第17話 決別

 あまりに眠っていたので、ここはどこなのか、分からなかった。目覚めて起き上り、顔をこすり、頭をいて伸びをした。非常に簡素な寝台の上で寝ていた。ようやく、自分のいる場所を思い出した。

 左手で腹をなんとなくさすっていた。ここ、五か月のくせだった。最初は違和感があった腹も、今ではほとんど何も感じない。時々、天気が悪くなる前にしくしくするくらいだ。

 首を回し、肩も回した。随分、寝ていた。体中かちかちだった。寝台も簡素だったが、建物も簡素だった。簡素というより、貧弱で今にも崩れそうな小屋と言った方がいいかもしれない。かびの臭いがしている。

 それでも、人が出入りするから、なんとか保たれている感じだった。

 外に人が来た気配と足音がした。近づいて来て、ぎしぎしと音を立てながら、扉が開いた。一人の男が体をかがめて上半身だけ、中に入れた。ひげが伸び、衣服もあちこち汚れている。

「オブン・グース!」

 グース以外に誰もいないのに、ガラガラ声の大声で呼ばわった。

「俺だ。」

 訳も分からず答えると、男は頷き、こっちへ来いと手招いた。靴をいて立ち上がると、頭をはりにぶつけた。それだけで小屋が揺れた。グースが頭をさすりながら、外に出ると男は扉を閉めた。

 森の中の小屋だった。空は曇っていたが、時折晴れ間が射している。男がついて来いと合図をして、その後を黙ってついて行った。

 五か月前、グースはザナーに刺された。殺されたと思っていたのに、二日後に激しい腹の痛みで目を覚ました。そこはカートン家の医療室だった。

 ザナーは急所を絶妙に避け、グースを仮死状態にし、カートン家に送り込んだのだ。

 マウダでは組織内で人が死ぬと、カートン家に送るようになっている。そして、医者や医者のたまご達が解剖する。それは何もマウダだけに限った話ではない。

 身元不明の遺体もみんなカートン家に送られ、解剖される。そして、死因を調べたり、身元を調べるのだという。しかも、ちゃんと火葬までしてくれる。

 カートン家はどんな身分の人も治療する決まりだから、どんなにいかがわしい人であっても受け入れる。そして、グースは解剖される前に生きている事が分かり、治療をされたのだった。

 グースはしばらくの間、激しい痛みに苦しんだ。幸いにして、短刀は内臓を傷つけず、動脈に到達していなかった。その上、短刀が刺さったまま、運ばれたのが命を助けたと医者達は言った。

 こっちは脂汗を流して痛みに耐えているのに、悠長ゆうちょうにそんな説明をしていたが、あまりの痛みにしゃべる事さえままならない。

 やっとのことで痛いからなんとかしてくれと頼むと、夜、寝る時以外は痛み止めをしばらく処方しない、と言われて絶句した。炎症が起こってもすぐに気づけないかもしれないから、という理由だった。

 何はともあれ、グースは無事に回復した。名前は伊達ではないらしい。時々、カートン家に世話になっていたが、ここまで腕がいいと思った事は今までに一度もなかった。

 グースが自分で便所に行ったり、体を少しずつ動かせるようになった頃、ひょっこり驚く人物が現れた。

 ザナー本人だった。便所に行って戻ってきたら、いたので死ぬほど驚いた。一瞬、刺しそこねてもう一度、止めを刺しに来たのかと思ったが、ザナーに限って刺し損ねるという事はあり得ない。

