第16話 ダンクンイの計略
ザナーが自室に戻ったのは早朝だった。夜伽をした後、頃合いを見計らって出てくる。その後、誰もいない所を探して深呼吸をして、吐き気を堪えた。以前は吐き気を堪えられずに吐いていた。今ではなんとか耐えられた。
それから、体を鍛える為にしばらく走る。自分で決めている距離を走りこみ、一旦、自室に戻る。剣と手拭いを持ってまた外に出て、誰もいない所で剣の練習をする。場所は決めていない。いつも、違う場所で行い、見られないようにしていた。
剣の練習をしてはいけない決まりはなかった。
ただ、ザナーが他人に見せたくなかった。わざと恐怖心を
それにしても、ニピ族の
突然、やってきてザナーに会わせろと言ったらしい。出来ないと言うと、物凄く大暴れをした。なんとか息のあった門番はそれだけ言って死んだ。怒り狂っていたという方が正しいだろうか。
ニピ族は正体を隠すために、剣術は他の流派の剣術を身につけている。剣で舞をする事は珍しい。本当に舞だから、鉄扇を持っている。しかし、あの時はニピ族の手には剣があり、それで舞をしていた。正体を隠すつもりがなかった上、最初から殺すつもりだった。
この
ザナーは練習を終えると、洗い場に向かった。
マウダの人間なら誰でも使える場所だ。ザナーは夏も冬も関係なく、ここで頭から全身を水で洗っていた。大雨の日も井戸水を汲んで来て被る。ここの井戸水は深いので、一年中水温は安定している。冬は温かく、夏は
そして、自室に戻り、体と髪を乾かして寝る。髪の毛を冬は暖炉の側で乾かし、夏は布でくるんで寝てしまう。
この日も空が白み始めてからようやく、布団に入って眠った。
ザナー程の大幹部になれば、生活態度について誰もとやかく言うものはいない。早朝に寝て昼前に起きても文句を言われなかった。
その上、使用人が三人もついていて、身の回りの事はなんでも彼らがやった。自室といってもかなり広い。応接室、客室、寝室、書斎、食堂、厨房、浴室、便所、井戸、洗い場、物干し場、物置、中庭、さらに使用人達の部屋と小さな台所、浴室、便所まで
一見すると独立した屋敷のようになっている。建築に詳しくなければ、
頭領が会わなくていい要件については、ザナーが処理できるように、応接室も客室もあった。
おそらく、マウダの中でザナーが一番忙しい。
だから、ザナーの使用人達は口が
三人ともマウダにいる事を知らない。ただ、三人とも頭領から、マウダの頭領とは知らずにこういう密命を受けている。
それはザナーの
ザナーが戻って来た事に、ここに来て一年半のアリナが気が付いた。いつもびしょ濡れで早朝に戻って来る。あまりに凍てついて髪が凍ってしまった時は、さすがに湯船に浸かったが、それ以外は体と髪を乾かしてそのまま寝てしまう。
そして、昼前に起きて、湯船に浸かり、顔を洗って身支度を整える。食事をして昼過ぎくらいから、仕事を始めた。
最初はその生活の仕方に驚いた。昼より夜の活動時間の方が長いのだ。夜食も食べる事はあるが、一日二食の時もある。食事の好みも好き嫌いがあるわけではない。ただ、自分の規則があるようで、ものによって全部食べる時もあれば残す事もあった。
好みが分からず、三年目のオレアも五年目のディンも苦労したらしい。ただ、文句を言われた事はないらしい。
アリナだけは一度あった。オレアが休みでディンが
あまりにいつも無表情で食べるものだから、ディンの忠告を「あの人は結構、味にうるさいはずよ。」と言ったのを無視して適当に作った。そしたら、煮物がまだ生煮えだった。
「煮えてない。」
「わたしがやります」と何度も言ったが無視された。得意の料理で味を付け直された事の敗北感と、クビにされるのではないかという恐怖で、しばらくアリナは落ち込んだ。
どうしたの、何をやらかしたのとしつこく聞いてきたディンに、仕方なく事の次第を白状した。すると、ディンは変な所に感心していた。
「金持ちってそういう時、大抵残すけど、自分で煮なおしてまで食べるなんて、結構、食べ物を大事にする人だったのね。」
量が足りなかったからではないかと思うが、それにしてもいらないと言われておかしくなかった。
それ以来、同じ失敗をしないように気をつけている。
昼前になって起きてきて、食事を始めたザナーをアリナは注意深く観察した。もくもくと食べている。だからと言って早食いという訳でもない。しかも食べ方がきれいだ。不思議な人だったが、なんとなく機嫌が良さそうである。これはおいしいという事だ。
それを見たアリナはこっそりと戻って自分の仕事に戻った。彼は給仕されるのを嫌う。最初は戸惑ったが、その間に鍋洗いなどほかの仕事ができるので、むしろこっちの方がいい。
夫が死んだので給料の良い仕事を探していた。子供は姉夫婦に預けてきた。給料がいいので、子供達の食費に少し上乗せしてお金を渡しても、貯金ができる。変わった主の
