第50話 エイグ

 エイグは今日の出来事を夢のように感じていた。

 おどろく事ばかりが起きて、本当に現実のことなのか、分からなくなりそうだ。タリアがエイグの父がガルジではないかもしれないと言った時、衝動的しょうどうてきにもう何もかも嫌になって、死のうとしてしまったが、それさえも夢のようだった。

 ランバダと八年ぶりに会った。国王軍の制服を着ていて、とても驚いた。みすぼらしい自分の姿を思えば、ランバダに気づかれたくなくて、走って逃げようとした。

 だが、彼は気がついていた。追ってきて、何があったのか問いただして、助けようとしてくれて、本当に助けてくれた。

 エイグはランバダをいじめていたのに、ランバダが幼なじみだと言ってくれた時、エイグは驚くとともに胸を突かれた。本当は物凄ものすごく嬉しかった。

 ランバダはエイグのために泣いてくれて、心があたたかくなった。昔は泣き虫のランバダを馬鹿にしていたが、今はそう思わない。他人のために涙を流せるランバダは、とても優しい。

 そして、その優しさはとても大切なことだ。今のエイグにはそれが分かる。子供の頃のエイグは生意気で、何も分かっていなかった。だから、腹を立てるジャビスの気持ちも分かりはする。だからと言って、許しはできない。

 ランバダが来てくれたことはうれしかった。それでも、ランバダにあの場面は見られたくなかった。声も聞かれてしまっただろう。

 そう思うと、エイグはいてもたってもいられなくなった。

 エイグは今、保護されたカートン家の施設にいる。エイグの心情を考えて、ルイスがつきっきりで世話をしてくれた。

 風呂に入れてくれて、体をきれいにして貰った。清潔せいけつな衣服を身にまとい、体の事を考えて調理された、胃腸に優しい食事も食べた。昔は、おかゆが嫌いだったが、今は涙が出るほど美味しいと思った。残飯をあさって食べなければ、空腹を満たせない事がよくあった。それで、お腹を壊し、辛い思いもした。

 与えられた部屋は個室で、殺風景にならないよう、絵や花が飾られていた。ただ、自殺をはからないように、ガラスや陶器は使われていない。布団も心が落ち着く、花のいい香りがした。少し前まで、ルイスがいてくれて、竪琴の演奏を一緒に聞いていた。

 エイグは久しぶりに体が暖まり、お腹も一杯になって、美しい音楽を聴いて、心が落ち着いたせいか、眠くなった。一時、少しは眠ったはずである。

 だが、途中で目を覚ましてしまい、少しの間、自分がどこにいるか分からなくて、混乱した。

 そして、何度も夢を見ているのではないかと、自分の置かれた現状が信じられなくて、確認してしまった。そんな事をしていたら、すっかり目が覚めてしまい、全然寝付けなくなり、突然、ひとりぼっちだという事が怖くなった。

 だから、ランバダの事を思い出して、心を落ち着かせようとした。でも、だめだった。昼間にされた事を思い出し、それを見られてしまった事が、想像以上にエイグの心を傷つけていた。勝手に体がふるえ出し、涙があふれた。今までの嫌な思い出が、目まぐるしく頭の中を駆け巡り、恐怖が心を支配した。

 エイグは寝台の布団を被って潜り込んだ。少し離れた小机の上に置かれたランプの火はいたままだ。真っ暗なのをエイグがこわがったから。

 一人で寝台に寝るのは久しぶりだ。物置小屋には寝台などなかった。誰かに見られる視線が嫌で、一人でいたかったのに、今では一人でいるのが怖かった。

 誰か他の人がいれば、何かされるんじゃないかと怖くなる。だが、誰もいないと、ぽつんと世界に取り残されて忘れさられたような気がして、怖かった。

 何かあったら、呼び鈴を鳴らして呼ぶんだよ、とルイスに言われていたが、エイグは怖くて体を動かせなくて、布団の中で震えていた。

 エイグは必死で心を落ち着かせようとした。あれは、もう、過去の出来事なんだ、今は何もされていない、そう、必死で自分に言い聞かせた。

 でも、寝台は嫌な思い出とつながっている。寝台にいるというだけで、今までに受けた、様々な嫌がらせやいじめが次々と頭の中に思い出されてきて、頭がおかしくなりそうだった。

 ふっと、ランバダが泣いてくれた顔を思い出した。そうだ、助けて貰ったんだ、これは夢じゃない。現実の事、本当の事なんだ。大丈夫だ。布団からただよう花のいい香りも効果があったのか、エイグは少し落ち着いてきて、そろそろと布団から頭を出した。

 ランプの灯が辺りを照らしている。ほら、大丈夫だ。エイグが自分に言い聞かせた時、ふっと、後ろに影がさした気がした。

「だ、だれ?」

 気がつくと、エイグは外に立っていた。なぜ、立っているのか記憶がなくて、分からなかった。そういえば、時々、こういう状態になる事があった。頭がぼんやりして、それなのに、聴覚ちょうかく触覚しょっかく敏感びんかんになった。

 エイグは震えた。戻ろうにも、ここがどこか分からず、どうやって戻ればいいか分からない。しばらく立ち尽くしていたエイグだが、必死に理性を総動員して、体を動かそうとした。

 半月はんげつが時々、雲の切れ間から顔を出すので、月明かりがある時に、居場所を確認した。心細いがないよりましだ。それに暗闇に目が慣れて、視点が高い事に気がつき、自分が屋上にいる事を把握はあくした。

 どうやって上って来たのか、全く記憶がなくて、気味が悪い。木の高さからして、三階はあるだろう建物の屋上のようだ。

 頭がぼんやりして、宙に浮いているような感覚があり、とても怖かったがゆっくりと辺りを見回し、降りる場所はないか探そうとした。

 その時、雲が月を隠し、辺りが真っ暗闇になった。体が恐怖で強張こわばる。心臓の音がやけに大きく聞こえる。

(!)

 エイグの悲鳴は声にはならなかった。誰かに口をふさがれ、後ろから羽交はがめにされて、体を服の上からでられた。

 恐怖で頭が真っ白になった。泣きながら必死であばれた。無我夢中で暴れていたら、ふっと突然、解放され、エイグは必死で逃れようと、走った。

 ここは屋上で、走ったらいけない、という事は恐怖で忘れていた。ただ、必死にこの恐怖から逃れたかった。

 エイグの足が空をかいた。あ、と思ったが声にも出せなかった。耳元で風が空気を切る音がする。

 なぜか、怖いと思わなかった。これも、夢かもしれない。そんな事を思った。

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