 つまり、ザナーがグースを助けてくれたという事だ。

「ほとんど治ったようだな。」

 ザナーはグースの様子を見て、感想を述べた。

「…どうして、俺を助けたんですか?」

 どう言おうか、少し迷ってから、グースは尋ねた。ザナーは寝台横の小さな椅子に座ったまま、立ったままのグースを見上げた。

「お前は、私が止めを刺しに来たとは思わないのか?」

「ザナーさんは刺し損ねたりしません。だから、俺が生きてるのは、ザナーさんが助けたからです。何か意図があって、俺を助けたんだろうと思ったんで。」

 ザナーの事は嫌いではないが、何を言われるのかは分からない。強がって少しだけ嘘をついた。最初は殺されると思ったのだから。

「なるほど。」

 ザナーが外套の中でにっこりした。グースは上から見下ろしているので、彼の外套の中の顔がよく見えた。ザナーは立ち上がると、何を思ったのか、するすると外套を脱いで椅子の背もたれにかけた。

 グースはびっくりして、またたきもせずにその様子を見ていた。今までにザナーが外套を脱いだ姿など、一度も見た事がなかった。頭領に命じられた時以外は。グースもザナーが何を命じられているかは知っていた。

 ザナーの姿はまるで貴公子だった。きちんとした身なりをしているから、これに長い髪をまとめ、帽子でも被ればザナーだとは気が付かないだろう。

 この姿で表の仕事をしているのだ。誰もマウダだとは思わない。頭領が彼に表の仕事の管理を任せた理由が分かった。

「どうした?珍しいか?」

 ザナーに言われ、グースは慌てて視線をそらした。ザナーは面白そうに笑った。

「この外套は怖がらせるためのものだ。怖がらない相手に着ていても、ただ、暑いだけだ。」

 グースはますます驚いた。やっぱり暑いのかと妙な所で納得してしまう。心理作戦のために、暑いのを我慢して着ていたのかと思うとおかしくなってきたが、実際にその作戦は成功しているのだ。

「ところで、グース。お前、横にならなくて大丈夫なのか。」

 おかしいのを我慢して腹筋に力を入れたせいか、急に腹が痛くなってこらえているのを見抜かれた。

「だ、だい…。」

「大丈夫じゃないな。早く横になれ。」

 言われてグースは布団に横になった。ザナーは黙って見守っている。どうして助けたのか、こうやって見られるとそれが気になった。

「グース。」

 ザナーはまた椅子に座ると、話しかけた。グースは身構えた。

「お前にはいくつか、選択肢がある。お前は死んだことになった。誰にも気づかれないように、別人となって生きる道がある。

 当然、名前は変えなくてはならない。問題はその後、まともな職を得て真面目に働くか、剣の腕を生かした裏稼業の道に入るか。これはマウダの情報で入って来たものだが、ある組織の密偵や暗殺稼業をする奴はいないかというものだ。

 最後は自分の名前は変えなくていいが、絶対に戻って来られない場所だ。ここに行った人間は自分の名前以外は全て、それ以前の事を忘れてしまう。当然、こっそり家族の様子を見る事もできない。ここに行って、戻ってきた人間は一人もいない。

 グース、お前はどの道を選ぶ?」

 グースは少し戸惑った。ザナーの判断でどうするか、決定できるのは分かっている。それなのに、グースに選ばせようとしていた。

 しかも、今の説明からすると、別人となって真面目に生きていたら、こっそり家族の様子を見守る事もできるという事だ。

 ザナーの言いたい事は分かっている。彼は真面目だから、グースに選んで欲しくない道もきちんと選択肢に入れたのだ。裏稼業の組織で密偵なんかでは、マウダにいるよりも悪いかもしれない。もっと厳しい生活になるだろう。

 別人となって真面目に生きろ。もう、悪い事はしないで生きられる。お前にはそれができる。そう言いたいのは分かった。ただ、一つ確認してみたかった。

「自分の名前以外を忘れてしまう場所とは一体、なんですか?」

「それは言えない。」

 ザナーは、少し遠くを見つめるような目つきで続けた。

「ただ、それこそがマウダの存在理由で、マウダがこの世から消えない理由だ。」

 なぜかこの時、グースは鳥肌がたった。ザナーはマウダの暗部を全部知っている。普通の構成員が知らない事を知っている。もしかしたら、ダンクンイが知らない事も知っているのかもしれなかった。