ただ、この風変わりな若い主がなんの仕事をしているのか、よく分からなかった。
ディンによると、建物や土地の売買の仲介や、木材や石材の取引をしているらしい。それを十人ぐらいはいる部下がそれぞれに行い、その部下達を束ねて管理しているのだという。
毎日、ザナーより年上の部下達が、報告や重要な案件について相談に来ていた。時々、一緒に出掛けて行く。その間にさっと書斎を掃除する。夜は鍵がかかっていて入れない。
ディンによると、書斎の奥には巨大な金庫があるという。たまに夜になって人が来て、書斎の金庫から金を出して持っていく時があるというのだ。たまたま夜中に便所に行った時に気づき、こっそり様子を
ばれたら
時間が来たら、使用人達は自分達の部屋に戻って休む事になっていた。アリナも夜食を作って休む。早朝に戻ってくる主のために早起きしなくてはならないからだ。
オレアが客が来た事を伝えた。来客した人の名前を聞き、食事中に珍しく立って出て行った。ザナーは戻ってくると、しばらく帰って来ない事をディンに告げ、急いで荷物をまとめて出て行ってしまった。
めったにないが、たまにある。そういう時、使用人達は楽である。掃除をして、洗濯をしてたまった仕事をしてしまえば、気楽にできる。三人で話し合い、交代で家に帰る事にしていた。
今回はアリナの番だった。
仕事を終わらせてから帰ったので、遅くなった。夜も遅くなり、小走りでサプリュの下町を走った。
今日は満月で月も明るい。明りなしでもよく見えた。
アリナは立ち止まった。何か少し遠くで物音が聞こえた気がした。自分の足音以外にだ。もうじき、姉夫婦の家だ。早く子供達に会いたい。アリナは気のせいだったと思い、走り出した。突然、道路に誰かが飛び出してきた。逆光で顔は見えない。叫ぶ前に口を
姉の夫のボルーだった。
「なんだ、ボルー、あんただったの。びっくりするじゃないの。」
「こっちこそ、驚いた。今日は帰るとか連絡もなかったのに。」
ボルーは辺りの様子を伺いながら、ひそひそと小声で言った。
「一体、どうしたの?」
この辺りは人があまり住んでいない。住居より倉庫の方が多い。
「うちの前を変な連中がうろうろしていてよ、家に入れなかったんだ。どうするか、戻ってきたらお前が来たから、びっくりした。」
「変な連中?」
アリナは
「やっぱり引っ越さなきゃ。」
アリナが言うと、ボルーも頷いた。
「ちょっと、もう一回、様子を見てみる。後ろからついてこい。」
二人はそろそろと通りに出て、静かに角の向こう側を確認した。ボルーが合図をして、二人は前進した。もう一回、左に曲がらなくてはならない。
「良かった、誰もいない。」
ボルーの言葉にアリナはほっとしたが、家に入るまでは安心できない。二人は大急ぎで帰宅した。
「あんた、今日はどうしたの?」
ローナが小声で
「今日はたまたま、手が空いて帰れたのよ。それより、どうしたの?」
「怪しげな奴らが家の裏に見えたのよ。家賃はべらぼうに安いけど、やっぱりマウダが裏取引に来るって
ローナはアリナというよりは、ボルーに小声で文句を言った。とにかく、家賃が安いとボルーが決めてきた借家だ。一軒家で二階まである。
「変な連中はまだ、家の裏にいるのか?」
ボルーが尋ねた。
「分からないわ。家に入り込まれたら怖いもの。何をされるか。」
それで小さな明りを食卓の下に置いているのだ。人がいると思われないようにするためである。
「二階の窓から見てくる。」
ボルーが言い、アリナも付いて行った。ローナも後ろから付いてくる。ボルーは物置にしている部屋の窓をそっと押し開いた。満月の明るい光が差し込む。
下の様子を伺うと、倉庫と倉庫の間の空き地に人が数人立っているのが見えた。少し離れているので、顔までは見えない。外套を着ている人が見えた。他にも数人。
ボルーはそっと窓の板戸を閉めた。部屋の中が暗くなる。
ボルーは
「どうしたのよ?」
ローナが尋ねる。
「俺、前に
「あんた、また、やってるの…!」
ローナの声が
「姉さん、落ち着いて。話を聞きましょうよ。」
アリナが
「今はやってねえよ。借金のかたにラウナが連れて行かれそうになったんだ。大体、あまり面白くなかったし、友達に利用されてただけだったから、もう、二度とやらねえよ。
俺が言いたいのは、その賭場に行ってた頃に聞いた噂なんだ。夏でも冬でも外套を頭から被っている奴は、マウダの中でも最も恐れられている男なんだと。親分の右腕らしい。そいつに睨まれたら、二度と生きて帰れねえんだそうだ。」
ローナとアリナは息を呑んだ。
「じゃあ、今、見えた人、マウダって事?」
「他の別人じゃないかしら。」
「春も過ぎたんだぞ。あんな外套、誰が好き好んでいつまでも着るってんだ。マウダのそいつに決まってる。くそ、どうしよう。」
