第3話  珈琲とフローリアンのケーキ



「静柰さん。おめでとうございます」

「静柰さん。おめでとうございます」

「うん。一弥、彩加。ふたりともありがとう」

 事務所には一弥と彩加が来ていた。

 一弥はしばらく手伝いをする事が決まっていた。彩加も修行の一環で見習いの弟子と成っていた。

「事務所の名前は何ですか?」

 彩加が聞くと

「まだ、決めていないが、此処はよろずの鑑定事務所だから。雨宮鑑定事務所で良いと思うがな」

「愛称があっても良いじゃないですか。なにか良い名前は無いですか?」

「う~ん。そうだな。一弥君。なにかないか?」

「――そうですね」

 そう天を仰いで考え込みながら一弥は珈琲をいれる準備をしていた。

 彩加が、美味しいと評判のお店でケーキを買ってきたからだった。

 一弥は手元を殆ど見ていないが、先程、駅前の黒豆屋で、焙煎して貰ったばかりの珈琲豆を袋から出して手動のミルで挽くと、それだけで、部屋の中を豆の薫りが包み込む。

 ペーパーフィルターに折り目を付けて、サーバーの上のドリッパーに丁寧に装着すると深めにローストされた中細挽きのガテマラを4人分程で綺麗な山を作る。

その頃になれば、井戸水を入れた鉄瓶が音を立てるので、それを注ぎ口の細い銀色のドリップポットに注ぎ込む。

 頃合いを見つけて、ドリップポットを傾けると糸のように細いお湯が出てくる。

 これを周りの紙フィルターに直接掛からないように丁寧に注ぎ込むと、大量の炭酸ガスが出てくるので、この山を育てる。

この山が綺麗に出来れば成功といえる。

 彩加は微笑みながらこの薫りと光景を見ていた。静柰も腕組みをした指を顎に当てて見守っている。

 あとはゆっくりと注いでいくだけである。

 注ぎ込まれるお湯がリズミカルな音を立てていたが、その均衡を破る声が聞こえてきた。

「なんだか、良い匂いだな。お、一弥。静柰。それに彩加か。あ、珈琲か!」

 雨宮玲奈が現れた。

「お、フローリアンのケーキもあるじゃん。これ誰が買ってきたの?」

「わたしです」

「お、彩加。やるやん!」

 そう玲奈は彩加に満面の笑みを向ける。

 彩加は片方の目が僅かに細められたが、玲奈は気にもしていない。

「うん。玲奈の分もあるよ」

 そう一弥から声をかけられると、目線は一弥を捕らえている。

「さすがは一弥。嬉しいね。フローリアンのショートケーキは絶品だからな。それに一弥の珈琲もあれば鬼に金棒ってやつだよな」

「玲奈。お前良い時に来たな」

「まあな。静柰の事務所の開業祝いだから、祝いの言葉のひとつでも言わないとなぁ」

 一通り準備が終わると4人はシステムソファーに向かい合って座ると、一瞬にして一弥の隣には玲奈が座っていた。

正面には彩加が陣取る。

「いただきます」

 4人の声が同時に発せられると、ケーキの体積は少なくなっていった。

 フローリアンのケーキは完璧だった。

 それにもまして、一弥の珈琲も完璧だった。

 一弥の珈琲は一口飲むと、ガテマラの薫りに身体の中からも包み込まれてしまう。

 仕上がりは完璧だった。

 深めのコク。

 程良い苦み。

 酸味に至っては殆ど感じられない。

 更には、まるで水出し珈琲のような甘み。

 すべてが一流で完全な芸術品の様に彩加には感じられた。

 むろん、静柰も同様の感想を持っていた。

すべては上手く行くはずだった。

だが、それはふとしたことだった。

おもむろに、玲奈が立ち上がると、牛乳と砂糖を持って来た。

そして、そのまま、一弥の特性珈琲にドバドバと投入。

そして、スプーンでかき回すと、砂糖と牛乳はブラックに溶け込んで、ただの珈琲牛乳へと変化した。

「玲奈。アンタなにしてんの?」

 ガタッ。思わず彩加がと立ち上がる。

「うん。なにって、この方が美味しいじゃんか」

「折角、一弥が丹精込めていれた珠玉の珈琲を……」

 彩加の目線が玲奈に鋭く突き刺さるが、

「ああ、あたし、ブラックは苦手なんだわ。甘い方が美味しいし」

 なにが? どうかしたのか? 

 そうキョトンと目をパチクリさせながら、珈琲牛乳と化した珈琲を澄まし顔で頂く玲奈。

 その顔を見て驚愕のあまり、静柰の顔を見るが、静柰は上品に珈琲カップを持ち上げて形の良い唇に運んだだけだった。

 彩加は思わず、一弥を見つめるが、一弥は玲奈の方を向いて微笑んでいる。

 ――彩加の方には目線は来なかった。

「玲奈。美味しかった?」

「うん。一弥。これ美味しかった!」

「よかった。丹精込めた甲斐があったよ!」

「一弥は一流だな。だけど、もう少し苦みがないと完璧だな!」

「うん。玲奈、もっと練習するよ」

「うん、一弥、お願いね」

 彩加はこれ以上の声を上げられなかった。

 ひとり事情を察して腕を組みながら、静柰は少し寂しげな表情で微笑んでくる。

(彩加、人の嗜好は人それぞれだからな。それは各人が一番美味しい方法で味わえば良いんだよ)

 そう心に声として聞こえてくるように感じられた。

 彩加は思わず顔を何度も手で拭うとそのまま外に出て行ってしまった……。

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