 ザナーがグースを見下ろした。

「まさか、お前、そこに行きたいのか?」

 ザナーの濃い灰色の目が鋭くなる。

「いいえ。ただ、両親がつけてくれた名前を変えなくていいのは、いいと思っただけです。俺は一番最初の道を選びます。別人となって真面目に生きる。もう、悪い事はしたくない。」

 グースの返事に、ザナーの鋭い剣をまとったような空気がやわらいだ。

「お前も少しはまともな判断ができるようになったな。後でまた連絡をする。それまで、しっかり養生していろ。」

 ザナーは立ち上がった。その時、グースは信じられないものを見た。外套に血がべったりついていたのだ。明らかに椅子によりかかったからついたのだ。もしかして、外套を脱いだのは来ていられないほど、具合が悪かったのでは。

「どうしたんですか?血が…!」

 ザナーはグースに指摘され、顔をしかめた。

「大丈夫だ。大した事はない。」

 ザナーは外套を手に取って羽織ろうとしたが、勢い余って後ろにひっくり返った。これは確実に失血による貧血だ。

 グースは痛みを堪えながら起き上がり、できる限り急いで近寄った。服の左側に血が滲んでれている。

「おい、しっかりして下さい…!」

 ザナーはかろうじて意識はあった。薄い褐色の肌の上、いつも顔をよく見ていなかったから分からなかったが、相当、顔色が良くないようだ。グースは大声で助けを呼んだ。ここは安心して大声を出せる。

「ザナーさんがやられるなんて。一体、誰にやられたんですか?」

「マウダを名乗る連中だ。もちろん、組織をつぶしてきた。」

 つまり、全員、抹殺したという事だ。グースがうんうんうなっている間に、マウダの名をかけた戦闘があって、ザナーはその足で真っ直ぐここに来たのだ。

 大勢の人が死んだはずのに、マウダが無事だということに、ほっとしている自分がいて、グースは複雑な気持ちになった。

 しかも、ザナーは自分も大怪我をしているのに、わざわざグースの所に来たのだ。

「あんた、馬鹿じゃないのか。先に治療しろよ。」

 思わず普段なら口が裂けても、絶対に言えない事を口走ってしまった時、戸が開いて医者がやってきた。

「全く同感だ。」

 聞こえていたのか、爺さんの医者が言った。

「だから、先に治療しろと言ったのに。この私をだますとは、相当のやせ我慢だ。大丈夫だとしっかり立って歩いていたから、騙されてしまった。」

 医者の爺さんはぶつぶつ言った。後からやってきた医者達が担架に乗せて運んでいく。グースはその様子より、爺さんの医者を見つめていた。見覚えがあった。

 だが、医者が振り向くより先に、グースは顔をそむけ、ゆっくり立ち上がった。背を向けて寝台に向かう。

 その後ろ姿を医者がじっと見ていたとは、グースは当然、分からなかった。

「グース。」

 突然、呼びかけられ、グースはぎょっとして立ち止った。体が振り向こうと反応し、腹筋に痛みが走った。寝台の柱につかまって痛みに耐えていると、爺さんの医者が近づいて来て、腰の辺りをさすってくれた。

 体全体を巡っていた痛みがかなり楽になった。ようやく、息をして寝台に腰かける。寝台の柱に手をかけて、体を固定した。

「やっぱり、グースだったんだな。」

 医者はグースに顔を近づけて、顔をくしゃくしゃにして笑い、優しくグースの頭をでた。

「グース、大きくなった。良かった。やっぱり生きてたか。どうだ、私の目は雲っとらんぞ。ばれないと思ったか?ん?」

 グースは震えた。今までずっと心の奥底に隠して来たものが、あふれ出してきた。

「ベリー先生…どうして、分かったんですか?」

 ベリー医師は、はっはっはっと優しく笑った。花通りの診療所にいた医師だった。

「分かるとも。その目がお前は雲っとらんかった。子供の頃のままだった。」

 グースの両目から涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。止めようとしても止められない。うつむいたら、涙が真っ直ぐに膝の上に落ちて温かった。

