第6話 追憶


 ファナは窓辺に立ち、考えていた。十年前のことを思い出していた。

 彼女には昔から、特殊な能力があった。五歳の頃、転んで階段から転げ落ち、頭を強く打った。幸いにして命に別状もなく、どこかに後遺症が出ることもなかった。ただ、天気が悪くなる前に多少の頭痛が起こる時もあるが、普通の人にも時々あるので特別ではない。

 しかし、これだけは特別だ。

 人や物に触れれば、その人の過去や未来が見えること。物であれば、作った人やたずさわった人、以前の持ち主などが分かる。

 母のミーナはそれを気味悪がり、ファナにあまり近寄らなくなった。それだけならまだしも、兄のスールが亡くなることを言い当て、父が亡くなる直前までファナと言い争っていたこともあり、人殺し扱いをするようになった。今ではミーナは、ファナは自分が産んだ娘だということさえも、消し去りたいようだ。

 後継ぎのスールが、わずか十六歳で死んでしまったから、妹のファナがクユゼル家を支えるしかない。父のガシークが生きていれば、もう少しましだったのだろうか。

 時々、そんなことを考える。

 ファナは手袋をはめた自分の両掌りょうてのひらを見つめた。子供の頃はこの特殊な能力に、何の疑問も持っていなかった。両親がファナの能力にはっきりと問題意識を持ったのは、彼女が十歳の時だ。祖父が亡くなる日の状況を詳しく説明し、その通りになったからだった。

 この時は、自分の能力が認められたことを嬉しく思った。ずっと、嘘つき扱いされていたから。兄のスールは最初から信じてくれていた。兄も子供だったから、ファナに色んな人の過去や未来を調べさせ、二人で人をおどろかせたり怒らせたりして両親を困らせた。

 今思えば、あの時が一番幸せだった。

 なぜ、この能力があるのだろう。

 そう、考えたのは一度や二度ではない。飽きるほどにいつも、頭の中をめぐる。

 タルナスがグイニスのことを心配していた。最近、ファナの能力に変化が起こっている。手袋をはずし、ある人物を思い浮かべ、集中すればその人のことが分かるようになった。

 だから、先日の会議の時も手袋をはずして、タルナスを見ていた。

 王は本気で従弟のグイニスを心配している。そして、このタルナスという男が、王として無能ではないこともファナには分かっていた。彼は常に冷静に客観的に、八大貴族を観察している。そして、時には冷徹れいてつとも思える考えで八大貴族に対している事も分かっている。

 そして、王が自分に対し、今のまま八大貴族としていなくても良い、もう、解放されてもいいだろうと思っていることも知っている。

 父のガシークが亡くなった時も、そのことで言い争っていた。ファナがボルピス王側に付くように言ったから、ガシークは激怒した。遊びに来ていた叔母と従妹が仲裁して、ガシークは怒りながら階段を降りていたが、その途中で立ち止まり、何か言いかけて体の均衡を崩し、そのまま階段から転がり落ちた。

 もし、叔母と従妹、多くの使用人達、そして遺体の検分をしたカートン家の医者の証言がなければ、母のミーナはファナを殺人者として断罪しただろう。ガシークは脳の血管が切れて死んだと医者は言った。

 ファナはなぜ、ボルピス王側に付くように言ったか。

 それは、幻を見たからだ。ガシークについて歩き、後継ぎとして政治に関して学び始めた頃、幼いグイニス王子と王宮で会った。

 王子はまだ八歳だった。彼の遊んでいた凧が切れ、ファナの足元に飛んできたのだ。ファナはそれを拾い、侍女や侍従と共に走り寄って来たグイニスに手渡した。

 その時、ファナは幻を見た。腕にびりびりと刺激が走った。王子が誕生日の祝いの席で、後見人である叔父のボルピス暗殺未遂の疑いをかけられ、捕えられる姿を。そして、玉座に座るグイニスの叔父、ボルピスの姿を見た。そして、ボルピスを担ぎ上げる貴族がいて、その中に自分の姿があるのも見ていた。

 一瞬のうちに見た幻に、ファナは具合が悪くなった。今までになく強烈きょうれつだった。クユゼル嬢、いかがなさいましたか、という声を遠くに聞きながら気絶した。

 今まで、未来を変えようと奔走ほんそうした事は何度もある。

 ところが、変わる未来と変わらない未来がある事に気が付いた。その時は危機を回避したと思っても、別の危機が現れて怪我をする人は怪我をするし、事故にう人は事故に遭って死んだ。

