『錦繍』
手紙のやり取りでおもいだすのが、『錦繍』著:宮本輝である。
高校教師の大場敦史は、小学校時代の恩師で三十八年の教師生活を終え定年するも入院している竹沢真智子の依頼で、彼女のかつての教え子六人に会いに行く。六人と先生は二十年前の不幸な事故で繋がっていた。それぞれの空白を手紙で報告する敦史だったが、六人目となかなか会う事ができない。過去の「事件」の真相が、手紙のやりとりで明かされる書簡形式の連作ミステリー『往復書簡』について、あーでもないこーでもないと、二十年後の宿題をする物語……ではない。
「前略 蔵王のダリア園から、ドッコ沼へ登るゴンドラ・リフトの中で、まさかあなたと再会するなんて、本当に想像すら出来ないことでした」
という書き出しではじまる。
かつて二十七歳と二十五歳の夫婦だった二人が、紅葉に染まる蔵王で十年の歳月を隔て、三十七歳と三十五歳という別々な人生を生きる二人となって、束の間の再会をする。
一人は平穏ではない日々に疲れ果て、もうひとりは障害の子を持つ母として。ほとんど言葉をかわすこともなく、再び別れた。
一瞬の邂逅をきっかけにかつての妻、勝沼亜紀は十数年ぶりにかつての夫、有馬泰明に手紙をしたため、泰明も躊躇いがちにそれに返信してはじまる往復書簡が、それぞれの孤独を生きてきた二人の、過去と現在をつなぎ、孤独の穴埋めをしながら、未来へと踏み出していく男女の人生の物語である。
文通は、離縁の原因となった泰明の不義からはじまり、さられた悲しみを書き綴っていく。別離の元凶となった由加子への憎悪と、息子が障害児として生を受けたことの遠因としての泰明への怨恨を。奇縁で再婚するも、通い合わぬ心。宿業めいた自らの因縁を。
泰明は書き綴る。離婚以後のすさんだ生活を。死にゆく自分を離れた所から見た臨死体験を。現在ともに暮らしている令子の献身と、彼女の祖母が語ったという生と死の巡りあわせを。令子の発案によるささやかな新事業の立ち上げによって少しずつ回復していく心を。
互いの幸せを心から祈りながら、手紙の応酬は消え、二人は本当の別離のときを迎えるのだった。
美しくも悲しい物語である。
死別とはちがう今生の別れは、より辛い。
どれだけ思いあっていても、それぞれの道を行かねばならないことは、この世にはあることをこの小説は教えてくれる。
タイトルの『錦繍』とは、錦と刺繍をした着物のこと。転じて「きれいな衣服」を意味し、さらに転じて「紅葉の美しさ」「きれいな着物」にたとえた比喩である。
ロープウェイから眺めた蔵王の紅葉の美しさが『錦繍』なのだ。
本書を知ったのは、かつて放送されていたTBS系番組「はなまるマーケット」に出演したゲストで、まだ若い女優さん(まだ十代くらいだったとおもう)から紹介されたのを、たまたま拝聴したのがきっかけだった。
そんな子が読んでいるのだったら読まねば、と思ったのだ。実に単純である。
手紙のやり取りで物語が紡がれている作品を読んだのは、はじめてだった。
そういえば、宮本輝の作品をよく読んでいた友人から、「この人が書く作品はいいものが多いから、読んだほうがいいよ」と勧められたことをおぼえている。
本書を読んだのは登場人物よりも年齢がずっと下だったため、男女の機微の小難しさになやみながら、読み終えるのに随分と時間がかかった。
作品の題材に不義が用いられることはよくあるのだけれども、ドロドロとした人間模様を好まないので、とっつきにくかったのはおぼえている。
当たり前だけれども、人生は人の数だけ存在し、似通ったところはあるけれども、それぞれがみんな違う生き方をしている。ちがいながらも、普遍的な部分に落とし込んで愛と再生を、作品として書いて読ませてくれるところに、この作家の凄さがあるのかしらん。
冒頭が実にいい。
するっと読ませておいて、「蔵王のダリア園から、ドッコ沼へ登るゴンドラ・リフトの中でまさかあなたと再会するなんて、本当に想像すら出来ないことでした」と、ダリアという存在感ある優雅な花が咲き乱れる園という場所を伝え、「ドッコ沼ってなに?」と読み手に思わせて、ゴンドラ・リフトという不安定で宙ぶらりんなものから、揺れている心情も読み取れ、主人公と再会したことがわかる。
しかも、続きを読みたくなるような書き出し。見習いたいと思った。
手紙を書いて出したくなる、そんな作品の一冊である。
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