第27話 ニルヴァーナ

 その夜、私は旅行鞄に着替えや身の回りの物を詰め込んだ。今度の碧海時空行きは長期になる可能性があるとのことで、鞄はぱんぱんになった。

 翌日の午前中は大学のゼミである。いつものように学生たちが激しい議論を闘わせているのを見るのは気持ちがいい。

 ゼミが終わると、ゼミ生の岩田愛華君がやってきた。

 「昨日の夜、ネットで観ました。真田幸村と片倉小十郎が機関銃で攻撃されるのを・・・」

 私は旧・日本軍の軍服を着た兵隊の映像を、京都ブロードキャストを通じて流すことを許可した。その映像は世界を戦慄させた。旧・日本軍の亡霊が碧海時空に現れたと世界のマスコミは伝えていた。国連時空監視委員会は、この事態を重く見て外務大臣・河本次郎を召喚して事情を聴くことにしたことも、朝のニュースになっていた。

 岩田愛華君は心配そうな面持ちだ。日本の事が心配なのか?

 「いえ、幸村と小十郎が心配なんです。」

 そういえば、こいつも戸部典子の同類だったな。

 「先生、行くんですね、碧海時空へ。」

 ああ、今日の昼から舞鶴港だと、私はうっかり言ってしまった。

 岩田愛華君の顔がぱっと明るくなっって、スマホに何やら文字を入力している。

 スマホから顔を上げた岩田愛華君は、

 「全日本歴女連盟総出で、先生をお送りします。」

 という言葉を残して教室を駆け出していった。

 廊下から聞こえてくるのは、少々はしゃぎ気味に声だった。

 「舞鶴に集合よ! 真田幸村君と片倉小十郎君に、あたしたちのエールを伝えてもらうのよ!」



 ゼミが終わると、私はタクシーを呼んで伏見城へと向かった。

 これで、しばらく現代には帰れないかも知れない。何か旨い物でも食っておこう。私の頭にひらめいたのは天下統一のこってりラーメンだった。

 私は伏見稲荷近くの天下統一ラーメンにタクシーを待たせて、ラーメンを食うことにした。

 戸部典子に連れられて来て以来、私はこってりラーメンにハマっていたのだ。

 このどろどろのスープがクセになるのだ。私は一口一口味わいながらラーメンをすすった。

 しかし、これが数時間後、惨劇を招くことになろうとは、私には知るよしもなかったのである。


 タクシーで伏見城に到着した私を迎えたのは、ヘリコプターの羽が唸るような音を立てて回転している光景だった。

 天守閣から戸部典子が早足にでてきた。中川氏がその姿を見送っている。

 「行ってらっしゃいませ、お嬢様。」

 「中川、城の守りは任せたなり!」

 

 キム博士も天守閣から出てきた。これからヘリで舞鶴へ向かうのだと言う。


 「エアー・ウルフ」か。

 私は子どもの頃観たアメリカのテレビ・ドラマを思い出していた。

 「ジャン・マイケル・ビンセントだったけな。」

 頭の中に、あの勇壮なメロディーが流れてくる。


 「先生、あたしたちは一番機で行くなり。」

 おお、この大型ヘリか。キム博士がファクトリーの隊員たちが続々乗り込んでいるではないか。私と戸部典子、それからキム博士とシステムのオペレーター五人も一番機に乗り込んだ。

 「舞鶴までは約三十分なり。今日は気流が荒れているのだ。揺れるからシート・ベルトはしっかりしておくなりよ。」

 わかった。三十分か、あっという間だな。


 ヘリは羽音を立てて空に舞い上がった。私たちの後を追うように二機のヘリも離陸した。

 京都盆地が眼下に見える。ヘリは丹波の山々を越えて日本海へ向かうのだ。

 気流にあおられたヘリは、ひどく揺れた。大江山を見下ろす頃、私は気分が悪くなっていた。乗り物酔いだ。

 「先生、もう少しなのだ。頑張るなり。」

 戸部典子が励ましてくれるのはいいのだが、もう吐きそうだ。せめて静かに見守って欲しい。


 ダメだ!

 私が田中隊長に視線を送ると、紙袋を手渡してくれた。

 もう限界だ!

 スリー、ツー、ワン、発射っ!

