第5話 けもの財団
岩見獣太郎。私たちの年代で、その名を記憶していない者はいない。
私がまだ小学生の頃である。
東京上空を飛行するセスナ機が突如急降下を開始した。セスナ機は一直線に東京都世田谷区の大豪邸に墜落し炎上した。その白い翼には刻まれた「天誅」の赤い文字は、少年だった私の記憶にこびりついている。
この大豪邸の
セスナ機の操縦席で死亡していたのは井原誠。当時、彼の思想的背景が取りざたされたが、右翼団体や暴力団との関係は一切なく、彼独自の国粋理論に陶酔したあげく、日本の政界を影から操っていたとされる岩見獣太郎に特攻を仕掛けたのである。
皮肉なことに、岩見獣太郎は特攻隊の生き残りだった。
彼は東北地方の豊かな農家の三男坊として生まれた。家は豊かであっても三男坊が一銭たりとも財産を相続することは無い時代である。学業優秀であった彼が選んだのは軍人の道だった。
やがて太平洋戦争が始まり、海軍に所属していた彼は戦闘機のパイロットになり、戦争の末期には特攻隊に選ばれていたのだ。
彼には国家のプロパガンダの嘘を見抜く賢さがあった。彼は日本の敗戦を予測していた。ただ、負けると分かってなお命を懸ける生きざまを美しいと思った。
美しいもの。そこにすべての価値を見出そうとしていたのだ。
彼の特攻機が離陸する寸前、戦争が終わった。その時、彼の胸中がいかばかりであったか想像する由も無い。
戦後のどさくさのなか、大阪の焼け野原に現れた岩見獣太郎は闇屋となっていた。
(特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。)
坂口安吾、「堕落論」の一節である。
彼は闇屋同士の抗争を勝ち抜き、大阪の地で一大勢力を築いていった。おそらく、弱いものを踏みつけ、邪魔者を殺してのし上がっていったに違いない。
それが、彼にとって生きることそのものになっていた。かつて美しい死に憧れた彼は、けもののように生に執着した。
安吾は言う。
(人間は生き、人間は墜ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。)
大阪でひと財産を蓄えた岩見獣太郎が東京へ進出した頃、朝鮮戦争が勃発した。進駐軍に接近した彼は、アメリカ軍への軍事物資の調達で巨大な資産を築いた。
彼はその資産を事業の拡大に注いだだけでなく、政治を動かすことにに使った。政治家たちは彼の資金力に群がり、岩見獣太郎は政商と呼ばれるようになった。
そして東西冷戦の時代、彼はいくつもの会社を設立し、アメリカにもソビエトにも軍事物資を流しはじめた。その中には武器も含まれていたといわれる。日本の商社が武器を売買することはできない。彼はビースト・コンツェルンを立ち上げ、拠点を海外に移した。
巨万の富を築いた岩見獣太郎は、セスナ機の特攻事件の後、表立って姿を現さなくなっていた。
会社の経営から引退したとの噂が流れた。噂の真偽はともかく、彼の内面に変化があったことは間違いない。
彼は通称「けもの財団」こと「岩見獣太郎記念財団」を設立したのだ。財団設立の目的は「あるべき日本の姿を取り戻す」ことだと言う。
あるべき日本、美しい国・・・
地位と名誉、富と権力を手に入れた彼の中には、それ以外の何物かへの激しい渇望があったのだと私は推測する。
ただし権力者が過剰な道徳や倫理を指向した場合、たいていの場合ろくな事にはならないというのが私の持論だ。
彼らが理想を唱えるとき、必ず欠けているものがある。それは知性である。
岩見獣太郎は「美しい日本」を取り戻すために、日本教団の設立に協力した。
そして、日本教の布教に資金を提供したのが、「けもの財団」であると言われている。
ならば、けもの財団は、私たちの敵ではないのかね。
「けもの財団が日本教を作ったのは知らなかったなり。じっちゃんはそんな事ひとことも言ってなかったなり。」
確かなことは分からないが、そういう噂があるんだ。ただ、これが本当だとすると日本教団とまほろば作戦は双子の兄弟ということになる。岩見獣太郎の意図はなんなんだ。
そう言う私に、戸部典子は答えた。
「明日、じっちゃんから直接聞くことなりね。」
岩見獣太郎に会えと言っているのか。
ならば、私がこの目で、けもの財団の真実を突き止めてやる。
* * * *
翌朝、戸部典子が車で迎えに来るということなので、私はマンションの玄関で待っていた。捻挫の痛みは引き始めていたが、湿布と包帯で足首はしっかりと固定した。
爽やかな朝である。昼過ぎにはまた暑くなるそうだが、私たちが目指すのは京都府美山町、丹波の田舎である。都会に比べて涼しいはずだ。
黒塗りの大型車が現れた。レキサスか・・・、金持ちの乗る、何の知性も感じさせないような低俗な高級車だ。
しかし、このレキサスの運転席は無人なのである。
無人の車が私に向かって猛然と突入してくるのだ。
私はスピルバーグの「激突」という映画を思い出した。
ヤバイ! 私を狙う組織のモノか!
