「待合室の数分間 あるいは現代異能バトル主人公系の先輩と、どこにでもいる普通の後輩」

「待合室」「王」「ガムテープ」




 文化祭の、前日になってしまっていた。


 事前の準備も佳境である。この日ばかりは手伝わないわけにもいかず、ガムテープを片手に教室を徘徊する羽目になった。担当外の仕事とはいえ、内装に少しでも人手が要るのだと請われ、見捨てられるほどにわたしは薄情じゃない。

 ようやく高校を出ると、すっかり陽は落ちていた。

 級友たちを待つこともなく、足早に通学路を逆行する。今日を逃せば機会はない。待ち人がそこにいることを祈りながら、制服の群れを搔き分けるように道を急ぐ。

 駅が視界に入ってくると、否が応でも緊張が走る。高鳴る胸を鎮めるように、少しだけ歩速を緩めた。

 改札を抜ける。

 ホームはひどく混み合っていた。ほんの数分ほど前に電車が来ていたはずなのに、とてもそうとは思えない。次に来る電車の時刻を確かめつつ、人波のなかを縫うように目的の場所に辿り着く。


 待ち人の姿はあった。

 とりあえず、ひと安心だ。

 ゆっくりと深く呼吸して、待合室の扉を開く。

 ひと気の少ない室内で、ぽつりと座る人影に声をかける。


「こんばんは、先輩」

「やあ」


 いつもと同じ、落ち着いた声音。

 いつもと違うことを話題に挙げるつもりのわたしは、とても落ち着いてはいられない。



 先輩と出会ったのは、数ヶ月前のこと。わたしが高校に入学してから、一月が経ったころ。


 その日のわたしは、精神的に不安定だった。


 今となっては、理由は思い出せない。取るに足らないことで悩んだのだろうか。喉元を過ぎて熱を忘れたのだろうか。大切なはずのあの日の記憶は、妙におぼろげだった。

 悲しかった、ような気がする。怯えていた、ような気もする。畏れていた、のかもしれない。原因も心理も明確に記憶してはいないけれど、確か──駅のホームを歩いていて、限界を感じたのだ。

 いくつかの学校の最寄りを兼ねるこの駅は、たいてい混雑している。情緒の安定していなかったわたしにとって、その人混みは堪えがたいもので。


 どうしようもなく──ひとりになりたかった。

 そうして迷いこんだのが、この待合室だった。


 大混雑の駅のホームのなかで、不思議なほどに閑寂とした。

 異界のような静けさに満ちた場所で、先輩に出会ったのだ。


 彼はわたしを、消極的に慰めてくれた、ような感覚が残っている。何かを聞き出すわけでもなく、何かを語り掛けるでもなく、ただ傍にいてくれるだけの優しさ、のような。泣き疲れてしまったからか、どうも記憶は曖昧だった。


 それでも。あの待合室と先輩のことは、間違いなく心に刻まれていた。

 帰りの電車が来るまでの、ほんの数分を待合室で過ごすようになったのは、その日からだ。


 何度訪れても、不思議な場所だった。他の人が中にいるのは、一度も見たことがなかった。そして、いつでも先輩がいる。

 彼の存在が何よりも不可思議であることは間違いがなかった。

 どこの学校のものとは知れない、いわゆる学ランを纏っている彼を、先輩と呼ぶのはその雰囲気ゆえだ。呼び始めたのは、いつからだろう。学生とは思えない物腰と奥深い洞察に、わたしの心の奥底の後輩魂が疼いていた。


