第55話 知っていること
使用人のミリノ・クーマはとても後悔していた。
いつか、こんな悪い事をしてきたことのつけを払う日が来ると信じていた。必ず、
ミリノは新たな主人のジャビスを主人だとは認めていなかった。彼女にとっての旦那様は、亡くなったガルジである。確かにガルジは
だが、そのガルジの厳しさを、ほとんどの使用人達は理解していなかった。本来なら、クビになって仕事を失っているかもしれないとは思っても、それより、厳しさの方を恨んだ。厳しいガルジを恨んでさえいたのだ。
だから、ガルジが亡くなり、ジャビスが新しい主人に収まると、抑えがきかなくなった。大体、ジャビスが率先して、以前の主人の子供であるエイグをいじめた。母のタリアもエイグを守ろうとしなかった。
こんなにひどい事をして、時々、他の使用人達、特にスタンギとラベスに、いつか天罰が降るよと何度も言ってきた。
そして、突然、その日がやってきたと悟った。
ミリノもエイグを探していた。
ミリノ自身は、タリア付きの侍女としてレグム家にやってきた。タリアが結婚してレグム家に嫁いだので、一緒にやってきたのである。タリアが心を許す、唯一の侍女だった。
だから、タリアが
だが、彼女の両親は相手が名家だったため、訴える事はしなかった。涙を呑んで
そのため、タリアは恋する事が出来なくなった。どの男も彼女の容姿を見て近づくため、みんな体だけが目的だと思うようになってしまったのだ。
そんな彼女が結婚した。タリアが十八歳の時だ。最初は似たような家格のブレイル家に嫁ぐ事になっていた。タリアはジャビスを割と気に入っている様子だったが、ミリノはどこか浮ついているジャビスが好きになれなかった。
商売が上手くいっていると言って、なんでもかんでもどんぶり
それ以来、ジャビスがレグム家とタリアに恨みを
だから、必死にエイグを探していた。
エイグが
だが、ミリノ自身も結婚しており、家族がいる。だから、できる事は限られており、夜は帰らなくてはならない事も多かった。ガルジが長年タリアに仕えた
仕方のない事情だが、それでも、彼女は後悔していた。ジャビスがレグム家を乗っ取った日、エイグに無理やり書類に署名をさせた日、あの日、どんな事があっても、エイグを連れ出すべきだったと。
寒い冬に水をかけられて、その後、一応、白湯を飲ませて
それなのに、その日から与えられた寝床は物置だった。ミリノは抗議したが、聞かれなかった。タリアもいない。ミリノはできるだけ、使い古された布団なんかをかき集め、物置に運んだ。必死で全身ずぶ濡れの体を
ミリノが帰ると分かった時、エイグの
エイグがすすり泣く声が聞こえて、胸がきつく
次の日、エイグは風邪を引いて、高熱を出していた。当然だ。自分の子供だったら、絶対にこんな処置はしていない。温かい風呂にすぐに入れて、体を芯から温めている。
それができなかった事をミリノは後悔した。ジャビスの仕打ちは
しかも、やった事のない、掃除などの下働きである。冷たい水に手を入れて、ぞうきんを
ジャビスはちゃんと仕事ができなければ、叩くように命令した。その上、食事さえ抜いてもいいと言ったのである。
三日ほど、そのような状態が続いたが、
そこで、ジャビスは医者を呼んだ。カートン家の医者が来て、ミリノは安心した。医者はしばらく、泊まり込みで仕事をしていた。
ミリノは二週間、医者がいる事に最初は喜んでいた。だが、なぜ、ジャビスが医者にエイグを診せるのか、疑問に思いだした。風邪をこじらせたとはいえ、二週間も医者が泊まり込むほどの重病ではないはずだ。
ミリノは調べたかったが、部屋に近づくことができなかった。ニピ族だという護衛がいたからだ。
こうして、エイグは酷い
一応、その男がくれば、怪我は治るし、病気も治った。だが、何かがおかしかった。エイグは時々、記憶を失うようになった。ミリノにさえ
ミリノには目を合わせてくれていたのに、目も合わせないようになった。時々、何か言いたそうにする事があるが、結局、唇を
