1-10 戦塵の第六聖女①  ……セレン

 粉雪舞う炎の中で〈教会〉の十字架旗が燃え落ちていく。


 燎原の火を背に、教会遠征軍の旗印たる十字架を奉る天使の錦旗が揺れる。教会遠征軍の象徴たる第六聖女の軍旗が、白騎士の親衛隊に守られながらボルボ平原の野営地から落ちていく。


 天使の錦旗のそば、一際豪奢な屋形馬車の中で、教会遠征軍の総帥を務める第六聖女セレンは泣きそうになるのを必死に堪えながら座っていた。


 あらゆるものがくすんでいた。戦ってもいないのに、白い手袋、白銀の甲冑は砲火の煤に黒ずみ、外套やスカートの裾は飛散した泥で汚れている。セレンと同室する侍女たちも、戦闘員でないのにも関わらず同じように戦塵に汚れている。

 屋形馬車の外では怒号と罵声が飛び交い、鳴り止まぬ剣戟と銃声が断末魔と悲鳴を切り裂く。馬車の車輪は軋み、何かがぶつかるような音が絶えず馬車の中に響き渡る。

 馬車に同室する侍女たちはみな祈っている。修道女の僧衣に身を包む初老の侍従長リーシュと、セレンと同じ十五歳の侍女であるイリーナは向かいの席に、まだ十歳になったばかりの侍女のシャナロッテは、セレンの体にしがみつくようにして隣に座っている。

 戦場の喧騒の隅で、セレンは十字架のペンダントを握り締めながら必死に祈った。だが手は震え、歯の根は合わず、耳鳴りも止まなかった。

 セレンの腕の中でシャナロッテがすすり泣く。白銀の甲冑は刺すように冷たかったが、シャナロッテの小さな体は僅かだが温かく、それが少しだけ折れそうな心を繋ぎ留めてもくれた。

 セレンは横に座るシャナロッテの体を抱き寄せ、その背中をさすった。だが少女は小さな体を震わすばかりだった。

「ご心配なさらず、セレン様。親衛隊の白騎士たちが必ずや守ってくれます」

 その様子を見ていたのか、十字架を握り締めるイリーナが震える声で呟く。

「それに、ヨハン・ロートリンゲン元帥も殿軍を務めてくれています。かの高名な鉄の修道騎士様が、背中を守ってくれているのです。これほど心強いことはありません」

 侍従長のリーシュも励ますように言葉を続ける。若いイリーナに比べると、年長の侍従長はやはり落ち着いている。

「別れ際、ヨハン元帥は仰っていました。必ず生きて帰還せよと。そのために、私たちは戦う騎士たちに祈りを捧げましょう」

 イリーナは自らを奮い立たせるように言葉を紡ぎながらセレンを見つめてきた。セレンは不安を悟られまいと、何とか笑顔を作り、それに相槌を打った。


 去り際、顔を合わせたことまでは覚えていたが、しかし鉄の修道騎士が言った最後の言葉はイリーナに言われるまで完全に失念していた。

 ボルボ平原の本陣から落ちる際、これまで教会遠征軍の指揮を執ってきたヨハン・ロートリンゲン元帥は見たこともないほど厳しい形相をしていた。普段は優しかったその騎士の変貌ぶりは、あまりにも恐ろしく、セレンは無意識の内に忘れようとさえしていた。


 セレンは何とか〈教会七聖女〉としての顔を保ちながらも、心の底で自虐した。



*****



 伝承に語られる、〈教会七聖女〉の物語……。

 二百年前、〈東からの災厄タタール〉において大陸に甚大な被害を及ぼした〈東の覇王プレスター・ジョン〉とその騎馬軍が〈教会〉の〈信仰生存圏〉を侵した際、教皇庁に暮らしていた古の七人の少女たちは、剣と十字架を手に立ち上がった。〈教会七聖女〉は民衆を導き、神聖騎士たちを率いて立ち向かった。その信仰心は〈神の奇跡ソウル・ライク〉と呼ばれる大魔法となり、〈東の覇王プレスター・ジョン〉と蛮族の侵略を撃退した。それ以来、〈教会七聖女〉は〈神の依り代たる十字架〉を信ずる人々の団結の象徴となった。



*****



 〈教会七聖女〉は、神の御名の許、国家元首たる教皇猊下の手となり、人々を正道に導く者である。


 任じられたからには役目を果たしたかった。〈教会〉という国家を守り、偉大なる〈神の依り代たる十字架〉を守り、大陸の平和に貢献したかった。この〈第六聖女遠征〉の旗印として、兵士たちを鼓舞し、人々を救い、勝利へと導きたかった。


 だが、自分は何もできない──セレンはまた自嘲する。


 確かに〈教会七聖女〉はその地位が特別というだけでなく、〈教会〉の中枢に秘匿された神秘も授かっている。


 まず、席に任じられると同時に行われる、聖刻の儀式。このとき、体の一部に神の真言たる〈聖紋章〉が刻まれる。

 あのときは、たくさん泣いた。まだ幼かったゆえに体に傷が残ることは辛かったが、裸にでもならぬ限りは衣服で隠れるため、いつの間にか気にならなくなった。

 次に、初潮を迎えた年の〈冬の聖餐日〉に行われる、聖体拝領の儀式。一般的な聖体拝領はパンとワインで代用されるが、そのときは神の十字架を構成する実体であると言われる〈貴き白血〉を拝領した。

 杯に注がれた濁った白血は、苦く、臭く、とても飲めたものではなかったが、周りの目もあったので我慢して飲んだ。飲み干すと、司祭と賢人たちは褒めてくれた。特別何かが変わった感じはしなかったが、大人として認められたような気がして、嬉しくはあった。

 最後に、教皇庁の地下墓所で行われる、親愛の儀式。ここで、〈教会七聖女〉は慈母の愛を学び、育む。これに関してはただ与えられるものではなく、自ら体現せねばならないと教えられた。ゆえに今でも、時折行う。

 聖人の遺構とはいえ、暗く湿った地下墓はいつも不気味だったが、香気漂うその暗闇は不思議と温かかった。ただ、暗闇で裸になった自分が何をし、何をされているのかはよくわからなかった。


 だがしかし、それだけの儀式を経てなお、セレンは未だ何もできない。軍を指揮できるわけでもないし、剣を振るって戦えるわけでもない。国政を動かす権力があるわけでもなければ、神について探究できるだけの学識もない。ましてや、古き伝承に語られる〈神の奇跡ソウル・ライク〉のような、超常的な魔法の力などあるわけもない。


(いや、何もできないからこそ、選ばれたのか……)


 自分はただ、選ばれただけなのだ。数多くの孤児たちの中から、孤児院を仕切る修道士たちの点数稼ぎのために、身を売られ、祭り上げられたのだ。


 まるで第六聖女という肩書きをまとった人形だ──そんな思いを抱きながらセレンが侍従たちと祈っていると、突然、屋形馬車が止まり、そして扉が音を立てて開かれた。

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