「辛かったなあ。苦しかったなあ。どうだ、悲しい事も恐ろしい事もあっただろう。でも、よく生きていたな。」

 ベリー医師は、泣き崩れるグースの背中を優しく撫でた。グースが何をやっていたか知っているはずなのに、一言も責めなかった。

 優しくて、温かい時間だった。マウダに攫われてきてから一度もなかった、心に血の通う時間だった。

 ベリー医師がちり紙をくれて、グースは涙と鼻水を拭いた。

「全く、ザナーの奴も役者だな。私が今日の担当だと分かって、お前と自然に合わせる為にわざわざ自分の治療を後回しにしおって。」

 グースは目を見開いてベリー医師を見つめた。

「どうだ、筋金入りの馬鹿だと思わんか。」

 悪戯いたずらっぽい表情で言われて、グースはおかしくなってきた。腹が痛いのに堪えきれない。

「いててて、ははは。」

 痛いのに笑うのをやめられなかった。

「馬鹿か、そんなに笑うと傷が開くぞ。」

 ベリー医師は注意したが、その表情は優しかった。グースが実に久しぶりに笑った事を知っているからだ。カートン家門下の者ならば、マウダがどんな場所か知っている。

「先生。俺、あの人の、ザナーさんのおかげで生きて来られたし、マウダを抜け出せた。あの人が俺を死んだ事にしてくれたから。

 俺、怖いんだ。もし、マウダに俺が生きている事がばれたらどうしよう。そうなったら、俺、今度は確実に殺される。それに、殺した事にしたザナーさんはどうなるのかな。やっぱり、殺されるよな。」

 急にグースは怖くなった。本当にマウダに生きている事がばれないのか。大丈夫なのか、それが恐かった。

「大丈夫だ、グース。そんな事にはならないよ。」

 ベリー医師は、安心させるようにゆっくり言った。

「カートン家はそんなへまをしないぞ。それにザナーだって、一応、お前を刺した。たまたま、死んだはずのお前が生きていただけの事だ。」

「でも、ザナーさんの奴が刺し損ねる訳がないと、マウダの人間ならみんな知ってる。」

「なあに。カートン家の医療技術で、死ぬはずの人間を生きながらえさせたのだ。大丈夫。お前のやる気さえあれば、カートン家で働ける。カートン家の者全員が医者になるわけではないからな。」

 ベリー医師の言葉にグースは驚いていた。まさか、カートン家で職を得られるとは思っていなかったのだ。

「ほ、本当にカートン家で働けるんですか?」

「嘘を言ってどうする。どうだ、働く気はあるか。」

 聞かれてグースは勢いよく頷いた。

「もちろんです。先生、ありがとうございます。」

 あははは、とベリー医師は笑った。

「礼ならザナーに言わないとな。」

「でも、先生、ザナーさんは礼を受け付けないし、言ったら本当に殺されそうです。」

 ベリー医師は吹きだした。

「確かにそうだな。全く、あいつは不幸な奴だ。」

 その言葉でグースは、ベリー医師がザナーの過去を知っていると直感した。突然、聞いてみたくなった。ザナーがどんな人間だったのか。マウダに来る前は何をしていたのか。ザナーは治療中だから、聞くなら今しかない。

「先生は、ザナーさんの過去を知っているんですか?」

 グースの問いに、ベリー医師は困ったように微笑した。

「聞いてどうする?」

「俺は、ザナーさんのおかげでここまで来ました。だから、知りたいんです。実はザナーさんが俺をマウダから出そうとしたのは、二回目なんです。最初は攫われて間もなくの頃でした。いろいろあって、あの人は俺が逃げられるようにしてくれました。

