第34話 静奈の長い話②
「静柰! いたか!」
「ああ、玲奈」
わたしが事務所に付いたのは静柰が受話器を投げ捨てた時だった。
わたしは彩加に逢ったこと。
それで理解できぬ現象が起きたこと。
たぶん一弥が監禁されていることなどを話した。
静柰は最初機嫌の悪さも最高潮だったが、わたしが受けた理解できぬ現象というモノに興味を示していたようだった。徐々に瞳には光りが宿ってくる。
それは歪な輝きを宿してギラギラと浪るような狂気を思わせた。
確かに喘っている。
ただ静かに喘っている。
だが、この仙術師。
いや――今は仙人か。
人の本性は笑うときに出ると言うが、まさに鬼のような冷酷な笑みに寒気すら感じ
た。
静柰はブツブツと独り言を言いながら終始気持ち悪く微笑んでいやがった。
彩加も狂っているが此奴の狂気には届かないだろう。
「それでどうだ?」
「どうだとは?」
「聞き直すな。わたしは見当が付いたかって聞いてるんだ」
「すまんすまん。少し頭の中を整理していた。まあ、ある程度はな」
「そうか。それで何とかなりそうか?」
「ああ。だが、それは今のところ推測でしかないからな。実際とは異なっているとは思うが。ただ、その能力とやらはある程度見当が付いた……」
「ふうん」
「そうだ玲奈。彩加の様子に代わったことはなかったか?」
「そうだな。あいつそういえば耳に見慣れないイヤリングをしていたぞ」
「ほう。どんな姿形をしていた?」
「蒼く透き通った丸い結晶--あれなんだっけ」
「スターサファイヤか?」
「ああ、それだ」
「他に何か思い出せるか?」
「ああ、確か文字が刻まれていたような」
「ふうん。文字ね。どんな文字だった?」
「そうだな。あれは確かCの反対みたいな感じが近い」
「ふうん。だいたいわかったよ」
「へえ。それでどうするんだ。アイツには真っ当だと近づけないぞ」
「そうだな。私は思うに、それは彩加の能力というよりも運だな。それとも偶然だと言い表せた方が良いか」
「はッ。運だって! 馬鹿馬鹿しい。あれが偶然なもんか! あれは、もっと必然的で決定的な何かだよ。あんなのが運だけで何度も起きるんなら確率なんて意味が無いじやないか!」
「ああ、それはそうだ。あの現象は確かに、お前の話を聞いてみて決定的だと私だって思えた。だがな、そんな決定なモノなどこの世には存在しない」
「だが彩加の場合は確かに決定的に見えたぞ」
「ああ、それこそが問題なんだ。それは思い描く未来を先に呟いて完璧に作り上げるのと同義語だ。そんなの神と預言者が共謀したイカサマだ。そんな莫迦な話ある訳がない。そもそも未来が仮に決定的であれば予想もできるがー-それはハイゼンベルクの不確定性原理によって否定されている」
「なんとかベルクが誰だかわかんないけど、要するに運とは偶然で決定的なモノでないと言うんだろ」
「ああ、従来の世界観では因果律に基づいた決定論が主流だった・だが不確定性原理によってそれまでの決定論に基づいた世界観にヒビが入れられてしまった。教会の言う神話の時代から神々が敷いたレールに慣れ親しんできた人間達には酷な話だったろうな。それまで尊んできた軸が一気に揺らいだんだからな。その衝撃たるや地動説が真実だと気づいた時の衝撃と何ら変らぬ衝撃だっただろう。それは砂の楼閣だったわけだ」
「ふうん。実感なんて沸かないけど、それは凄いことだったんだな」
「まあ、世界観が変ればそんなもんさ。幸い私たちは世界観が変った後の人間だから実感は湧きにくいだろうー-それが今の常識だからな。だが、決定論が完全に否定されたわけではない。ただ今では少数派というだけだよ」
「ふうん。なら決定論ってのも死んでないわけだ」