 そうして、数ヶ月。


 ありふれた言の葉を交わした。くだらない笑い話を重ねた。つまらない悩み事を聞いてもらった。満ち足りた時間を過ごしていた。

 けれど先輩に踏み込めずにいた。彼がどういう人なのかについて深く尋ねるような質問を、阻む理由がいくつもあった。

 たとえばそれは、学ランの節々に見える擦れたような傷。

 たとえばそれは、夏服の隅に残っている赤黒い色の痕跡。

 たとえばそれは、冬服の袖から覗いて見えた包帯の白色。

 もしかしたら先輩は、わたしとは違う世界の人なのかもしれない。それでも、満ち足りた時間を過ごしていたことに変わりはなかった。

 それはきっと、この待合室だからではなく、先輩と一緒にいるからで。

 だから今日は──今日までには、伝えたいことがあったのだ。



「あの、先輩。今週の、土日って、暇でしょうか?」


 そう切り出すまでに、かなりの時間と心労が要った。

 まるで大切なことを告げるみたいで。本質的にはそのとおりでしかない話題に、どうしようもなく鼓動が加速する。


「今週の土日……って、明日じゃないか。また、ずいぶん急な話だね」

「そう、ですよね。前日に突然言われたら、合う予定も合いませんよね」

「まあ、内容にもよるけれど。どういう用件なんだい?」


 慌ただしい内心を見透かされたように、優しい微笑と問い掛け。その配慮以上に、気を遣わせている事実がわたしを落ち着かせた。


「明日から、高校の文化祭が始まるので。よろしければ、先輩にもお越しいただけないかと」

「文化祭。そっか、そういう時期か」

「クラスでは、一応、喫茶店をやる予定です。わたしも、その、給仕服を着たりとか」

「確かに、興味はあるけれど。でも、おれはきみの学校を知らないんだよね。……いや、一応心当たりはあるか。このあたりの高校で一番可愛いところだったっけ」

「か、かわいい、ですか?」

「いや、制服の話だよ。そういう噂を聞いただけで。……女子校、だよね?」

「で、ですよね。はい、近隣では唯一の女子校、で合っています」

「なるほど。で、土日の予定か。あるといえばあるし、ないといえばないのだけれど……」


 暫しの沈黙。数瞬の逡巡。

 やはり、だめでしょうか。

 そんな弱音を吐きかけて、


「いや、なるべく都合をつけて行くよ。せっかくの、可愛い後輩の頼みなんだし」


 そう言って微笑む先輩に。

 わたしは、心底から──、


「……はい、ありがとうございます!」



 文化祭、当日。

 わたしのクラスでは、魔王様カフェなるものが催されていた。

 どうしてそんな胡乱な案が通ったのか、まるでわからないうちに。誰かの陰謀が疑われるほど、いつの間にかのことだった。

 聞くところでは、日曜朝の番組に触発された何者かの仕業であるらしい。実際のところは定かではないけれど、教室を飛び交う口上は確かな現実だ。


「おかえりなさいませ、我が魔王様!」

「祝え! 新たなる王の来訪を!」


 嬉々とした前向きな声も聞こえるし、やけっぱちと思しいものもある。奇妙な文脈が支配する空間は、文化祭という状況も相まって、とても非日常だった。

 正直なところ、わたしも楽しんでしまった。給仕服を身に纏い、魔王様を出迎えること。劇中の食に因むらしい商品を給仕すること。普段なら気恥ずかしくて表に出せない言葉も愛想も、日常とはかけ離れた感覚に許されている気がした。


 それでも心の片隅で、先輩のことを想っていた。


 新たな客が訪れるたび、「祝え!」の声が響くたび、慌てて視線を向けていた。勤務時間が終わっても、僅かな自由時間にも、緊急事態の補欠と称してクラスの近くをうろついていた。実際にちょっとした事故が起こるたび、無心で対応しながら心が楽になる自分がいた。


 異界の時間の流れは速い。

 非日常が終わるのは早い。



 土曜日が終わっても、先輩は来なかった。



 日曜日が終わっても、先輩は来なかった。



 文化祭の片づけが終わった、月曜日。

 非日常をあとにして日常へ戻った日。


 帰る途中で立ち寄った待合室には、いつものように先輩がいて──いつもと違う、沈んだ表情だった。


「……ごめんな」


 その言葉で、理解する。表情の沈痛は、罪悪感ゆえだと。

 そう思われるのは、本意ではなかった。


「大丈夫です。気にしてません、そこまでは。もともと、予定を片づけたら来られそう、みたいなお話でしたし」


 ちょっとだけ、悲しかったのは本当だけれど。

 先輩を待っている間の、期待と失望が入り混じった苦しさは──彼を沈ませてしまうくらいなら、嘘にしてもよかった。

 だから努めて、いつもどおりに。先輩を苦しめないような、穏やかな表情を。


「そもそも、男性の先輩を女子校に誘ったわたしも悪いですし。それでおあいこ、ということに──」

「……違うんだ」


 釈明は、遮られた。


「行けなかった、わけじゃない。学校には足を運んだ。女子校、という環境に気後れしたのも確かだ。でも、中に進むくらいはできた」

「…………」


 先輩の表情は、変わらない。依然として沈痛としたそれは、罪悪感だけではなくて。もっと根深い、孤独のような──?


「クラスの場所は聞いていた。その手前まで、行きはしたんだ。でも、けれど……悪い」


 彼の瞳が、わたしを映す。まっすぐな視線はどこまでも、悲しいほどに誠実で。その意味は、わたしには。


「これは本当に、おれの身勝手だ。別にきみが悪いわけじゃない。あの教室に入らなかったのはおれの責任で、本当に申し訳ないと思っている。でも、だけど──」


 少しだけ、言葉を濁して。

 見たことのない表情で、先輩は言う。


「どうしても、ぼくは──きみにだけは、『魔王』なんて呼ばれたくなかったんだ」


 その発言の、意味は。

 わたしには──わからなくて。


 先輩は、微笑んでいるはずだ。こちらを思いやってくれる、いつもと同じ、優しい笑顔の、はずなのに。その瞳が湛えている悲哀が、何よりも不可解だった。


 先輩が、背を向ける。

 待合室を去っていく。

 それをただ、呆然と見送っていた。


 何もかもがわからないまま、途方に暮れる。

 知らずのうちに頬を伝う涙が、先輩とわたしは違う世界の住人なのだと、どうしようもなく知らせていた。



 先輩が抱える事情にわたしが巻き込まれてしまうのは、もう少し先の未来の話だ。





   ※





 魔王に選ばれたその日から、彼の日常は失われていた。

 家にいても、押し掛けてきた臣下の少女が「魔王」「魔王」と騒がしい。

 学校に通っても、新たなる王の座を狙う異能者が「魔王」「魔王」と鬱陶しい。


 唯一の間隙が、あの待合室だったのだ。


 魔王として慕われることも、命を狙われることもない。

 因縁からも死闘からも離れた、ごく普通の学生でいられる。


 後輩の先輩でいられるあの場所が、どれほど彼の救いだったか。


 ──なんてきっと、伝わっていないだろうし。

 彼女にだけは、伝えられるはずもなかった。


 どこにでもいる普通の後輩を巻き込んでしまったら。

 その瞬間からきっと彼は、魔王でしかいられなくなるだろうから。

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