第56話 大叔父の影

 次の日、朝から人を訪ねるには早すぎる時間に、カートン家の医者がやってきた時、一体、何の用かとミリノは不満に思った。

 本当はエイグに何かあったのではないかと、すぐに感づいたが、認めたくなかった。もう、大丈夫だと信じたかった。この重荷から逃れたかった。

 昨日やって来た若い医者、ルイスである。ランゲル本人とランゲルの息子であると名乗っていて、まさかそんな大物が来たのかと疑っていたが、後でタリアに確認したところ、本物だったと知って驚愕きょうがくした。

 ルイスはタリアではなく、ミリノに会いに来たのだ。

「一体、何の御用ですか?」

 寝巻から着替えて、朝食もやっと食べたところだった。これから、仕事がいろいろある。ラベスとスタンギも参考人として、昨日、国王軍に連行されていった。家令のマルザをはじめ、他にも数人、連れていかれたので、その穴を埋めるのは大変である。

 しばらくは、家に帰るどころではない。新しい使用人をやとうまで、住み込みで働くしかない。

 ルイスはミリノを誰もいない所に連れて行った。

「エイグ君の事についてです。」

 ミリノも昨日、国王軍とカートン家に自分の知っている事はほとんど話した。人体実験の事以外は。

「坊ちゃまがどうかしたんですか?」

 きあがりそうになる不安を心の底に沈めながら、固い声でミリノは尋ねた。

「彼は昨晩、飛び降り自殺をはかりました。」

 ミリノはルイスの顔を凝視ぎょうしした。カートン家に行ったのだから、大丈夫だろうと思っていた。

 昨日の一緒に来て欲しいと言った、エイグの寂しそうな横顔を思い出した。そして、エイグの事を自分の子供ではない、他人の子供だと思っていたのだと思い知った。自分の子供ではないから、昨日、言われた時に一緒に行かなかったのだ。

 自分の子供なら当然、一緒に行っている。

「一命は取り留めましたが、おかしいのです。本当に自分で屋上に上がったのかどうかも分かりません。その上、彼には時々、記憶がない。それは、なぜなのか、あなたならご存知かもしれないと思いまして、朝早くではありましたが、お訪ねしました。」

 ミリノは自分のこぶしにぎりしめていた。昨日、なんで一緒に行かなかったのか、涙が後悔であふれて来た。前掛けで涙をぬぐった。拭っても拭っても涙が止まらない。自殺するかもしれないと知っていたのに、なぜ、その可能性をもっと強く指摘しておかなかったのか。

 ミリノは後悔していた。

「大丈夫ですか?」

 ルイスに尋ねられ、ミリノはうなずいた。

「わたし、坊ちゃまの所に行きます。昨日、ことわってしまった。行くべきでした。ちょっとお待ち下さい。奥様にお伝えしてきますから。」

 ミリノは言って走り出したが、ルイスも後をついてきた。カートン家の医者は常識がないのではなく、衝撃しょうげきを受ける事を告げられた人が突飛でもない行動をしないように、見守るためについて行くよう訓練されている。

