第29話 涙
途端に目が覚めた。
起き上がると涙が頬を滝のように流れ落ちていた。
とてもとても悲しかった。
でも明確に言語化できない。
イメージだけが、あたしの中で激しく渦巻いている。
だが、あたしには今が夢か現か、直ぐに確かめる術を持っていなかった。
眠りから覚めきれぬ境界に立っていた。
恐る恐る熱帯びた顔に触れてみる。
すると、あたしには今が確かに現実だと実感があった。
それが確かめられると今度は嬉しくて嬉しくて涙が止め処なく流れ落ちた。
あれは夢だったのだ。
それがどれ程、あたしを救ったのかは表現出来ない。
――ともかく良かった。
「本当に良かった」
たったそれだけの言葉がやっと呟けたのは少し時問を経過した後だった。
次第に意識の澱みが流れ落ちて冷静になった。
記憶はイメージとして、まだ近くにあった。
頭の中を整理するように目を閉じた。
イメージは止まらない。
それは霧のように近づけば刹那に四散してしまう。
意識する為には何かに変換しなければならない。
今見た夢を思い出すみたいに。
そして何度も頭の中の記憶を再生する。
何かを思い出そうとするみたいに。
それは連想ゲームのように次々に思い出されてゆく。
記憶のイメージは黒。
その黒が陽炎のように立っている。
あれは人だった。
茫然と立っていた。
ああ、そうか。
あの黒い陽炎のような人影は、一弥。
あれは一弥だった。
真剣な顔をして何処かに歩いて行ってしまった。
もう呼んでも振り返らなかった。
この手は振り払われてしまった。
一弥は何かの境の上にいた。
それだけが漠然と理解できた。
酷く悪い予感がした。
あたしの中で一弥という平衡が釣り合いを失い、その世界に大きな亀裂が見えた。
その先に漆黒の闇が果てなく広がっている。
一弥を黒い混濁の渦へと誘うように。
それは朧気で曖昧な記憶だった。
これが、あたしの悲しみの正体だった。
もう、いてもたってもいられなかった。
あたしは不安に押し潰される前に駆け出した。
もう知識とか理論なんて関係ない。
これは直感だ。
何かが起き始めようとしている。
しかもそれは極めつけに良くないことだ。
そう訴えるのは幾多の死線を潜り抜けた勘だと言えた。
それは最も貴い経験だった。
――決定的な何かを感じる確かな観念と考えても良い。
ともかく彩加を止めよう。
いや、一弥をだろうか……。
思考にならぬ言葉の群れが私の頭の中で駆け巡った。その半分も明瞭にならず ――ただ、わたしは全方位から押しつぶされるような重苦しい観念に苛まれた。
その強烈すぎる心象は彩加の中に混じりけのない狂気を思わせる。
それは濃密で喧せ返るような純度を保ち、あたしは嫌悪感に陥って目眩すら覚えた。
あたしは、まだ自分が涙を流していることに気が付いて、それを拭った。
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