第8章 お嬢様達の事情

第60話 一人娘

「お母さま。少し、いいですか?」

 リリナが遠慮えんりょがちにたずねて来たので、ファナは書類をまとめていた手を止めた。

「どうしたの?」

 ファナがリリナに尋ねると、リリナは思い切ったように口を開いた。

「明日…いえ、明日からしばらく、シャラーナの所に行っていい?」

「シャラーナって、カートン家のお友達の?」

 リリナはサプリュのお嬢様学校に通っている。同級生で中の良い友達がカートン家の娘で、時々、遊びに来ている。

「お泊りするの?」

「違うの。毎日、家には帰って来るわ。シャラーナのお家はカートン家でしょう。療養りょうようしている患者さん達に演奏会を開くのですって。それで、わたくしにも十弦琴を弾いて欲しいと頼まれたの。」

「そう。それは良いことね。他にも誰か一緒にさそわれたの?」

 リリナはうなずいた。

「ラーナも行くし、ネイラも行くわ。パルエとメルも一緒よ。」

 ラーナはラセジンナ銀行と宝石商をしている豪商のジンナ家の娘である。ネイラは木材の大商人、ロキック家の娘だ。パルエはパーセ川沿いのヨヨを治める貴族、ドーエタ家の令嬢で、メルもノムノを治める貴族ペアトカ家の令嬢である。

 本当にお嬢様ばかりが集まっている。ちなみにこの学校はエソワ学校といい、サリカタ王国一の鉱山王トユカ家が経営している。

「そうなの。みんな、音楽が得意なの?」

 リリナは肩をすくめた。そんな仕草は学校に行ってから身につけてきた。

「そうでもないわ。メルはあまり得意じゃないの。でも、仲がいいみんなの中で一人だけ誘わないわけにいかないでしょう。だから、簡単なベルの部分を演奏するの。合奏だし、鳴らす間を間違わなければ、大丈夫なの。」

「練習はしたの?」

「ちゃんとしたわ。これなら、できるってメルも喜んでる。」

 領地りょうちから離れたサプリュに住んでいるお嬢様達は、サプリュの屋敷か豪華ごうかりょうから学校に通っている。ファナの記憶が正しければ、パルエは寮に住んでいるはずだ。

「行ってくるといいわ。たくさんの人に喜んで頂けるといいわね。帰りは遅くなるの?」

「分からないけど、そんなに遅くならないと思う。シャラーナが馬車を用意するのですって。パルエが寮だから、門限までに帰れるようにするって言っていたわ。」

 ファナはにっこりした。おそらく、カートン家の方で配慮はいりょしているのだろう。

「それで、何日くらいその演奏会があるの?」

「三日…じゃなくて、四日かな。…でも、ほんとは四日目は演奏会じゃないの。お茶会をシャラーナがするって。お茶会まで行っていい?」

 リリナにしてみれば、初めて友達とお茶会をするので、行きたいのだろう。だが、許して貰えないかもしれないと思い、言い出しにくかったのだ、とファナは思って可愛かった。

「もちろん、行っておいで。楽しんできたらいいわ。ただし、羽目はめを外したらだめよ。わたくしは一時、忙しいから帰りは少し遅くなると思うの。ライナおばさまの言う事を聞いてね。」

 リリナは喜んで、ファナに抱き着いた。

「分かった、お母さま。首府議会があるものね。本当にありがとう。嬉しいわ。」

 ファナは優しくリリナの背中をでながら、母のミーナにこうして欲しかったと、ちくりと胸が痛んだ。ミーナの代わりにライナが全てやってくれた。もし、ライナがいなかったら、ファナの心は壊れていて、今のファナは存在しない。

 ファナは自分が母から愛を受けられなかった分、リリナには思いっきり与えてあげるつもりでいた。リリナのためになることなら、全て与えてあげたい。

 バムスは時々やってきて、父親として優しく接してくれる。リリナをレルスリ家に引き取るとは言わなかった。むしろ、リリナはクユゼル家の跡取りとなるべきだと言ってくれたのだ。

 ファナはそれを聞いた時、泣いて喜んだ。本当に涙があふれて止まらなかった。バムスは大げさですね、当然の事です、と言いながらファナが泣き止むまで、そっと背中を撫でてくれた。

 リリナもバムスになついている。バムスはなんでもできるので、リリナの楽器の練習から、絵の指導、学校の勉強、踊りの練習にまで付き合ってくれる。有名な庭園に三人で鑑賞しに行ったり、少し郊外の別荘に二泊くらいで遊びに行ったこともある。

 エソワ学校に入れるようにすすめてくれたのもバムスだ。リリナには絵と音楽の才能があると言ってくれた。家で家庭教師をつけて勉強するより、学校で同年代の子供達と学んだ方が良いと言って、色々手配してくれた。

 リリナを学校にやってとても良かったとファナは思っている。一人で不安で寂しそうにしている事が減った。

「ねえ、リリナ。学校は楽しい?」

 リリナはバムスと同じ焦げ茶色の瞳で、ファナを見上げてうなずいた。

「うん。とても、楽しいわ。」

「それなら、良かった。ところで、楽器は持って行くの?」

「ううん。カートン家にあるんだって。シャラーナは竪琴がとても得意で、学校でも一、二を争うほどなの。そのシャラーナが大丈夫だと言うから、きっといいはずよ。」

 ファナはつかの間、シャラーナという子がよっぽど突き抜けて演奏が上手いのか、それとも冷静に物事を判断できる子なのか考えたが、娘の輝くような笑顔に、何も言わなかった。