「ああ、決定論で有名な代物だと、まず浮かぶのが『ラプラスの魔』だろうな。これを極めて簡単に説明すると、これから起きるすべての現象が、これまでに起きたことに起因するという考え方だよ。これは因果律という言い方もする。それなら特定の時間の宇宙のすべての原子や電子、粒子の位置と運動状態が完璧に測定出来るようになれば、これから起きるすべての現象はあらかじめ計算できると考えられたわけさ。つまり必然的な結果というわけさ」
「ふむ。ちょっと待てよ。そうだとしたら物事には昔から原因と結果が必ず存在する。それが因果律って奴だろ。それを誰も否定できないぞ!」
「ああ、それはそうだ。そもそもそういう考え方が無いとビルを建てることも、飯を炊く事も出来ない」
「ならさ、何とかベルクよりも、決定論が正しいんじやないのか?」
「そう急くな。だが確かにそう考えたくもなる。なんせ、その方が身近だから理解しやすいんだ。さっきの例は全て原因と結果としては正しい現象だ。なぜならそれは古典力学の領域だからな。だが、その連続性つまり――過去、現実、未来の間に必ずしも決定的でなくて良いんだ」
「よくわからないな。ひょっとして解りにくく説明してないか静柰?」
「ああ、確かに解りにくく説明してるかも知れん。だが因果関係といわれる現象の繋がりとは、単純に『物を落としたら割れる』という現象や『水を加熱すれば蒸発する』という現象を繰り返し体験することによって自分が理解できてしまった事に過ぎないんだ。人間が一切をひっくるめて理解しやすいように勝手に解釈してるだけだよ」
「でも、そうすると決定も何も確定していない事になるんじやないか。あれ、だとすれば飯も炊けない事になるんじやないのか……」
「ああ、この考え方はディヴィツド・ヒュームが発表した18世紀当初から懐疑主義的だと批判されていたからな。だがこれは、そういった限定的な解釈で物事の総てを錯覚するなという提言だった。浅い経験に基づいて結果を確信するのは心の中にある先ほどの必然性が確信させているだけだということだ。つまり蓋然性は必ずしも必然性を要求しない事になる・彼は連続して起こった偶然(現象)を錯覚(決定的に観測すること)している可能性があると疑ったんだ。それが運命なら尚更だろう。どうやって運命のような摩河不思議なモノを数値化できるんだ。そもそも今の人間の認識力で運命なんて複雑すぎてシミュレートなんて出来はしない。人の手である程度完全に確立されているのは精々古典力学までだよ。それ以上のモノだと不確定要素が多すぎる。もし運命が完璧に操作できるのなら、まさにそれは魔法の領域だよ。それに人の運命とか人類の将来なんていうのが既に確定されてしまったら生きてゆく意義なんて無いだろう。人類が滅亡に向かって歩いているのは自然なことだ。人もいつかは死ぬ。何にでも死という名の終りがある。人類だけに終りがないなんて誰が決めつけられるんだ」
「確かにな……」
「もっともアインシュタインは『神はサイコロをふらない』と不確定性原理を否定してたがね」
「へえ。あのアインシュタインがね。でも決定論って少数派になったんだろ」
「ああ、だがそれも自らが考え出した特殊相対性理論から発展した量子力学の基礎が確定しても彼は確率論に懐疑的だった。いや、むしろ否定派の急先鋒だった。だから決定論を擁護して『隠れた変数』などを引き合いに出したが、確率論を倒すことはできなかった。だがこの隠れた変数っていうものはユニークな考え方で厳密には否定も肯定もできない、もしかしたら在るかも知れないし始めから無いのかも知れないだけど人間の知恵ではまだ手が届かない問題だから厳密に無いとも答えられない。まさに神の存在証明って奴だな。もっとも不在証明と言い換えても同じ事だけどね。どちらにしても今の人類の認識力では証明は不可能だよ」
「ふうん」