そうなってからは、エイグがますます心を病んでいるのが、手に取るように分かった。何度も自殺をはかったのだ。最初は物置だった。首を吊ろうとしたが、小屋組みの
また別の時は、手首を切った。切ったのが動脈ではなく、静脈で助かったが、それでも栄養失調のエイグには、致命的な
この後から、エイグは自殺をはからなくなったが、以前よりもぼーっとしたり、記憶を失う
しかも、ある日、ミリノは知ってしまった。エイグに医者に会ったという記憶がないのだ。
これは、何かがある。ミリノは決心した。夜も仕事に入る事にしたのだ。
最初、夫は反対した。レグム家の主が変わってから、何もかも全てが変わり、夫はジャビスが主に変わった時に、やめさせられた。レグム家のいざこざに巻き込まれないうちに、夫は仕事を止めるように言った。もう、できる限りの事をしたのだから、エイグの事はいいじゃないかとさえ、夫は言ったのだ。だが、放っておけるわけがない。
ミリノは
ミリノは徹底的に調査した。
そして、まず、使用人達が何をやっているかを、見てしまった。ミリノは五年もの間、気づけなかった。夜にいなかったからだ。男達は、エイグを夜な夜な自分達の寝床に引きずり込んでいたのである。やることは当然、分かり切っている。
それを知ったミリノの頭は、怒りで
ミリノは怒りで大声で怒鳴りながら、男達をかき分けた。半ば叫びつつ、その時行為をしていたスタンギからエイグを
男達の臭いが染みついた布団を奪ってエイグを包み、自分の部屋に連れ帰ろうとした時、
酒臭い息を吐きながら男達が高笑いした。下品な笑い声に、ミリノは何か叫び続けた。怒りのあまり、何を言ったのか、よく覚えていない。
その後、ミリノは部屋に戻って、大声で泣いた。他の同僚たちが
エイグを助けられなかったことに。自分の情けなさに。そして、誰よりも誰かに助けて
さらに、同僚達がここまで落ちぶれてしまったことに。スタンギもラベスも以前はこんなに悪くなかった。少年を
ジャビスが主に取って代わった時、スタンギもラベスも本気でレグム家がどうなるか、心配した。特に、スタンギはエイグが可哀そうだと同情していた。
本当に、人はここまで悪くなるのだと思い知らされた。人の根性はここまで
ガルジがいた頃は飲酒などもってのほかだった。住み込みで働く者は借りている部屋を
頭のジャビスがいけないのだ。でも、どうやって頭を変えたらいいのだろう。
ミリノは自分の無力さに、むせび泣いた。
それ以来、使用人の男達はミリノが目を光らせている時は、エイグに手を出さなかった。だが、今度はお仕置きと称して、エイグが何か失敗してもしなくても、言いがかりをつけてミリノの前でも堂々とするようになった。
余計に悪くなった事態に、ミリノはこの人達にはつける薬もないのだと思い知らされた。
それ以来、ミリノは彼らの事を
大人げないと思うがエイグの事を思えば、ジャビスの娘達に、冷静にお嬢様と声を掛ける事ができない。本当ならこんなに幼い時から、人をいじめる事を覚えてはいけないのだが、何か言う気力はなかった。
その気力はエイグのために使いたかった。だから、怪しげな医者が何をしているかを調べることにした。その調査には丸二年かかってしまった。
それでも、その医者が何をやっているかを突き止めたのだ。
それは見つかったら、殺されてしまうかもしれない、捨て身の方法で知った事だった。その医者が使う部屋に、掃除の時に入り込み、ずっと物入の中に
同僚の使用人の娘には、
ミリノは物置の扉に細工をしておいた。模様の中に穴をいくつか空けておいた。小さい上に、模様と一体化しているので気づかない。
それでも、ミリノはさらに慎重に、人の
なんせ、ニピ族の護衛がいるのだ。彼が
それ以来、その護衛が時々ミリノに注視しているようで、視線を感じる事があった。だから、あまり目立つことはせず、エイグの事でもラベス達と対立しないようにした。エイグにしてみればとうとう、ミリノにも見捨てられたと思っただろうと、覚悟した。
入念な準備の元で、ミリノは物置の中に隠れた。
そして、
