『兎の眼』

 印象に残っている作品は、「兎の眼」著:灰谷健次郎である。


 作品を知ったのは、担任の先生が読み聞かせをしてくれたからだ。

 ただ、内容は覚えていなかった。

 なので、大きくなってから書店で文庫本をみつけて購入した。

 読みながら、こういう話だったと思い出すところもあったけれど、こんな話だったのかと驚いたこともおぼえている。


 大学を卒業したばかりの新任教師・小谷先生は、受け持つ一年生のクラスにいる「鉄三」に打ちのめされるも、鉄三の祖父であるパクじいさんや同僚の「教師のヤクザ」とあだ名される足立先生、そして子供たちやとのふれあいの中で鉄三と向き合う決心をし、彼の中に隠された可能性に気づいていく。そんな話だ。

 正直、子供だったので話の内容はろくにおぼえていなかった。

 ただ、読み聞かせてくれていたことだけは記憶の片隅に残っていた。

 だから書店の本棚で文庫本をみつけたとき、思わず手にとっていたのである。

 タイトルの由来は、奈良県の西大寺にある文殊菩薩騎獅像ならびに四侍者像(獅子に乗る文殊菩薩を中心に、左前に『善財童子』、右前に獅子の手綱を執る『優塡王うてんのう』、左後に『仏陀波利ぶっだばり三蔵』、右後に『最勝老人』。中国の五台山の文殊信仰に基づく文殊五尊像)のなかの、善財童子の眼が美しく、人の眼ではなく兎の眼だと小谷先生が思ったからだ。

 なぜに美しいのか。

 小谷先生は考え、脈絡もなく高校時代の恩師の言葉を思い出す。

「人間は抵抗、つまりレジスタンスが大切ですよ、みなさん。人間が美しくあるために抵抗の精神を忘れてはいけません」

 聞いた当時の彼女は意味がさっぱりわからなかった言葉で、すっかり忘れていたにもかかわらず、思い出したのだ。

 小谷先生は、善財童子の目が美しいのは抵抗しているからだと考えたのかもしれない。


 善財童子とは、法華経に登場する子供。

「人はなんのためにこの世に生まれてきたのか?」この問いをもって五十三人の先生を訪ねる旅にでる。

 人生とは、一生かかって人間となる修業をする旅路のようなもの。つらいことや悲しいこと、腹がたつときもあればたまに嬉しいこともある。それらすべての経験が、私という人間に知らせてくれるかけがえのない修行である。

 善財童子は、五十三番目の先生に出会ったとき、悟りを開かれたという。

 誰しもが、ときに不平不満をいだき、自己の我執に囚われる。だけれども、本当の「私」に出会わなければ決して心が充たされない。自身を律し我儘に抵抗をしているからこそ、善財童子の目は美しいのかもしれない。


《「学校の先生をやめます。きょうから、ただのオッサンになります。さようなら」

 ぼくがそういうと、みんなポカンとしていましたナ。ぼくはそのとき三十七歳。獣七年間みんなの友達でいて、ある日ふといなくなってしまったのですから、みんなはあっけにとられたのでしょう。》


 一九七四年に刊行された『兎の眼』のあとがきには、かつての教え子たちに宛てた作者自身の言葉が書かれてあったという。

 それを知って、なぜだかカッコいいなと思ってしまった。

 彼の他の作品を読んでいても伝わってくるのは、兎の眼にでてくる小谷先生同様、作者の灰谷健次郎氏は子供と向き合って書いているということだ。

 けっして、子供は純真無垢で天使みたいに可愛い存在だと書いていない。

 

 太宰治も云っているではないか。

「日本には『誠』という倫理はあっても、『純真』なんて概念は無かった。人が『純真』と銘打っているものの姿を見ると、たいてい演技だ。演技でなければ、阿呆である。家の娘は四歳であるが、ことしの八月に生れた赤子の頭をコツンと殴ったりしている。こんな『純真』のどこが尊いのか。感覚だけの人間は、悪鬼に似ている。どうしても倫理の訓練は必要である」と。


 読んでいると、色々考えさせられる。

 どんな境遇にあっても必死に生きようとする姿を真正面から書いている、そんな作品の一つだ。




 

 


 

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