『赤毛のアン』
前回のニューファンドランド島の流れから思い出すのは、「赤毛のアン」著:ルーシー・モード・モンゴメリである。
二十世紀初頭のアメリカ西部。四歳に母をなくし、父ジョン牧師からどんな逆境にあっても喜びを見つけ出すゲーム「よかった探し」を教わり、明るく元気な女の子に成長していくが、その父も病死し、遠く東部に住むパレーおばさんに引き取られ、酷い仕打ちをされる。どんな逆境にあっても「よかった探し」をする彼女の優しさが、次第に周囲の人々にも幸福をもたらす「少女ポリアンナ」について、あーでもないこーでもないと熱く語ったお話……ではない。「アン」ちがいである。
ニューファンドランド島よりもカナダの東海岸近くにある、セントローレンス湾に浮かぶプリンスエドワード島のグリーン・ゲイブルズに住むカスバート・マシュウとマリラ兄妹は、働き手となる十一歳の男の子を孤児院から引き取るつもりだったが、手違いで空想好きな赤毛の女の子アン・シャーリーがやって来てしまった。
戸惑いを隠せないカスバート兄妹だったが、追い返すわけにもいかず、アンに別の引き取り手が決まるまで家に置くことにする。
明るくて空想とオシャベリが大好きなアンは、頻繁に騒動を起こしていく。だが、親友のダイアナやクラスメートのギルバート、愛情深いマシュウとマリラに接するうちに、聡明な女性へと成長していく。やがてアンは、クィーン学院を優秀な成績で卒業するも、マシュウの突然の死や老いたマリラのために大学進学をあきらめる。そんな彼女のことを知ったギルバートは、彼女にアヴォンリーの学校教師を譲る。これを機にアンは、長年反目しあってきたギルバートと友人になるのだった。
新聞にあった「男の子と間違えて女の子を引き取った夫婦の話」という記事を読んで着想を得たモンゴメリは、プリンス・エドワード島の田舎で育った自身の少女時代を投影しながら「十一歳でアヴォンリーのカスバート家に引き取られてからクィーン学院を卒業するまでの少女時代の五年間」の作品を書いたという。
モンゴメリー自身、早くに両親と離れて祖父母に育てられたため、孤独で理解されない子供として育った経験を持つところも、主人公アンと重なる。
のちにアンとギルバートは結婚し、子供も生まれ、その子供たちも結婚して、アン・ギルバート夫妻は祖父母となるまで話がつづく。全九巻と短編二冊。続編や周辺人物にまつわる作品がある。
作品に興味を持ったのは、アニメ雑誌内で高畑勲監督のアニメ「赤毛のアン」のBOX化広告をみたときだった。
そういうアニメがあるんだと思っただけで、作品を見ようとは思わなかった。
しばらくして作品に興味を持つキッカケとなったのが、「新世紀エヴァンゲリオン」である。
ネルフマークに書かれた「God's in His Heaven,all's right with the world」は、十九世紀に活躍したビクトリア朝のイギリス詩人ロバート・ブラウニングの作品に出てくる劇詩の一部。訳は「神は天にいまし、すべて世は事もなし」赤毛のアンにも引用されている、と知った。
児童文学と特撮表現を多用したSFアニメがどう結びついているのだろう。興味を持ったものの、小説を読もうとまでは思い至らなかった。
「赤毛のアン」のアニメを見れたのは、それから随分と歳月が経つのを待たねばならなかった。
高畑監督に「ハイジの時みたいにできないのか」と何度も説得されたにもかかわらず、宮崎駿は「ルパン三世カリオストロの城」に誘われると、赤い髪を振り乱した鬼のように怖い顔の女の子の絵と「後はよろしく~」という書き置きを残して、四話目でさっさとやめて移ってしまったというアニメ「赤毛のアン」のデジタルリマスター版を見る機会が、唐突に訪れたのである。
最後まで視聴すると、マシューは死に、マリラは失明寸前。経済面も加わり大学進学を諦めざるを得なくなる。だがギルバートから学校の教職を譲られ、二人は気持ちを確認し友人となる。通信講座で大学の勉強も出来、希望はどこにでもある。いろいろなことがあったけれども、すべては神の摂理のなせるわざ。神のお導きどおり頑張っていこうとするアンが最後に言うセリフ「神は天にいまし、すべて世は事もなし」と使われていた。
その後が気になり、遅まきながら小説を読みふけった。
それほど「赤毛のアン」は魅力的な話だ。
作品の特徴として、ウィリアム・シェイクスピアやイギリスの詩人アルフレッド・テニスンの作品引喩、アメリカの詩、『聖書』の句が多数引用されている点があげられる。基本、アニメと流れは同じだけれども、アニメのほうが丁寧につくられているのが読んでいてわかった。
実在するエドワード島をつかいながら架空のアヴォンリー村を舞台にしているところや、主人公の容姿描写が「赤毛」「そばかす」「やせっぽち」と強調されている点も特徴だ。
明るくポジティブな少女にみえて、肉親の温かみを知らず孤児院で育った心の傷から、自信のない愛情に飢えた少女という一面ももっている。やがて家族の愛を受け、生来の活発さが花開いていく。
現実にある架空の村にやってきた外見コンプレックスの塊である主人公アンの姿が描かれることで、読者が憧れても手の届かない夢世界ではなく、疑似体験が可能な現実味ある虚構だったから、魅了されるのだろう。
作者が、日常のささやかな幸福をテーマにしたことが伺えるセリフがある。
「結局、一番、幸福な日というのは、すばらしいことや、驚くようなこと、胸の沸き立つような出来事が起こる日ではなくて、真珠がひとつずつ、そっと糸からすべり落ちるように、単純な、小さな喜びを次々に持ってくる一日一日のことだと思うわ」
子供のときに読んだ人が、大人になってもまた読みたくなる、そんな作品だろう。
あれほど「心の友」と誓いあったダイアナ・バリーだったが、のちの作品に出てこない。あの誓いはなんだったのだろうか。それだけが心残りである。
原題は『Anne of Green Gables(緑の切妻屋根のアン)』だった。このタイトルのせいで、なかなか読んでもらえなかったという。
だが、一九五二年に村岡花子の訳で「赤毛のアン」と邦題をつけて出版されるや、日本はおろか世界中の少女も惹きつけ、本国カナダでも公認のタイトルとなったという。
やはり、タイトルは考えものである。
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