第3章 隠れた闇
第14話 ネイズとバムス
ぼーっとしているフリをするのも、案外疲れるものである。
あれは、剣術だけはできるが、他のこと、頭脳にかけてはトンとだめだと思われている。まあ、そうなるように、何事にも興味がないフリをして、会議中も押し黙り、話を振られても、さあ、分かりませんとか、
余計なことに首を突っ込むと、面倒なことになるものだ。
そうやって、義父の後を継いで、枢密議会にも、首府議会にも出席して、目立たぬようにしてきた。
ところが、最近、八大貴族のクユゼル・ファナが、不思議そうに目を丸くして、見て来ることが多々あった。
俺に気があるのか、と思いかけもしたが、彼女には娘が一人いる。たしか、十三歳くらいだったはずだ。バムス・レルスリとの子だというのは、公然の秘密である。
バムス・レルスリは
女達が文句を言わないというのは、本当に
しかも、正妻がいる所に、よそからやってきた女と鉢合わせたのだ。
自分の経験からいっても、女達は大抵、こういう時はご機嫌
それよりも、そのバムスの女の一人である、ファナがおかしい。
意味ありげにこっちを見て来る。
もしかして、何か感づいたのか。
半目で寝たふりをしながら、実は会議中の話を聞いていることを。何かできるように思われると、仕事を割り振られて、必要以上に忙しくなるではないか。
出世したい奴なら、
会議が終わり、大勢が立ち上がり始め、おしゃべりをしながら、議員や貴族達が立ち去り始めた。ここでようやく、伸びをして目覚めたふりをし、立ち上がった。
目の前にファナが現れて、
「…おっと、いや、クユゼル殿、何か御用ですか?」
すっと、突然、現れたのでかなり
「……。いえ。失礼しました。」
ファナは
大人しくて遠くを見るような目つきをしており、不思議な女だが、顔立ちは悪くない。バムスの女だという公然の秘密がなければ、自分の女にしても良かったかな、と思う。
なんせ、クユゼル家の跡取りは、彼女一人なのだから。
「あの。」
そんな
「な、なんでしょう?」
さすがに少し、ばつが悪い。
「お話があるのですが。お時間を頂いてもよろしいでしょうか?」
他の女だったら、俺に気があるのだと深く考えずに同意するが、さすがにファナだと即答はしかねる。バムスの女だと分かっている上に、この深刻な様子の彼女には、慎重にならざるを得ない。
「…話、ですか。何かお気に
「そうではなく……。場所を移してお話をしたいのです。」
少し考えたが、同意した。断ってもおかしい。単に仕事上の話であるのかもしれない。もしかして、義父の時代に何か、王室に収めた物に
ファナは人気の少ない廊下を選んで歩き、議事堂の端の突き当りまでやってきた。
「…実は、これを先日、拾いました。」
ファナが差し出した物を見て、すっと背筋が冷えた。だが、
「ああ、これですか。何事かと思いましたよ。拾ってくださったのですね。どこで落としたのかと思っていました。」
「手巾を取り出された時に、落とされたのを見たのです。すぐに後を追いかけたのですが、もういらっしゃらなくて。」
紙の
「ありがとうございます。」
礼を言って受け取るが、頭の中では目まぐるしく考えが巡る。
この女、何をどれだけ知っている?
「ファナさん、どうしたのですか?大丈夫ですか。」
ふんわりとした雰囲気と落ち着いた声。
バムス・レルスリ。
とても、何人も子供がいる子持ちのようには見えない、若々しさを保っているが、軽々しい感じはせず、
「ネイズ、彼女はどうしたんだ?随分、深刻な様子で君と歩いて行くのを見かけたので、気になって悪いとは思ったが、後をつけてきた。」
ネイズはにっこりして、肩をすくめてみせる。
「落とし物を拾って貰っただけだ。」
手巾を出して見せた。
「私も一体、何事かと内心冷や冷やした。気づかぬうちに、クユゼル殿に何か不快なことでもしてしまったかと。だから、君が来てくれてほっとした。」
バムスとは友人同士だと、思われている。
「そうか。それなら良かった。ちょっと、盗み聞きをするようで悪いし、気分を害したかと。悪かったね。」
「いいや、いいさ。」
笑って受け流してみせる。明るくて軽い感じの男を演出する。
「それじゃ、クユゼル殿、失礼します。拾って下さってありがとうございました。」
ファナに
「ファナさん、大丈夫ですか。顔色がずいぶん、悪いですよ。」
後ろでバムスが言う声が聞こえた。
誰もいない廊下に差し掛かってから、立ち止まった。ファナが拾った紙の札を取り出す。彼女は何に気が付いたのだろう。
ファナはこれから、要注意人物だ。だが、うかつに手は出せない。バムスがしっかりついている。今も見計らったように、わざと足音をさせて出て来たのだ。実際に見計らっていたのだろう。
大人しそうな顔をして、全く食えない奴だ、と心の中で呟いた。
子供の頃からそうだった。人を
昔から、彼を怒らせようとして、成功したことがなかった。
剣術の練習をしようと持ち掛けて、ガドカ流の彼をだまし討ちにして、ひどく打ち付けた事があったが、彼は痛がっても怒らなかった。
地面をのたうち回り、脂汗をかくほどひどい怪我だった。それなのに、一言も責めず、恨み言を言わなかった。本当は怒鳴り散らして怒って欲しかったのに。