 私はゲロを紙袋にぶちまけたのだ。

 これですっきりした。

 だが、惨劇はそれで終わらなかった。

 天下統一のこってりラーメンのゲロが異臭を放ち出したのだ。

 「臭いなり!」

 戸部典子の悲鳴にも似た叫びは、ヘリのローター音を打ち消すほど凄まじいものであった。

 戸部典子とキム博士が鼻をつまんでいる。鼻をつまんだまま恨みがましい目で私を睨みつけているのである。

 だがよかった。ヘリが着陸した。

 戸部典子とキム博士は真っ先にヘリを脱出した。

 ゲロ袋を左手に下げてヘリから降りた私を、二人はエンガチョ・サインで迎えたのだった。

 戸部典子はそれ以来、天下統一のこってりラーメンが二度と食べられなくなったと言ってさめざめと泣き、生涯にわたって私を責め続けることになる。


    *    *    *    *    *


 舞鶴港である。

 京都府の日本海側にあるこの街は、古くから軍港の街であり、今も海上自衛隊が基地を置いている。

 岸壁に接岸した軍艦がニルバーナを積んでいるらしい。

 「田中隊長、これはイージス艦というかね?」

 「イージス艦というのはイージス・システムを搭載したふねのことをいいます。このふねは自衛隊のイージス艦に似ていますが、システムを積んでいるかは分かりませんね。巡洋艦クラスのふねには間違いないですがね。」

 私たちの会話にキム博士が割って入った。

 「この艦は、イージス艦をベースに新しい機能を組み込んだ『時空揚陸艦』なんです。」

 時空揚陸艦だと!

 「つまり、このふねそのものがタイムマシンなんですよ。」

 ふねごと碧海時空に行けるのか?

 「そうです。時空揚陸艦ニルヴァーナは、亜空間ドライブを搭載した新型タイムマシンなんです。」

 つまり、これでタイムマシンの運搬容量の問題を解決したわけか。これまでの銀色の球体のタイムマシンはせいぜい十数名しか運べなかった。ニルヴァーナで百名近いファクトリーの隊員と様々な装備を運ぼうというのか。

 「そうです。ふねには汎用型ヘリ・ガルーダも搭載しています。海から空から碧海時空での支援が可能です。」

 これがアフリカの小国、ムガンダ海軍の所属なのか。

 「ええ、けもの財団の資金を投入して建造されましたから、私たちのふねでもあります。世界でただひとつのふねですよ。アメリカもロシアも中国も持っていません。」

 キム博士の口調はうれしげだった。

 驚いた。しかし、岩見獣太郎はいったい何を考えてこんな化け物を作ったんだろうか。


 私たちがニルヴァーナに乗り込み、出航の準備をしていると、岸壁をうろうろしている女性たちの集団がいることに気付いた。

 岩田愛華君の姿が見える。あれが全日本歴女連盟か。さっきからどんどん数が増えて百人を越えているぞ。

 その姿を見た戸部典子は、こそこそと隠れている。

 「げっ、全歴連のお姉さま方がいるなり。逃げるなり。」

 けもの財団の大いなる力を手に入れ、政治家にも物申す戸部典子ではあったが、全歴連においては下っぱのパシリなのである。

 岩田愛華君が艦上の私をみつけたようで、女性たちの集団がニルヴァーナが接岸している岸壁まで走って来た。

 全歴連のお嬢さんたちは「全歴連は真田幸村殿と片倉小十郎殿を応援しています」という横断幕を掲げ、時の声を上げた。


 えい、えい、おー、えい、えい、おー


 ニルヴァーナはお嬢さん方の歓呼の声に送られて舞鶴港を出港した。

 陸地がどんどん遠ざかり、ふねは冠島の沖合へ出た。



 一月の日本海は波が高い。

 また酔ってしまいそうだが、さっき全部吐いたから胃袋はすっきりしている。


 ニルヴァーナは日本海を北上しいる。

 私たちは艦橋ブリッジに入いった。艦橋ブリッジには前方にメイン・モニターのような大きな窓があり、そこから海が見渡せた。

 艦長のユアス・ンドゥール大佐が挨拶に現れた。

 真っ黒の顔をしたこの大男がムガンダ海軍の艦長なのだ。

 ンドゥール艦長はたった五人でニルヴァーナをアフリカから極東まで回航させたという。全てがコンピューターによって制御されているため、最低限の人数で航海ができるらしい。

 艦長以下、五人の乗員たちはみんな黒色人種ネグロイドである。人類発祥の地アフリカで世代を重ねた黒色人種ネグロイドは最も高い遺伝的多様性を持っていると言われる。つまり、私たちホモ・サピエンスの故郷はアフリカなのだ。