「そう、分かったわ。気を付けて行くのよ。学校が終わった午後から行くのね?」

 学校は午前中までである。大抵学校は午前中までで、どの学校も同じだ。弟子入りしたり、丁稚奉公でっちぼうこうしているような子達は、その後、働く。午後も授業があるカートン家が例外である。

「そうよ。」

 ファナは頷くと急いで書類をまとめた。ひらひらと数枚が落ち、リリナが拾って手伝った。

「もう、お母さまったら、失くしたら大変よ。」

 厚紙の書類入れに入れてから、かばんに押し込む。

「…奥様。お出かけの時間です。」

 秘書役を務めている、女中のラギーサ・ロメルが迎えに来た。彼女はすでに外出用の上着も来て準備万端だ。

「ええ、今、行くわ。」

 慌てて鞄をつかんで出ようとしたファナを、リリナが急いで引き留める。

「待って、上着を着て行かないと…!それから、帽子も!あと、手袋は?」

「…ええ、いるわね。」

 鞄をラギーサに渡し、リリナが広げてくれた外套がいとうをファナは着た。ファナが整えている間に、リリナが帽子をファナの頭に乗せ、ファナが帽子に手を伸ばして被り直している間に、リリナは手袋をラギーサに手渡している。

「リリナ、ありがとう、行ってくるわね。」

「気を付けて、行ってらっしゃいませ。ラギーサ、お母さまをよろしくね。」

 ラギーサが口元だけで微笑びしょうを作り、頷いた。微妙に動いただけの表情だが、これでも精いっぱいの笑顔だという事を、リリナもファナも知っている。リリナはファナとラギーサを玄関まで送り、それから、自分も学校へ行く仕度を整えた。

 良くなめされた牛革の鞄に、少し考えてから画帳と木炭を入れた筆箱を入れた。スケッチをしたいものがあった時、すぐにできるように毎日、持ち歩いている。教科書もあって少し鞄が重くなってしまうが、それでも毎日持ち歩きたいのだ。

 それにこの鞄は丈夫で、物持ちのリリナにはちょうどよい。明るいだいだい色に染め上げられ、型押しの花模様が美しく一目でリリナのだと分かる。父のバムスが誕生日のお祝いに贈ってくれた物で、とても気に入っている。

 リリナだって、自分が生まれた経緯は知っている。母のファナが正式な結婚を経ずに自分を産んだと知っている。自分がレルスリ家の娘だという事も知っている。

 それでも、両親は自分をとても可愛がってくれている。幼い頃は、父のバムスが時々しかいないことを疑問に思っていた。もっとずっと一緒にいて欲しいとせがむリリナに、バムスは困ったように微笑ほほえみ、ごめんよ、と言ってっこしてくれて、一緒に絵本を読んでくれたり、眠るまで一緒に添い寝をしてくれたりした。

 ある日、本当は大叔母にあたる、いつもおばさまと呼んでいるライナに、母の事情を聞いた。この学校に入る前の二年前の事だ。入学前に同級生に何か言われる前に、知っておくべきだからと話してくれた。

 まだ、十二歳だったリリナは、受け止めきれなくて泣いた。なんだか母のファナと祖母のミーナの仲が悪いと聞いてひどく悲しくなって、それは自分のせいのように思えて泣いた。ライナはあなたのせいではないのよ、と繰り返した。

「ファナはね、あなたがいなかったら、暗い人生を歩んでいたの。あなたがいるから、あの子は輝いている。あなたのお母さまはね、あなたも知っている通り、不思議な力を持っているでしょう。そのせいで、ずっと苦しんできたんだもの。その苦しみをとって、支えてくれたのが、あなたのお父さまなんですよ。

 確かに世間様には、良くは言われません。わたしだってファナがこんなに苦しんでいなければ、許さなかったと思いますよ。でもね、あなたの伯父さまやお爺さまが亡くなって以来、苦しみ続けたファナが幸せそうにしている。

 ファナはね、あなたを産むと決めてから、とても幸せそうにしていた。生まれてから今もずっとね。

 だからね、リリナ。あなたは必要ないなんて思っちゃだめですよ。わたしだって、あなたがいなくなったら、寂しいわよ。本当のお祖母ちゃんじゃないけど、お祖母ちゃんのつもりなんですから。」

 ライナがリリナの肩を抱いて、優しく二の腕をさすりながら、耳元でゆっくりと説明してくれた。それが心地よくて胸が痛いのに、嬉しくて満たされて、傷はそんなに大きくならずにすんだ。

 リリナは両親とライナに感謝している。自分が特殊な家庭環境の中にあると分かっていても、自信を失わずにすんでいる。両親の愛をずっと感じるからだ。

 父のバムスは、リリナに「お前には絵と音楽の才能があるから、どっちも一生懸命にしなさい。」と言ってくれた。

 学校に入ってから、他の父親は必ずしもそうではないと知った。女の子が結婚していくのに、必要な最低限を知っていて、裁縫だとか編み物だとかそういった事をもっとしなさい、と言われると同級生たちは言っていた。

 父だけでなく、母もそうである事が多い事も分かった。

「お嬢様、準備はできましたか?」

 女中の声で、リリナは振り返った。

「できたわ。」

 ファナの教育方針で、できる限り自分でできる事は自分でするようにしている。ファナが突然、跡継ぎをしなくてはならなくなって、とても苦労したからである。

 古老の女中のレンディスが、顔をのぞかせて待っている。

 リリナはお気に入りの鞄を持って、気分も良く出かけた。

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