「話が逸れてしまったが、木当は私が気になったのが、この考え方に出てくる神のサイコロという概念なんだ。アインシュタインは『神はサイを振らない』といってるけれども、確率論で考えるなら誰かが振っていることになるだろう。まあ、それが神かどうかは知らないが、推測するに大掛りなシステムだろうな。まあ、それを仮定してお前から聞いた彩加の現状を当て填めて見ると、彩加の能力とは、ある特殊な条件付確率だと考えることが自然だと考えられる。それが増加か減少に影響を起こしているかは知るよしもないがね」
「増加と減少?」
「ああ、お前の話だけでは彩加の運が良くなったのか、お前の運が悪くなったのか傍目からはわからないだろう?」
「なるほど――だが、わたしは自分の運が悪くなった気がした」
「まあ、そう考えるのが普通は妥当な考えだが、それは何度目に、そう思えたんだ?」
「そうだな。たぶん三度目かな。それで、この頭は彩加に触れられないと真剣に考えた出した筈だ」
「だろうな。それで、四度目は積極的に行けなかった。いや、もっといえばいかないようにした。そうだろう――玲奈」
「ああ、当りだ。静柰」
「お前は、四度目を経験してしまったら今までの経験上、二度と彩加に近づけないと自分が思い込むのを防いだわけだ」
「ああ、確信するのを本能が不味いと思ったらしい」
「それは上出来だった。もし仮に四度目があったらお前は彩加に近づけないと自分自身に無意識の暗示を意図的に白覚しながらかけることになっただろう。そうなったら本当に終りだ。ただの偶然ですら意識してしまって鮮花に本当に近づけなくなる。心理的なモノは通常、人が考えるよりも大きな力を持っている。だとしたら心理上には自分の運が増大すると公言するより、ただ襲えといった方が効果が高い。なにしろ襲う側は予期せぬ不意を喰らわせられるからな。それで指先一本触れられなければ動揺し、それが三度も続けば本物に思えてくる。それ以上、試したなら絶対という確信になるだろう。それは彩加にしたとしても誰にも触れられないという確信に変化し益々念は強くなるだろうしな。それにしても彩加の戦術は中々だった。私の生徒としては合格だ。玲奈、お前はまんまと引っかかったというわけだ」
「うるさいなー-わかってるよ」
「だが、これは、お前にとっても良い経験だった筈だぞ。幾らか苦戦した経験がないと実践では何の役にもたたない。戦いで圧勝しただけの天才と、苦戦しながらもなんとか生き抜いてきた凡才。両者の能力が等しく平等ならば修羅場の数だけ凡才の方
が有利だ」
「なるほど……」
――悔しいがその指摘は当たってる。
それは静柰の言うとおり、彩加を完全に凪めていたからこうなったんだ。
そして結果として相手の得物を見切ることができなかった。
わたしは普段から命の殺り取りだなんだのと言ってはいるが――あれが本番ならもう命はなかった……。
「玲奈――負けても命があっただけ良しとしろ」
「ああ。そうだな」
「ふむ。取りあえずお前が彩加とやり合った所まで案内してくれ。何か痕跡があるかも知れないからな。幸い約束まで時間もある」
「ああ、わかった」
そうして、あたしたちは現場へと急いだ。
静柰は辺りを見渡して隈無く観察をした。
「静柰どうだ? 何か見つかったか」
「うん。何でもない」
だが静柰は顔を曇らせてそれ以降、事務所に戻るまで一言も口を開かなかった。
「――玲奈。困ったことになったぞ」
「静柰どういう事だ」
「現場に行けば何か落ちていると思ったんだけどね。何も無かった」
「なら、あの現象はなんだったんだ」
「ああ、確かに空間の歪みとか、僅かな痕跡は存在していたが、それより問題なのは媒体が無いことだ。ひょっとすれば彩加が持っている。あの石が少しずつでも溢れていたらと思ってたんだが結果として何も無かった」
「無いと駄目なのか?」