 長く西欧諸国の植民地だったアフリカ諸国も二十世紀に独立を達成し、二十一世紀には経済的発展が急速である。二十二世紀はアフリカの世紀になるだろうと予測されている。これも諸行無常だ。

 艦長は流暢な日本語を操る。ビースト・コンツェルンの企業城下町のようなムガンダでは日本語は広く学ばれているのかと思ったのだが、艦長は違うと言う。

 「日本のアニメで憶えたんですよ。」

 ムガンダはオタクの国であったのだ。

 私がンドゥール艦長に敬礼すると、艦長も海軍式の敬礼で応えた。海軍式の敬礼は脇をしめて垂直に行うのだという事を私は初めて知った。狭い艦内では肘が出っ張らないようにするのだという。


 戸部典子が艦橋ブリッジの艦内マイクを握り、乗組員に告げた。

 「本日、一七:〇〇ひとななまるまるを以て、ファクトリー隊員及びシステムのオペレーターはムガンダ海軍の所属となったなり。総員、階級章を着用せよなり。繰り返す、総員、階級章を着用せよなり。」

 戸部典子も胸に階級章をつけた。階級は少佐である。

 おまえ、少佐でいいのか?

 「少佐って呼ばれるのが、いちばんカッコいいなり。だから少佐にしたなり。」

 まったくもっていいかげんな理由だが、作戦遂行中の戸部典子は「少佐」と呼ばれることになる。



 ニルヴァーナは日本海の沖を航行中である。陽は水平線に消えようとしている。


 「二時の方向、船影なし!」

 「六時方向、船影なし!


 ファクトリー隊員たちは三百六十度の船影を確認している。

 周りに船影は見当たらない。


 「キム博士、亜空間ドライブなり。」

 戸部典子の指示で、キム博士がブリッジの中央に進み出、システムの五人のオペレーターが時空転移システムの席に着いた。


 「亜空間フィールド起動!」

 キム博士の指示でスタッフたちが次々にスイッチを入れていく。

 タイム・ホイールじゃなかったっけ?

 私がいぶかっていると、艦の周囲の海水が一斉に吹き上がったのである。

 何だ、何だ、何が起こっているんだ。

 海水は艦の上にまで到達し、艦全体を包み込んでいく。そしてニルヴァーナはゆっくりと浮上を始めたのである。

 もしかして、空飛ぶ船か?

 海上十メートルまで浮上したニルバーナは球状になった海水に守られるように空中に浮遊している。

 「デス・ドライブ!」

 キム博士が叫ぶと、球状に幕を巡らしていた海水が落下し、ニルヴァーナは空を突き破るように飛んだ。

 艦橋ブリッジの窓は真っ暗になり、何も見えない

 この時、自衛隊舞鶴基地の海上レーダーは、日本海を航行していた一隻の軍艦が突如、消滅した事を記録している。


 キム博士、ここは何所だ。

 「亜空間です。僕たちの時空と碧海時空を最短でつなぐ、言ってみれば時空のねじれの隙間みたいなものです。」

 何のことか、さっぱりわからんぞ。

 「要点だけ言いますと、これまでのタイム・ワープは時間を移転できても、空間は移転できませんでした。上海を出発したタイムマシンは上海にしか着陸できませんでした。デス・ドライブ・システムは何所にでも着陸できます。ニルヴァーナはこのままオホーツク海に着水する予定です。」

 なんと、これがキム博士が開発したタイムマシンだと言うのか。

 「僕だけじゃありませんよ。ニルヴァーナの基本設計はダルがやりましたから。ニルヴァーナは僕たちの愛の結晶でもあるんです。」

 ノロケはもう聞きたくないぞ。


 「キム博士、亜空間を出ます。」

 オペレーターがキム博士の指示を仰いでいる。

 「了解、デス・アウト!」


 ブリッジの窓が急に明るくなった。

 電磁波のような球体に包まれたニルヴァーナは十メートルの空中に浮いている。

 そして、ゆっくりと降下し始めたのある。

 「ニルヴァーナ、着水します。」

 艦は少し揺れたが、静かな着水だった。


 十月のオホーツク海は鈍色にびいろの厚い雲の下にあった。

 私と戸部典子は、艦橋ブリッジの窓に顔を寄せるようにして陰鬱な空を見上げた。

 空からは白い妖精が降りてきて、妖精は仲間を集めて海の上を舞った。

 呆けたような顔で妖精たち見つめる戸部典子に、私は言った。


 「戸部典子君、雪だ。」



         第一章「北の埋み火なり」 完






 



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