 ミリノは子供達の世話をしているタリアの所に走った。

 タリアは子供達を起こして、着替えさせていた。その同じ部屋で侍女に命じ、服だけ着替えて、結っていなかった自分の髪を結わせている所だった。

「奥様、失礼致します。」

 ミリノは急いで、返事も待たずに部屋に入った。さすがにルイスは、入らずに部屋の手前で待機している。

 髪が結い終わったタリアは振り返り、血相を変えて来たミリノを見て、侍女に子供達を別の部屋に移動させた。

「どうしたの?」

「奥様、実は今しがた、カートン家からお医者様が来られました。」

 タリアは立ち上がった。昨日、取り乱していたのがうそのように落ち着いている。

「エイグの事ね?」

「はい。今、そこにいらっしゃいます。」

 タリアはうなずき、入ってもらうようにミリノに命じた。

「朝早くから、申し訳ありません。ご子息の事でお伝えする事があって参りました。」

 ルイスがタリアに挨拶あいさつした。

「…昨日はお騒がせ致しました。それで、あの子…エイグに何かあったのですか?」

 タリアは心配そうに、瞳をらしながらたずねた。

「どうか、お心を強く持ってお聞き下さい。」

 ルイスの言葉にタリアがぎゅっとこぶしにぎって、胸に当てた。ミリノはそっと、タリアの腕と背中を支えた。それを見てから、ルイスが口を開いた。

「実は昨晩、ご子息が飛び降り自殺をしようとしたのです。幸い、未遂みすいに終わりました。」

 タリアが一瞬いっしゅん、息を止めた。両目をうるませて目を伏せた。

「…わたくしのせいね。わたくしがあの子を追い詰めてしまった。」

「奥様だけのせいではありません。どうか、最後までお聞き下さいますか?」

 ルイスが動揺どうようしているタリアをうかがいながら、尋ねると、タリアがなんとか涙をこらえて、顔を上げた。

「…どういう事です?」

「実は、おかしい点がありまして。ご子息は記憶のない所があるようです。子供の頃の事も、所々ないようですし、特にこの丸七年の記憶はかなり、曖昧あいまいな所があります。

 実は昨晩、飛び降りようとした時も、なぜ、屋上にいるのか、どうやって上って来たのか、記憶がないようなのです。」

 タリアの顔色が変わった。

「記憶が…ない?何かの病気なのですか?」

「それはまだ、分かりません。それを調べるためにお尋ねしに参りました。早く治療をしなければ、また、いつこのような事が起こるか分かりませんし、命に関わるかもしれません。」

 ルイスの説明に、タリアは考え込んだ。

「…ごめんなさい。わたくしにはよく分からないわ。ただ……。」

 タリアは迷うように視線を彷徨さまよわせた。

「…奥様、エイグ様のためです。どうか、知っている事がおありでしたら、お伝え下さい。わたしは奥様を責めたりしません。奥様もとても苦しんだと、このわたしが知っています。」

 ミリノがタリアの背中をさすって涙声で頼むと、決心したように口を開いた。

「主人が連れて来た方々を、お見かけした事があります。三人いらっしゃったのですが…。」

 タリアはうかがうようにルイスを見つめた。

「どうか、ご存知の事がありましたら、小さなことでもいいので、お話下さい。」

 ルイスの言葉にタリアは確認した。

「あの、本当にいいのでしょうか。おどろかれると思うのですが。」

「構いません。お願いします。」

 ルイスは注意深くタリアを観察した。彼女はかなり、ためらっている様子だったが、意を決したように口を開いた。

「実は、一人の方はランゲル・カートン先生の叔父上に当たる方だとお聞きしました。そのように主人がマルザに説明していたのです。」

 ルイスは確かに驚いて、目を見開いてタリアを見つめた。

「…本当に私の大叔父だと?」

「はい。そうです。もう一人の方は、ニピ族だと聞きました。そして、もう一人の方については、よく分かりません。ですが、身分の高い方だと察しました。少なくとも首府議会に出席されるご身分の方だと思います。首府議会の話をしておりましたので。」

 タリアの話は重要な話だった。かなり具体的で、彼女がうそをついている訳ではない。ルイスには目を見れば分かった。

「分かりました。重要なお話をありがとうございます。確認したいのですが、その私の大叔父がご子息を治療していたのでしょうか?」

「はい、そのようです。エイグが体調を崩すたびに呼んでいたようでした。本当にカートン家のお医者様だと思っていました。」

 ルイスは思わず、深いため息をついてしまった。言っていいのかどうか迷ったが、タリアは親である。結局、伝える事にした。

「間違いなく、カートン家の医者です。誰なのかは見当がつきます。もう一点、確認したいのですが、ご子息の怪我や病気は治ったのですね?」

 ルイスの確認に、ミリノが答えた。

「はい。実は、わたしもカートン家の医者が来たと聞いていました。使用人達にもカートン家のお医者様だから、失礼のないようにと言い渡されていたのです。エイグ坊ちゃまは、治療を受けて病気や怪我は治っていました。」