「ああ、最悪だ。それはそうだろう。なんせ、彩加は常にサイコロの目で六を出し続けている事に等しい。いや、それどころか、もっと巨大な数の賽の目を出していることになるだろう。そんなの不自然だろ。もともと無理があるんだ。それに空間の歪みも観測された。あれは魔法というよりも高度で、もはや奇跡に近いモノだ。言ってみれば神業だよ。それを媒体も無しに使い続けているということは、知らぬ間に何かしらの対価を支払っているということだ。それに彩加の奴は因果律に基づく必然を繰り返しているー-もしかするとエヴェレットの多世界解釈に近い現象なのかもしれない」
「なんだ、その多世界解釈ってのは?」
「お前はシュレーディンガーの猫の話はしているか?」
「ああ、一弥から聞いたことがある、たしか猫が入っている箱を開けるまで生きてるか死んでいるかわからないって奴だろ――わたしは例え話でも猫が死んだりするから、あんまり好きな話じやないけど」
「ああ、そこまで知っているなら話が早い。簡単にその考え方を説明すれば、その世界が少なくとも二つは平衡していると解釈される。それを拡大解釈すれば世界は非常に多数の世界(可能性)に分かれて、その一部が『猫が生きている世界』であり、また別の一部は『猫が死んでいる世界』であると言うのがそれを見ている観測者の正確な立場という奴なんだ」
「へえ。それって確率が1:1になって、どちらとも云えないという話だったよな」
「ああ、それで観察者が二つの世界の狭間に存在する事になる。結果として、その空間だけは二つの世界が重なっている事だとも解釈できるわけだ。ならば二つの世界が、いや二つの可能性が重なり合っている状況も解釈が可能だろう。それで問題なのは彩加の場合だが、玲奈との遣り取りでは、彩加に触れられるか触れられないかという限定的な意味だけで考慮すれば、常に触れられない状況を作り出している。それが必然だと考えられるなら、猫の話を鑑みるに常に生きているか死んでいるかを彩加自身が好き勝手に決定していることになるんだ」
「なるほど運命を変えられるって事か……」
「ああ、なら究極のイカサマだって事だ。常に都合の良いことを選び続けるならば、
世界中の人間とジャンケンをしても勝ち続けることが可能だ。もちろん確率的には 限りなく少ないが――それは在りうる。ゼロだとは確定できない。だがそれが可能だ
ったら、それは天文学的な規模の確率になるだろう。通常なら不可能だ。それを彩加は必然的に行える可能性がある。なら彩加は常に神を欺いていることに等しい。そん
な事を自己都合で繰り返していれば、その先に突発的な消失があるだろう……つまり
消えるのさ」
「――突然消えてしまう?」
「ああ、いつかは消えるだろうな。もっとも二度とこっち側に戻って来れないといっ
たらわかりやすいかな。それに彩加と一緒にいる一弥まで存在を消しかねない」
「なんだと!」
「このままの状態を維持すれば、常に近くにいるならば二人して異世界に駆け落ちだな」
「――!?」
「一弥がモロに影響を受けるだろう」
「あいつらアダムとイブにでもなるつもりか!!」
「悪い悪い。今のは冗談だ。しかし、可能性は充分ある」
そう静柰は窓の外を眺める。
「――静柰」
「うん?」
「原因は何だ。何をどうすればいい。どうすれば昨日までの日常に戻るんだ。あたしはどう動けばいい。もうそろそろ見当は付いてるんだろう」
「ああ、そうだとも。だからそんな泣きそうな目で私を見るな。それとも玲奈――お前。一弥と何かあったか」
「ふん。あったが悪いか……」
「いいや。良い答えだよ。なら、そろそろ彩加を懲らしめる準備をしようか――少し
ばかり手間が掛かるぞ」
そう呟くと静柰はわたしの顔を見て微笑んだ。
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