、噴き出る血が顔や手に飛び散った。何か声をかけようとしたが、その前にレアに体を担ぎ上げられ、そのまま馬に乗せられた。倒れたイリーナの姿はもう見えなくなっていた。繋いでいたシャナロッテの小さな手も離され、リーシュの姿もすぐに人混みの中に消えた。


 されるがまま馬に乗ると、不意に視界が広がった。セレンは親衛隊の人壁の向こう、〈教会〉の十字架旗を燃やす炎に目をやった。そのとき始めて、セレンは戦場を目にした。


 その光景は、吟遊詩人や劇作家に語られる勇ましい物語や絵画に描かれる雄々しき戦場とは何もかもが違っていた。


 完全な敗軍と化した教会遠征軍を勝鬨の勢いに乗った帝国軍が追撃する。戦闘は一方的な殺戮へと変わり、至る所で無秩序な略奪と殺人が始まっている。それは紛うことなき人間同士の殺し合いであり、野獣どもによる人間狩りのようでさえあった。


 騎士道に則れば、勝敗が決したあとは寛容の精神を敵に示すことが慣習だった。士官階級の貴族らはもちろん、戦闘意志のない者、投降した捕虜には、相応の敬意をもって接するのが騎士の礼節である。だが帝国軍はその殺意を緩めることなく、牙を剥き出しにして殺戮を続けている。逃げる兵士の背中を嬉々として襲撃している。それは捕虜を一切取らない異教徒相手の絶滅戦争、もしくは〈黒い安息日ブラック・サバス〉で帝国軍が行ったとされる冒涜的殺戮。そして古くは〈東からの災厄タタール〉で〈東の覇王プレスター・ジョン〉ら東方異民族が行ったとされる虐殺騎行そのものだった。


 遠征前、〈教会〉の首都の教皇庁で行われたパレードで、〈教会〉の最高指導者である教皇や大司教、指導部の政治家、名家の王侯貴族たちは、この〈帝国〉との戦いを〈北部再教化戦争〉と呼んだ。そしてこの〈第六聖女遠征〉で、邪悪なるグスタフ三世と〈帝国〉に正義の鉄槌を下すのだと謳って遠征軍を送り出した。

 単なる旗印とはいえ、軍の総帥として不安がなかったわけではない。しかし十五万もの大軍と、鉄の修道騎士と称されるヨハン・ロートリンゲン元帥と、叩き上げの傭兵隊長であるヴァレンシュタイン元帥の存在が、その不安を今まではかき消してくれていた。

 誰もが、大軍をもって〈帝国〉を踏破するだけで勝てると言った。まともに戦えば〈教会〉の勝利は約束されたも同然だった。自分は旗印として座っていればいいはずだった。しかし戦火はすぐ目の前に迫っていた。命を狩り取ろうとする炎に、一切の容赦はなかった。

 これは〈教会〉という国家の威信を守るため、大陸の平和と安寧を保つため、そして〈帝国〉の皇帝グスタフ三世による前代未聞の蛮行、〈黒い安息日ブラック・サバス〉の報いを受けさせるための戦いである。それは正義の戦いであると、セレンも信じて疑わなかった。しかしここには大義も正義もなかった。あるのは血と炎に煽られた、殺戮の狂騒しかなかった。


 レアに抱えられて馬に乗り、同伴していた侍従たちと離れると、急に不安と孤独が圧しかかってきた。それに押し潰されまいとセレンは人を探した。

 第六聖女親衛隊はみな必死の形相で戦っている。侍従や従軍司祭らは人波に揉まれ右往左往している。セレンを抱えながら指揮を執るレアにはとても声をかけれる雰囲気ではない。

 五千人になる第六聖女親衛隊は明らかにその数を減らしていた。見知った顔の何人かは、地面に倒れていたり、負傷したりしていた。


 断続的に、得体の知れない恐怖が這い上がってくる。そしてそれが何か理解する前に、一際けたたましい奇声が戦場に鳴り響いた。


 親衛隊の人垣の向こうに、極彩色の騎馬群が浮かび上がった。炎を背に、けばけばしいその極彩色は縦横無尽に歌い踊り、そして無数の矢を放つ。矢は雨となり、また空を裂いた。

 その極彩色の獣たちはこの戦場にいるどんな騎兵とも違っていた。無数の首を鐙にくくりつけ、古き弓馬の術を駆使するその姿はまさに蛮族であり、多くの絵画に描かれる諸悪の根源、二百年前に〈東からの災厄タタール〉で大陸を蹂躙した、〈東の覇王プレスター・ジョン〉が率いた騎馬民族の出で立ちそのものであった。

「矢だ! 親衛騎士はその身を盾とし、セレン様をお守りせよ!」

 レアが叫び、ハルバードを振るい、矢を叩き落とす。しかし雨のように降り注ぐ火矢に、親衛隊の白騎士が、何人もの女騎士たちが貫かれ、地に落ちていく。


 夥しい血が飛び散り、死の臭いが充満していく。〈教会〉の十字架旗は燃え落ち、第六聖女の天使の軍旗は戦場の狂騒に汚されていく。飢えた怪物の如き奇声を上げる極彩色の獣たちは親衛隊の前で飛ぶように馬を駆り、その色をより濃くしていく。


 それらを目にして、セレンは戦場が何たるかをようやく理解した。


 目に映る全てが恐ろしかった。セレンは震える手で馬の首にしがみつき、〈神の依代たる十字架〉に祈った──死にたくないと。

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