『KYOKO』
村上龍の小説で思い出すのは、「KYOKO」である。
東海旅客鉄道が一九九三年、平安遷都一二〇〇年記念事業に合わせる形で開始され、首都圏や中京圏から観光客を誘致するため、映像やキャッチコピーを駆使して桜や紅葉など季節ごとの風景を紹介しながら魅力を紹介するキャンペーン「そうだ 京都、行こう。」と二〇一六年より開始された新シリーズ「そうだ 京都は、今だ。」について、あーでもないこーでもないと語り尽くす……作品のことではない。
この小説のいいところはいくつもある。
だが、あえてひとつだけ選ぶなら、多目で描かれているところだ。
わたしが複数の登場人物たちの視点によって描かれた小説を読んだのは、おそらくこの小説がはじめてだった。
村上龍の小説「ラブ&ポップ」を読んだ私は、次にと、手を伸ばしたのが今作品だった。
本小説は、村上龍が監督・脚本を務めた映画を、自身で小説化した作品である。
そのことは彼のエッセイや「KYOKOの軌跡 神が試した映画」にくわしく記載されているが、読んだときはそんなことは知らなかった。
八歳の時、米軍基地にいたGIのキューバ系アメリカ人、ホセに出会い、ダンスを教えてもらったキョウコ。別れ際、連絡先を教えてもらう。
そして十二年の歳月が流れた。
トラックドライバーの仕事で貯めたお金で、ホセに会いに行く。キョウコは、どうしてもダンスを教えてくれた彼に感謝を伝え、続けてきたダンスを披露し、もう一度一緒に踊りたかったのだ。
十二年間も連絡をとっていないので、覚えているのか不安だった彼女。
ニューヨークを訪れ、自らが運転する車でマイアミへ行き、さらにキューバにも行く。その間、キョウコは大勢の人々に出会った。
この小説は、キョウコ視点で語られるモノローグとエピローグ、三度のインターリュード以外は、アメリカで出会った登場人物たちの視点で語られている。
エイズに感染しウイルスで脳を侵されていたホセは、キョウコのことを忘れていた。だがラストでホセが体を張って彼女を助け、一緒に踊るところは印象深い。
あまりにいい話だったので、文庫サイズの「KYOKO」を友人の誕生日に贈ったほどである。
一人の人物を、複数の人物によって多面的に描かれている小説を書きたいと思ったことを憶えている。いざ書こうとすると難しい。
多くのキャラクターによる視線で描く場合、表と裏だけでなく、様々な姿を描ける利点がある。同時に、それだけの姿を見える目を作者はもっていなくてはいけない。
多目で書く場合の欠点は、どうしても見られている人物(主人公)は無口になるということだ。誰かと接している場合のみ、喋る姿が描かれる。
もし主人公が無口キャラなら、主人公なのに綾波レイや長門有希のような、一切セリフが出てこない状況になるだろう。
下手するとモノローグすらないので、読者には主人公はなにを考えているのかわかりにくくなる。
なので、適度なモノローグシーンを挿入する手法が必要だ。
多目で書く場合の手本となるような、小説である。
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