「そうでしょう。医者としての腕は申し分ありません。ただ……。」

 ルイスは一呼吸、置いて口を開いた。

「ただ、人格に少々、問題があり、父が監視かんしをつけていました。監視を振り切っていたようですね。ご迷惑をおかけしてしまったようです。」

 ルイスは重大な事案に、どうタリアに説明したらいいのか、分からなかった。

「…迷惑?どういう事ですか?」

「はっきりしたことは、まだ、調べなければ分かりません。ただ、はっきり言える事は、どんな事があっても、ご子息を治療し、ご子息が生涯しょうがいを終えるその時まで、一生涯、カートン家が責任をもって、お預かり致します。」

 随分ずいぶん仰々ぎょうぎょうしくさえ思えるルイスの発言に、タリアは当惑し、不安そうな表情を浮かべた。

 一方で、ミリノはその話で確信していた。自分が見たのは間違いないのだ。明らかに人体実験をしていた。人格の問題というのは、それだったのだ。監視していた、という事はカートン家でも問題である事が分かってミリノは安堵あんどした。

 カートン家全体がそうではない、と明確に分かったからだ。昨日のランゲルとルイスの様子で、もしかしたら来ていた医者の方がおかしいのではと感じていたが、まさしくそうだった。

「生涯とは、どういう事ですか?…まさか、エイグは長く生きられないという事なのですか?」

 タリアは決して頭が悪いわけではない。尋ねる質問は鋭い。

「まだ、はっきりとした事は、何も言えません。ですが、可能性として、そのご覚悟を持って頂けたらと思います。

 大変、申し訳ありません。家長の父に報告し、はっきりした事が分かりましたら、父から正式にお話申し上げるかと思います。大変、申し訳ありませんが、どうか私共を信用して、ご子息を治療させて下さい。どうか、お願い致します。」

 ルイスが深く頭を下げるので、タリアは困惑したが、エイグを嫌っているジャビスがまっとうな医者を連れて来たわけがないと、気がついた。頭を下げるルイスには、人格に問題のある大叔父が何をしたのか、ある程度、見当がついているのだろう。

 それでも、他の医者に診せようと思わなかった。カートン家の医者が何かエイグにしたのなら、カートン家の医者しかその手掛かりを得て、治療はできないだろうから。

「どうか、お顔を上げて下さいまし。あの子のことはわたくしに責任があるのです。お医者様が謝られることではありません。エイグのことをよろしく頼みます。」

「はい。責任をもって治療に当たらせて頂きます。」

 ルイスが顔を上げた所で、タリアは言った。

「…ところで、昨日、主人は勘違かんちがいをしていましたが、エイグを見つけたのは、赤い髪の子ではないのですか?」

「はい、そうです。イゴン将軍のお弟子さんです。」

 中央将軍の名前が出て来て、タリアは目を丸くした。

「まあ、花通りにいた時の、あの可愛らしい子が、国王軍に入ったのかとおどろいていましたが、イゴン将軍のお弟子さんに……。」

 それは、ミリノも知らなかったので、驚いた。人は見かけによらないものである。

「奥様、わたしは、エイグ坊ちゃまの所に行こうと思っています。ですから、おいとまを頂くために参りました。」

 話が途切れたので、ミリノは切り出した。

「分かっているわ。あなたがいなければ、エイグは死んでいた。暇は出しません。あなたの給金は支払います。エイグのそばにいてあげて。あなたを頼りにしているから。」

 タリアは双眸そうぼうを涙で揺らしながら、ミリノに頼んだ。

「奥様……。」

 もっと早くにこうしてあげていれば、という言葉をミリノは呑み込んだ。自分が彼女を責めないと言ったのだ。

「もう、ここには来なくていいわ。あなたがいなくても、十分にやっていける。マルザもいないけれど、なんとかなるわ。」

「いいえ、奥様。坊ちゃまのご様子を報告しに参ります。」

 ミリノはタリアの手を固くにぎった。タリアはミリノの目を見つめ、うなずいた。その拍子ひょうしに涙がぽろりとこぼれた。

「ありがとう、ミリノ。」

 こうして、ミリノはレグム家を出た。

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