 今までの経験から、この強烈な幻は変わらない未来だと分かっていた。だが、いよいよになるまで、誰にも話さなかった。ボルピスの根回しが本格的になるのは、その幻を見てから、間もなくの事だった。

 だが、父は決してボルピス側につかないと言っていた。最初はそれでいいと思っていた。ボルピスが正当ではない事が明白だったから。

 だが、一年半後、事件が起きる。ガシークは王室財務の管理をしていた。横領の疑いをかけられたのだ。もし、ボルピス側に付けば、罪は考慮される。つまり、ガシークを取り入れるためのでっちあげだ。

 だから、ファナは裁判に向かう前の父に幻を見た事を話し、ボルピス側に付くように言った。すると、父は激怒し階段から落ちて死んだ。怒りと衝撃しょうげきで混乱しているミーナの代わりに、ファナが葬儀や様々な事を全て取り仕切った。

 そして、ボルピス側に付いた。

 この幻は変えられない未来だった。父が死んだからあの幻の中に自分の姿があった。もし、ボルピス側に付かなければ、父は汚名を着たままで、クユゼル家の財産は没収され、一族は路頭に迷う事になる。だから、年若い十六歳のファナには為す術なく、従うしか道はなかった。

 そして、ファナは別の幻についても考えていた。

 凧を拾ってあげてから十年後、成長したグイニス王子と王宮で出会った時の事だ。彼は子供であったから、罪は免れたが常に監視されている。代わりにグイニスの後ろ盾だった貴族が粛清しゅくせいされた。

 グイニスは十八歳の美少年だった。燃えるような朱色の美しい髪を、緑の組紐で結い、どこか物悲しそうに歩く姿はどんな人の目も引いた。彼は護衛のニピ族と共に歩いてくる。

 ファナはあの幻を見て以来、グイニスに会いたくなかったが、仕方なかった。長い渡り廊下で隠れる所もない。仕方なく端により、書類を抱えたまま、頭を下げた。ファナは王室財務管理の中でも、美術品・芸術品・装飾品・服飾品の管理全般を任されている。

 他の八大貴族中で唯一、バムス・レルスリだけがファナの能力を知っている。そのバムスがファナをこの仕事に就けた。

 ファナの仕事は膨大で、書類も多かった。グイニスと護衛が通り過ぎる時、風が吹き、二人の身にまとった外套がいとうも風を受けて舞い上がった。外套がいとうが書類に引っかかり、廊下に散らばった。

 ファナは急いで書類を拾った。失くしてはならない書類だ。二人は行ってしまうだろうと思い、顔も上げずに書類を拾っていた。だが、護衛が「失礼致しました。」と言いながら拾った書類を差し出した。

 思わず顔を見上げる。「大丈夫です、内容は見ておりません。」と言う護衛の言葉にファナはいささか安心して礼を言い、書類を受け取った。その時、また、幻を見た。腕にびりびりと刺激が走る。手袋をしているのに見る幻は二回目だ。

 護衛が死ぬ瞬間しゅんかんの出来事だ。太い矢があるじを守ろうとした彼の体を貫通かんつうした。「ああ!」思わず、ファナは声を上げた。目がぐるぐると回る。おどろいた護衛とグイニスがファナを支えた。そして、さらなる幻が目の前に現れた。

 グイニスと若い娘が一緒にいる。可愛らしく美しい娘だ。次の瞬間、二人は必死になって走って逃げている。王子は娘を助ける為におとりとなった。そして、次の瞬間にはその娘が赤ん坊を抱いていた。困惑こんわくした表情で二つのゆりかごをながめている。