 でも、せっかくの機会を俺が無駄にしたんです。怖かったんです。俺が戻ってもオリやブランが代わりに攫われるんじゃないか、父さんや母さんに何かあるんじゃないかって、それが恐くて戻れなかった。

 今でもそうです。マウダの中にいたからこそ、家族の元に戻れるわけがありません。下手にうろうろして、俺が生きている事が分かったら、どんな報復をされるか分かったもんじゃない。

 それに、すっかりマウダの一員になってしまった俺の事は、戻って来ないと思ってあきらめて欲しい。たぶん、みんな気持ちを切り替えて生きているだろうから、今更、戻って家族を混乱させたくない。

 俺は別人として生きていける機会を得た。それだけで、身に余る幸せなんです。それはザナーさんが作ってくれた。だから、知りたいんです。あいつの事を。」

 グースの言葉にベリー医師はにっこりして、グースの隣にゆっくり座った。

「私が話した事は内緒だぞ。もし、ばれたら切り殺されるかもしれないからな。私も老いぼれているから、ニピの踊りができても完敗するのは間違いない。」

 ベリー医師は冗談めかして念を押し、グースは頷いた。

「ザナーは、ヨリクン流開祖の直弟子である、クーグの最後の弟子だ。

 まだ、赤ん坊だった頃、両親が何者かにおそわれ、クーグが助けたが、一流の剣士にしてくれと、両親から預かったらしい。しかし、結局、両親はその後、亡くなったそうだ。」

 かろうじて乳離れはしていたというが、兄弟子たちが負ぶいながら修行し、剣の練習をしているのを見ながら大きくなった。

 物心ついてからは、クーグがどこへ行くにも連れて歩いて、クーグの剣の練習の間、ずっと見ているようにしつけけられた。クーグは心血を注いで歩き始めたザナーに剣を教えた。

 七歳から兄弟子達と一緒に修行を始めたが、当然の事ながら他の人より抜きん出ていた。剣の英才教育を受けたザナーはいつしか、ヨリクン流の若獅子と呼ばれる、天才少年剣士になっていた。

 だが、ザナーが十三歳の時、クーグが亡くなる。クーグは亡くなる前に数人の兄弟子達を呼び、奥義を伝えて免許皆伝とした。そして、一人にザナーの面倒をみてくれるように頼んだ。

だが、他の者はそれをねたんだ。ザナーは将来のヨリクン流の後継者と決まっていたからだ。ザナーの面倒をみる事になった弟子は、他の兄弟子達に比べて年若かったうえ、剣士としての才能はそこまでないと思われていた。 

 だから、割と早くに国王軍に入隊していた。その上、剣術の修業を途中でやめて国王軍に入った者に、免許皆伝を与えるなど前例がなかった。他の多くの兄弟子達を差し置いて、その人が選ばれたから妬まれたのだ。

「それが不幸の始まりだった。年若いザナーが当主になることも承服できない人達がいたうえ、ザナーを預かる事になった弟子の面目をつぶそうと、数人の兄弟子達が共謀して、ザナーを攫うようにマウダに依頼した。マウダの方も、ヨリクン流の若獅子を攫えるか腕試しをしたのだ。」

「腕試し…。それに自分達の面子のために将来の後継者を、排除したのか。」

 グースは呆れた。人は弱いものだ。たとえ、日ごろから体を訓練していても、心が弱ければこうなってしまう。人の心がいかに弱いか、マウダにいて、痛感していた。

「結果は…お前も分かっている通りだ。」

 残念そうにベリー医師は言った。

「どうして、ザナーはマウダに負けたんですか?それだけの実力があるなら、逃げられたのでは?」

 ベリー医師はため息をついた。

「十五歳の少年は、兄弟子達に何かあったのかと思い、危険を承知で戻ったのだ。その上、剣で人を殺せなかった。マウダは薬で死ぬまで戦わせるようにした戦闘員を使い、何十人も動員して猛獣狩りをするように、犬も使って山中を逃げる少年を一週間がかりで追いかけ、捕まえた。」