そのせいで、剣術はあまりできなくなったというに、全く責めなかった。だから、余計に自分が
自分が友として接する限り、彼は友として対応するのだろう。
バムスに自分を殺しておけば良かったと後悔させたい。そう、思っている。
そこで、一息をついて、心を落ち着けた。
レルスリ家の情報収集能力は、半端ではない。何か気づいているのかもしれない。
気を付けて、もっと徹底しねえとな、と気を引き
「…バムス様、あの方は見かけとは全然違うお方です。」
ファナを伴い、歩き出そうとしたバムスの服の袖をつまんでファナが言った。
「ええ、知っています。子供の頃からの付き合いですから。」
バムスがにっこりして答えると、ファナは意外そうな顔をして見上げ、それから、ほっとしたように息を吐いた。
「ファナさん、教えて下さい。一体、何を見たのですか?」
ファナの手が細かく震えた。バムスはそれを見て、彼女の手に自分の手を重ねて握った。それを恥ずかしいなどと思った事はない。
相手が男だろうと女だろうと、関係なかった。相手が悲しんでいれば、
だからといって、言いなりになるのでもなかった。相手との関係が悪くなる、
それが、バムスの行動の原則だ。
手を握られて恐怖が少し消えたのか、ファナが堅い声で話し始めた。
「その、拾ったのは手巾ではないのです。黒い、小さな紙の札で金字で文様が描かれていました。その模様が、何かに似ている気がして、それで、よく見てみたんです。
そうしたら、あの方が剣で、人を斬っている姿が見えて、恐ろしくなりました。」
「斬られた人がどんな人だったか、分かりましたか?」
バムスの質問に、ファナは首をふった。
「ただ、文様の方は思い出しました。マウダに似ているのです。」
「マウダに似た文様だったのですか?」
バムスは慎重に聞き返した。ここで驚いたり、焦った声を出したりすると、相手も同じように驚いたり焦ったりする。
「はい。似ていましたが、別物でした。でも、何か関係があるのではないかと、そう思って聞いてみようとしたのです。」
「聞かなくて良かったです。」
バムスは心の底から言った。
「え…?」
まだ、少し
「彼は侮れないのですよ。もう、その紙の札と文様のことは忘れて下さい。」
誰もいないので、バムスはファナの頬を
「あなたの力に
「……。」
ファナが息を
可愛らしい人だ、と思う。とても、純粋で
「行きましょう。今日はリリナにも会う約束ですから。」
ファナが顔を上げて、嬉しそうに
バムスは歩きながら、ネイズはファナの何に気づいただろうと考えた。彼は子供の頃から、バムスに敵対心を持っているが、それを言葉や態度に表した事はない。
サリカタ王国では、十剣術などの剣術流派は、貴族でなくても一目置かれる存在で、地方貴族などよりも発言権がある。それで、子供の頃からネイズを知っていて、遊び友達でもあった。
ネイズはセーラトシュ流の三番目の息子だ。子供の頃、十剣術交流試合の子供部門で、彼と対戦して勝った。それ以来、彼はどこか
バムスとしては、まだ子供の試合なのだし、もっと練習して強くなればいいと思うのだが、彼はそれ以降、その事が自分を
そのためか、彼は道場の支部は継がず、クグン家に養子に入った。それは、彼の希望とは違うものだったらしい。口ではいいさ、と偽っていたが、本当はセーラトシュ家でありたかったのだろう。
それから、彼はますます油断ならない男になっていった。目が常に抜身の剣のようで、良心という
もし、ネイズがファナの能力を確実に知ってしまったら、彼女に力を使う事を強要するか、殺すかのどちらかだろう。クユゼル家の財産を得たいと考えているだろうから、力技で彼女をねじ伏せる可能性は高い。娘のリリナも狙われるはずだ。
バムスはもちろん、ファナの能力に気が付いている。だから、彼女に近づいたと思われているが、本当はただ、安心して貰いたかっただけだ。
いつも、苦しそうに生きていて、見ている方が痛々しかった。跡継ぎの兄が亡くなり、父も亡くなり、彼女は家の存続のためには、ボルピス王に従うしかなかったのだ。クユゼル家にかけられた嫌疑は、ボルピス王側につくことによってしか晴らせなかった。
そして、母親との関係も不仲だった。彼女の母が、実の娘を継子か居候のように扱っているのも知っていた。
ボルピス王側についた事により、他の貴族達からも嫌われ、かと思えばすり寄られ、彼女の家の財産を狙って様々な男がつけ狙い、しかし、彼女はいつも見事に
そんな彼女に誰かが、あの女はおかしい、誰かを呪い殺しているに違いない、などと言いがかりをつけ始めた時、バムスは黙っていられなくなった。彼女の心が限界を迎えているのが分かったからだ。
だから、彼女に近づいた。ファナを助けるためだ。彼女の能力の事は二の次である。なぜなら、必ずしも正しいとは言えないのだ。誰が、彼女の言う事が確実に当たると、保証できるというのだろうか。
そんな
全ては八大貴族の筆頭、自分の責任である。そのつもりで、いつも、全ての事に
これから、起こって来ること。
まだ、分からないが、間違いなく大波乱が起こるだろう。
願わくば、それが内戦ではない事を祈っている。
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