 次々と現れる幻にファナは耐えた。激しい頭痛がして頭が割れそうだった。ファナはいつの間にか気絶していた。

 一体、どんな幻を見たのか、ファナは思い出そうとしていた。あの時、もっとたくさんの幻を見た。思い出すたびに書き留めているが、全てではない。

 十年前の今日、この日がファナにとっての転換点だった。グイニスと護衛に会って気絶した、この日が。その日のことを思い出していた。



「お嬢様、バムス・レルスリ様がお見えです。いかがいたしましょうか。」

 侍女のラナが声をかけた。

「客間にお通しして。」

「それが、見舞いなので、客人ではないからとすぐそこまで来ていらっしゃるのです。」

「…分かったわ。お通しして。お茶もここに持ってきて。」

 ファナは書きめている帳面をしまうと、バムスを迎え入れるために深呼吸をして、気持ちを整えた。

 バムスはファナの能力を知っている。彼がなぜ、ファナの能力に気がついたのか、分からない。 

 そのためか、彼はいつも淡々として冷静でファナに心を悟られないようにしている。じっと静かにファナの目を見て来る。にらむでもなく、いだ湖面のように静かに見つめて来る。まるで、鏡に光を反射したように感じ、ファナはバムスの心の状態をあまり知る事はできない。なぜか集中できなかった。

「失礼します。」

 バムスの声がして部屋に入って来た。

「お話とはなんでしょう?あるからいらしたのでしょう?」

 ファナは警戒けいかいしながら尋ねた。

「挨拶もそこそこに…。」

 バムスは穏やかに微笑ほほえんだ。

「ファナさん、私はあなたの見舞いにうかがったのですよ。」

「見舞い…?」

 バムスは頷いた。そういえば、さっきラナが見舞いとか言っていた。

「今日、倒れたと聞きました。具合は大丈夫ですか?」

「大丈夫です。」

 ファナは即答して目を合わせないようにした。

「その割には顔色も悪く、表情も硬い。何か心配事があるようです。」

 バムスの指摘にファナはこっそり、つばみ込んだ。早く帰ってもらいたかった。

「あなたのことです。おそらく、何か幻を見て、心配事が増えたのでは?王子のことを案じているのですか?」

「そ、そうではありません。」

 逃げ腰のファナがうつむいている間に、侍女が置いて行った茶器を扱う音がして、気づけばバムスが自ら茶をれていた。

「…あ。ごめんなさい。わたくしが淹れて差し上げるべきでしたのに。」

 客人に茶を淹れさせてしまい、慌てたファナが近づこうとすると、バムスの手が目の前にすっと伸びて、ファナを止まらせた。

「いけません。あわてると火傷やけどをしてしまいます。押しかけた私が悪いのです。やはり、心配した通りでした。何事にもそつのないあなたが、茶を淹れる事さえ忘れているのですから。」

 バムスは茶器に静かに茶を注いだ。そんな姿でさえ、一幅いっぷくの絵になる。

「さあ、どうぞ。」

 ファナの前に茶を淹れた茶器をすっと置いた。バムスの静かなたたずまいと、茶の豊かな香りがファナを落ち着かせた。

 誰もがあこがれる貴公子だ。元々が大貴族である。そこにボルピス王につく事によって、ますます権力を大きくしたのがバムスの父、グレンスだ。グレンスはボルピス王が即位して二年後に死んだが、老齢であったので、実質、レルスリ家と八大貴族をまとめてきたのはバムスなのだ。

 いつも穏やかな表情を浮かべている。だが、やることは派手だ。まず、女好きで有名だ。いや、女好きというより、女が放っておかない。端正な顔立ちだが、グイニスのように華やかな美男子という訳ではない。女ならおしとやかと言われる様な、どことなくそんな雰囲気を持っている。なぜか、そこにかれるものがあった。

 だが、そのくせ剣術もできる。ガドカ流の剣術を遣い、それなりの腕だという話だ。実際にそうだとファナも言える。数少ないバムスの幻の中に剣術をしている場面があった。剣術の事を知らないファナだが、それなりに強いのだろうとは連想させた。

 ボルピスが王位について数日、三人の王族がボルピスに意見しにやってきた。ボルピスの従兄弟や腹違いの兄弟だったりした。

 ボルピスを含め、八大貴族は説得しようとした。だが、三人は聞かなかった。そればかりか、不当にグイニスの名をおとしめたと世間に公表すると言い、闘う姿勢をみせた。

 ずっと黙っていたバムスが、『後悔しますよ。いいのですか?』と念をおし、最後の機会を与えたがとうとう考えを変えなかった。

 『幽閉しろ。』王は言ったが、バムスは黙って剣を抜き、ボルピスの目の前で、三人をり殺した。そして、驚くボルピスに言い放った。『どうせ、最初から正当性などないのです。最初こそ恐怖を与えなくてどうしますか。これは見せしめです。謀反人むほんにんですから、首を五日間さらします。』