 反吐へどがでるような話だった。薬を使った連中は、手や足を切った程度では向かってくる。普通なら激痛で動けないはずだが、死ぬまで向かって来るのだ。マウダの罰でその薬を使う事があった。

「でも、殺せなかったと言っても、殺さなきゃ薬を使っているから、自分が殺される。」

「そうだ。ザナーはその時、初めて人を殺したそうだ。」

 グースはため息をついた。マウダにいる人はみんな、不幸だ。マウダの構成員はほぼ全員が、攫われてきた人間なのだから。

 みんな、心のどこかで罪悪感を抱えている。だが、一方で自分も苦しみに耐えて来たのだから、お前も耐えろと新しく入って来た者達に強制しているのだ。

 グースもそうだ。自分も泣きたい程、悪い事をしているのは分かっているのに、他の人に強制してきた。

 みんな、お互いにそうしてきた。みんな、攫われて来た人ばかりだから、変に連帯感が生まれて、他の組織にないほど団結していた。

 そんな中でもザナーはかなり不幸だ。人を殺せなかった少年がマウダに入って、暗殺者になった。その剣の腕を暗殺に使えとマウダが強要したのだ。

「お前はどこか自分に似ていると言っていた。マウダから逃げないなんて馬鹿な奴だと。七年前、ザナーがニピにやられたと私の所にやってきた。その時にお前の事をこぼしていた。」

 グースはザナーがベリー医師に、そんな話をしていたとは思わなくて、正直に驚いた。

「ザナーさんはベリー先生にはなんでも話していたんですね。」

「なんでも、という訳ではないだろうさ。ただ、どうしても辛い時に話をするのだろうなあ。」

 そんな話をして、ベリー医師は戻って行った。グースはベリー医師と話をした後、不思議とどこかすっきりしている自分に気が付いた。ザナーが話をする気持ちが分かった気がした。

 そして、五か月がたち、傷も癒えたグースはこの山の中に連れて来られていた。ザナーとは五か月前に会った以来、会っていない。

 連絡をしてきたのは、ザナーいちの部下、コウディだった。そして、その後は完全にカートン家の判断に委ねられた。

 山道を黙って歩いて行くと、突然、視界が開けた。山間の中に草原が広がっている。美しい風景だ。山の空気は澄んでいるが肌寒い。

 その中に広大な施設があった。よく見るとあちこちから、煙か湯気のようなものが立ち上っている。

「さあ、着いたぞ。」

 男は言った。

「ここはロドル村。名前くらいは聞いた事があるだろう。カートン家が本格的に開発を進めている、避暑地で保養施設、ここでお前は働くんだ。薬草園の開墾と管理がお前の仕事だよ。」

「保養施設?」

「そうさ。すでに貴族達や有名な剣術の流派が、ここに屋敷を立て始めている。これから、ここは忙しくなるぞ。」

「あの煙は?」

「湯煙だよ。ここは温泉が出る。温泉で体を癒す、そのための施設をカートン家は造っているんだ。お前のその大きな体格を生かして頑張ってもらいたいよ。」

 男は最初の印象とは違い、きさくに言って笑った。グースも会釈を返した。

 これから、ここが自分の居場所だ。たぶん、力仕事でだいぶ体はきついだろう。それでもマウダにいるより、はるかにましだ。

「そうだ、お前さん、これからはオブン・グースではなく、ハミ・バリスと名乗れ。新しい身分証明なんかは後で渡してやる。今日はさっそく、働いてもらうぞ。準備はいいな。」

「はい。」

 グースが頷くと、男は嬉しそうに歩き出した。

 グースも新しい人生を歩めることが嬉しくて、すがすがしい気持ちで後をついて行った。



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