ボルーは
「どうしたの、ボルー?」
「俺、そいつがうちの前を通るのを見たんだ。だから、引き返して様子を伺ってたんだ。」
ローナとアリナは顔を見合わせた。
「その人はボルーに気が付いたの?」
「いや、分からねえ。」
ボルーの答えにアリナは頷いた。
「じゃあ、大丈夫よ。今は何もしないでひっそりとしているのが一番よ。
ローナも頷いた。
「そうね。引越しは明日になってから、考えましょう。早く別の場所を探さなきゃ。やっぱり噂は正しかったんだわ。」
「そうよ。あの子達が起きて泣き出す前に、早く下に降りましょう。」
「そ、そうだな。きっと、大丈夫だよな。」
ボルーも言い、三人は階下に降りた。そして、寝ている子供達の様子をみて、それぞれ布団に入ったのだった。
だが、ボルーだけは寝なかった。寝たふりをしていたのだ。
二人が子供達と寝静まると、そろそろと起きだした。食卓がある部屋に行き、棚の中からアリナの貯金箱を、自分が消すと言ってまだ消していなかった、燭台の明りで探し出した。アリナが自分で拾ってきた紙箱に、古着を切って張り付けた箱だ。
アリナの夫が亡くなってから、彼女は方々を回って仕事を見つけてきたのだが、どれも賃金が安くて大変だった。ようやくボルーの知り合いの紹介で雇って貰った所が、給料も高くていい職場だと喜んでいる。
それ以来、彼女の貯金箱にはたくさんのお金が入ってくるようになった。結構、ずっしりと重い。
だが、ボルーの知り合いが博打仲間だと知ったら、彼女は決して雇われなかっただろう。
(すまん、アリナ。)
実はボルーは誰にも言っていない事があった。言えなかったのだ。借金はまだ全部返していないという事を。
しかも、マウダの一員だと言う男に借りてしまったのだ。借金取りに締め上げられている時に、外套を着た男が現れ、代わりに金を返してくれた。
その代わりに、ここに引っ越せと命じられて、ローナとアリナには家賃が安いから、と言って強引にここに引っ越した。そして、アリナに仕事を紹介しろと言われて、その給料のいい仕事を紹介した。
さらに外套の男は言った。自分が家の裏の空き地に現れたら、金を持って出て来い、と。自分が姿を現すまでに無駄遣いをしなかったら、十分に肩代わりした以上の金が溜まると言った。もし、言うとおりにしなかったら、ローナと子供を攫って売り飛ばすと脅した。
ボルーは震えながら、アリナの貯金箱を持って家を出た。早く全てを終わらせて平穏な生活を送りたいと願いながら。
次の日、アリナはローナにたたき起こされた。
「うちの人がいないの!あんたの貯金箱もないわ!」
アリナが慌てて起きだしてみると、棚は開きっぱなしで、アリナの貯金箱があった所だけ、穴が開いたようになっていた。
「ねえ、父さん、どこに行ったの?」
ローナの娘のラウナが不安そうに尋ねている。アリナの子供達も不安そうに、
その時、家の戸口を叩く音がした。ローナが出て行くと近所の倉庫の人だった。
ボルーは近くの運河で発見された。すでに亡くなっていた。
運河の岸には、アリナの貯金箱が空っぽで落ちていた。
「それで、どうだった?」
マウダの頭領のリノラは、寝台に座って手下の青年に尋ねた。今日は周りに誰もいない。見張りも外に一人だけだ。青年の報告を受けて、リノラはため息をついた。
「全く、あの子にはつける薬がないね。ザナーがいない間に名前を
それで、あの子はまだ、マウダの金を使って、博打通いをしているんだね?」
青年が頷くと、リノラはやれやれと首を振った。
「やっぱり、あの子はわたしがどうにかするしかないようだ。ザナーが尻拭いしてやってるのにも気づかないで、その程度でわたしを
分かった、お前はお下がり。これからも、こうやって知らせるんだよ、いいね。」
青年が退室すると、リノラは短刀を抜いて壁に投げつけた。木の壁に短刀がビン、と突き立つ。壁は特別に厚くなっている。
「自分で産んだ子供だろうと、わたしは容赦しないんだよ。ダンクンイ、お前はわたしが分かっていないね。」
一人、聞こえないように呟く。
「旦那もわたしが殺したんだ。」
もう一本、壁に短刀が突き立った。
「そもそも、ダンクンイ、お前も好きで産んだ子じゃないんだよ。」
別の向きに短刀を投げつけた。
「流そうとしても、しぶとく流れなかった、お前はね。」
壁にどんどん両手で短刀を投げつける。
「大物になるかと思いきや、とんでもない
壁に突き立つ短刀の数が増えていく。
「お前にはがっかりだよ、ダンクンイ。あの男に馬鹿な所がそっくりさ。」
手元に投げつける短刀がなくなった。仕方なく寝台から降り、壁に突き立った短刀を抜いた。そして、今度は反対側に投げつける。
「仲間を
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