 こうしてバムスは八大貴族の中でも、他の七家を力で圧倒した。これは、ボルピスにも誰が王にしてやったのか、覚えておくようにという警告でもあった。

 どこで行動すべきかを知っている男だ。普段は物静かで穏やかなだけに、突然の行動に驚かされる。怒りをあらわにしている所さえ、見た事がない。

 ファナが茶に口をつけてから、バムスも茶を飲んだ。

 ファナが茶を飲み、体が温まったのを見て、バムスが話を始めた。

「ファナさん、あなたはいつも、私に対してとても警戒けいかいしていますね。…それは、私の心の内が読めないからですか?」

 にっこりして、バムスが核心を突いてくる。ファナは息を呑んだ。咄嗟とっさに言葉が出て来ない。

「いいじゃないですか。それでおあいこです。私もあなたの心の内は読めない。そもそも、それが普通のことです。人の心の内は誰も分からない。その人だけのものなのです、本来ならば。あなたはたまたま、他の人のことが分かるだけ。」

 バムスはゆっくり立ち上がって部屋の中を歩いた。部屋の中は薄暗い。この日は曇りで、日中から暗かった。

「それに、一人くらい、あなたに心を読まれない人がいてもいいでしょう。あなたはいつも、望んで他人のことを知ろうとは思っていない。勝手に分かってしまっては、とても疲れるでしょう。」

 バムスはファナの前に立った。ファナは逃げようと立ち上がったのに、何も言うことも動くこともできないでいた。確かにその通りだが、不安をぬぐえない。一体、何の不安か。心を持って行かれそうな不安だ。心を許してしまいそうで、不安だった。

「私はあなたが痛々しくてたまらない。他人の心が分かるばかりに、いつも、楽しく過ごすことができない。知らなくてもいいことを知り、あなたは毎日、傷ついている。傷がえないうちに新たな傷を作っている。

 ファナさん、大丈夫ですか?このままでは、あなたは壊れてしまう。どうか、私の前では気楽に力を抜いて下さい。」

 彼の焦げ茶色の瞳にファナ自身が映っている。バムスがファナのほおてのひらでそっとでた。ファナはびくっと震えたが、動く事はできなかった。不思議と幻は見えなかった。なぜなのか、自分のことが分からなかった。

 彼はおそらくファナの幻のために、自分を取り込もうとしている。頭では警鐘けいしょうを鳴らしているのに、体は全く動かず、心は人の温もりを求めていた。そう、誰かに自分のことを理解してもらいたかった。なぐさめて貰いたかった。この苦しさを分かち合って欲しかった。

 体が引き寄せられ、久しくなかった抱擁ほうようにファナの心臓は高鳴った。どうしよう、これじゃいけない、自分の心と頭と体がばらばらで、ファナは混乱した。

「今まで辛かったでしょう。私は約束を守ります。あなたの秘密は誰にも話さないし、あなたが話したことも誰にも話しません。だから、あなたの心の内にある苦しみを吐きだして下さい。」

 バムスがファナの背中をゆっくり撫でた。なぜか、ほっとしてしまう自分がいた。

(もう、いいじゃない。)

 そんな風に思った瞬間、何かが崩れた。自分の心を封じていたもの、理性、そういったものが崩れ去った。

 ファナの頬を涙が伝った。気が付けば、バムスにしがみついて泣いていた。

「大丈夫ですから、悩みを私に話してください。」

 バムスのささやきに、ファナはあらがう事ができなかった。

 

 それは、今も変わらない。

 ファナは悩んでいた。どうして、バムスに心を開いたりしたのか、分かっていたのになぜ、そんなことをしたのか、自分で自分が分からなかった。

 バムスは妻帯者でしかも、他に多くの女性がいると知っているのに、なぜだろう。彼には多くの子供がいると知っているのに、なぜだろう。

 なぜ、彼に心も体も許してしまったのか、自分で自分が分からなかった。バムスのこととなると体が勝手に動きだし、心は躍った。

 彼が抱き寄せてくれれば、口づけして欲しいと願い、服に手を触れれば、直接肌に触れて欲しいと願う自分がいた。肌を合わせれば、時が止まってずっと彼の温もりを感じていたいと願った。