ミリノは必死で耐えた。耐えて一晩たち、朝方になってようやく、物置から出て、窓から逃走した。最初から、逃走する時は窓と決めていた。よろよろしながら、部屋にたどり着き、布団になんとか横になった。そして、声を殺して泣いた。
ミリノが見たのは、医者がエイグに薬の実験をしている所だった。そして、エイグは医者に何か術を施されて、医者の言う事ならばなんでも聞いていた。
その後はもっと
怪しげな薬だと言うのは、はっきりしている。ミリノはもう一度、入る決心をした。そして、その半年後にその薬を半分盗み出した。
本当にしばらく前に薬を手に入れた所だった。
突然、やってきた、ジャビスの悪事が暴かれた日。その日が来た時、ミリノはエイグを必死で探していた。
最初は、エイグがまた、自殺をはかろうとしているのではないかと、心配した。だが、どこにもいなくて、スタンギやラベスの様子からして、外に逃げた事が分かり、少し安心した。もし、耐えられなくなって逃げたのなら、それでいいとミリノは思った。逃げた方が生きられる。
だが、エイグはまた戻ってきた。スタンギがお仕置きを始めたと知り、急いで走った。どうにかして、エイグを逃がそうと思った。
すると、国王軍の少年兵達がいた。まだ、訓練兵だが、一人に見覚えがあった。見間違えるはずがない。花通りにいた時代、一度見たら忘れられない、可愛い子がいた。
エイグがびっくりして、「男の子だって言うんだけど、女の子にしか見えない。きっと、本当は女の子だと思う。」と、自分も同じなのに言っていて、おかしかったのを思い出した。
その少年ともう一人が、物置の
ミリノは一部始終を見ていた。エイグはもう大丈夫だ。なぜか、そう直感した。今日がその日なんだ。ミリノは急いで、隠しておいた薬を取りに走った。他にもガルジがエイグに当てた手紙も取ってあった。
だが、ミリノが迷う事態が生じた。やってきた医者がカートン家の医者だったのだ。しかも、ランゲル・カートンと名乗った。変な薬の人体実験をしているのも、カートン家の医者だと言っていた。ニピ族もいるのに、どう違うのか分からなかった。
だから、ミリノはエイグが保護されていく時、本当は引き留めようと思ったのだ。そう思って駆け寄って行ったら、エイグは
医者はすぐに分かるよう、国で決められた緑色の
誰も、エイグを助けようとしなかった。子供の頃、知り合いだっただけの少年がエイグを助けた。それを実行した花通りの美少年が言うのだから、少しは信用できるのかもしれないと、ミリノは思った。あの変な医者の方がおかしいのかもしれない。大体、ミリノだって、カートン家に世話になっているが、こんな変な医者は今までいなかった。なぜか、ミリノは花通りの少年を信じられると思っていた。
それで、引き留めるのをやめた。そして、代わりにガルジの手紙を差し出した。
「…ありがとう、ミリノさん。でも、きっと、父の手紙は早く出かけた言い訳だと思う。いつも、そうだったから。」
エイグは受け取ろうとしなかったが、代わりに
「…坊ちゃま、ゆっくり体を治して下さい。もう、大丈夫なんですから。」
ミリノはエイグにかける言葉が見つからなくて、そう言った。
「…ミリノさん。今までありがとう。ミリノさんだけが、助けてくれた。」
エイグはそう言った後、少ししてから、初めてミリノに
「ミリノさん……。一緒に来て欲しい。来てくれない…?」
エイグの初めての頼みだったが、そう言われるとは思わなくて、ミリノは
「坊ちゃま、わたしの役割は終わりました。だから、ご一緒できません。今度、お会いしに参りますから。近いうちに必ず会いに行きますから。」
お休みを頂いたら、すぐにお見舞いに行きますから、それまでのご辛抱です、と言うミリノの答えに、エイグは小さく息を吐いて、
「…分かった。ありがとう。」
そう言って、目を伏せて横を向いた表情が
しかし、実際のところ、エイグの事から解放されて、内心、ほっとしていた。何も心配せずにぐっすり眠りたかったし、家族の元にも帰りたかったのだった。
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