 自分はこんなにはしたなかったのだろうか。自分の知らない自分が現れ、戸惑い、苦しんだ。生まれて初めて嫉妬もした。彼は自分一人の人ではないと分かっているのに。

 それでも、止まらなかった。心は止められなかった。心が見えない、読めないバムスだけが唯一ゆいいつ、安らぎを得られる人だ。彼の胸に抱かれ、共に寝ている時だけが安心できる時間だ。彼はほんのり甘くて優しい菓子のように、ファナの心を安堵あんどさせた。だから、彼に自分の全てを与えたかった。

 バムスはファナにとって美酒だった。美酒に酔った時のように、彼に聞かれれば、色んなことを話してしまう。

 ただ、かろうじてグイニスと護衛のことについては話していなかった。口走っても大まかにしか話していないし、それだけ聞いても何の意味もなさない事しか、話していない。

 ファナはボルピス王がいいとは思っていなかったし、タルナス王のままでいいとも思っていなかった。やはり、何事も正しい位置に持って行くのが筋だと思う。グイニスと護衛のことについて、詳しく話さないと決めているのは、取り込まれてしまったファナの、せめてもの正義だった。

 だから、タルナス王がグイニス達について思っている事も、詳しくは教えない。その思いや考えが正しいかなんて、本人しか知らないのだ。

 それでも、なぜ、バムスが聞いて来るかと言えば、おおよそ合っており、参考になるからだ。時には全てがかみ合っていることもある。

 バムスにファナを信用させる。その信用がいつか、強力な武器になるからだ。

でも、そのいつか、とはいつなのだろう。ぬぐえない不安がファナにまとわりつく。


 

 枢密すうみつ議会の招集がある。ファナは思考を断ち切り、用意をして立ち上がった。

「お母さま、お出かけですか?」

 六歳の娘、リリナが不安そうな表情を浮かべてたずねた。

「そうよ、どうしたの?」

「だって…お母さまがいなくなったら、さびしいもの。」

 ファナはリリナの頭を優しくでた。

「ライナおば様もいらっしゃるでしょ?」

「うん…。でも、さびしいもの。」

「大丈夫。今日のお仕事が終わったら、しばらくお休みよ。だから、今日だけ我慢がまんしてね。」

「本当?」

「ええ、もちろん。だから、お留守番していてね。」

「はい。」

 リリナは満面の笑顔で頷いた。

 母のミーナは家を出ていた。別荘で暮らしている。孫のリリナに会った事は一度もない。ライナはファナの叔母だ。面倒なのでリリナにはおばさんと呼ばせている。ライナはミーナの代わりに、祖母としての役割を果たしてくれている。

 一人身のファナが妊娠して子供を産んだので、当時はかなり噂になった。ミーナは『お前は呪われているうえに、節操もない。』と吐き捨てて家を出て行った。

 だが、使用人達はファナを気の毒がった。

『可哀そうなお嬢様。結婚をさせて貰えず、婿養子さえも迎えられず、奥様があんなだから、お嬢様もさみしかったのでしょう。実の娘だというのに、ひどい仕打ちでしたもの。

 お嬢様が大黒柱としてのお役割を、御立派に果たされていらっしゃるのに。だから、優しくして下さる殿方に心かれて当然の事だわ。』

 みんな口々に陰では言いあった。当然、誰の子供を身ごもったのかも知っている。だが、誰も表では口に出さなかった。それくらい、ファナに対するミーナの仕打ちがひどかった。

 一人の古株の使用人レンディスがライナに連絡し、ライナが一緒に住むようになった。彼女の娘は嫁いだから身軽だった。

 当時は堕胎だたいするとファナは言い張った。誰の子供を妊娠したのかも、決して口を割らなかった。とうとうレンディスがライナに、誰の子かそっと告げ、レンディスを介してライナはバムスに連絡した。バムスが説得したから、ファナは子供を産んだ。

 そして、産んで良かったと思う。自分の血を分けた子供がいるのは、とても嬉しい。

 ファナはリリナの笑顔を目を細くして見つめた。

 その時、思い出した。以前に見た幻を。グイニスには子供が二人いた。双子だ。

 可愛い子供が一人、リリナと同じくらいの子が、武装した兵士に向かい、果敢かかんにも戦おうとしていた。

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