と、思ったら、レクサスは私の前で静かに停車した。ドアが開いて、中からでてきたのは戸部典子だった。黒い車から黒いパンツ・スーツの女が現れる。まるでメン・イン・ブラックだ。
なるほど、ちっこい戸部典子が大型車の運転席にいたから見えなかったわけだ。
「先生、おはよーございますなり。」
やれやれだ、朝から人騒がせな奴だ。
車は五条通りから国道九号線へ、そこから京都縦貫道に乗るのだ。
ところが、どういうわけか車は山道に迷い込んだみたいだ。
「先生、ここが老ノ坂なりよ。明智光秀はここで反旗を翻すのだ。『敵は備中にあらず。本能寺にあり!』っていう処なり。」
頼山陽の引用だな。まさに天下を分けた坂だ。
だが、なんで老ノ坂を登っているんだ、戸部典子君、さては高速道路に乗り損ねたな。
「違うなり。先生を老ノ坂に案内しただけなのだ。」
何もないただの山道だ。のたのたと走るものだから後ろに車が詰まり始めているぞ。いっそ、私に運転を代われ。
「捻挫なのに運転して大丈夫なりか?」
確かに、お前のせいでなにもかもがこのありさまだ。
車は亀岡に入ってから京都縦貫道に乗り、飛ぶが如く山中を駆け抜けた。丹波インターで高速を降りたあとは、草深い田舎道が続く。
実りをつけた稲の穂が秋の日差しを浴びて輝やき、豊穣の大地を由良川が縫うように流れている。美山町には鉄道も高速道路もない。経済的な発展から取り残されたような田舎ではあるが、もし日本の美しさというものの平均値をとってみれば、こういう風景になるのではないかと思った。いや、中世や近世の美山町は、丹波街道や北陸街道へ通じる交通の要衝だったと考えたほうがいい。ここは日本でも有数の豊かな土地だったに違いない。
京都の奥座敷に、このような別天地があることを私は知らなかった。
「野々村仁清はこの地で生まれているなり。」
戸部典子がぽつりと言った。
野々村仁清、十七世紀の陶工で、色絵藤花図茶壺は国宝に指定されている。美山町は日本の芸術の原風景なのだ。
こんなところに岩見獣太郎は住んでいるのか。
「そうなりよ。世捨て人みたいなものなりよ。」
戸部典子がハンドルを切ると、車は山あいの小道に入った。そこから一キロほど走ったところに、高い塀に囲まれた田舎風の屋敷があった。平屋建の母屋の周囲にはいくつもの離れ座敷や小屋が立ち並んでおり、庭は畑になっていた。
邸内には、どこを見ても作業服を着た男たちが野良仕事をしている。農家の風景に溶け込んではいるが、きっとボディー・ガードなのだろう。
母屋から腰を低くして現れたのは、作務衣を着た老人だった。
老人は、岩見家の家宰である。名を中川清吉といった。
中川氏の案内で母屋に入った。母屋は何の装飾もない粗末な作りになっていた。
座敷に通された私と戸部典子は、そこでしばらく待たされた。
座布団の上に胡坐をかいたのだが、足が少し痛む。
座敷の縁側からは山々が見えた。いや、山しか見えないというべきか。
中川氏が、車椅子を押して現れた。車椅子に乗った痩せこけた老人が岩見獣太郎氏その人であることは疑う術もなかった。老人は粗末な作務衣を着てる。
岩見獣太郎は中川氏の手を借りて、車椅子を降りた。座布団の上に正座したのだが、辛そうにしている。百歳近い老人が背筋を伸ばして座っているのだ。
岩見獣太郎は、手をついて深々と頭を下げた。
「この度は、遠いところをご足労願い、ありがたく、まことにありがたく存じます。先生にお会いできたこと、そして『まほろば作戦』をお引き気受けいただいたこと、感謝の念に堪えません。」
喉の奥から絞り出すようなか細い声だった。
これが、日本の黒幕と呼ばれた男なのだろうか。その男が私のような人間に頭を下げているのである。
岩見獣太郎は続けた。
「わたしは沢山の間違いを犯してきました。わたしの人生そのものが間違いであったといえましょう。特攻隊となり闇屋となり、果ては武器商人です。私のためにどれだけ多くの人が死んだか見当もつきません。わたしは償おうとしました。わたしが愛してやまないこの国を、美しい姿にしたかった。けれどそれは、わたしの傲慢に過ぎませんでした。わたしの最大の間違いは、あの悪魔の宗教を生み出してしまったことです。日本教は亡国の教えです。彼らはわたしの過ちを繰り返すことになるでしょう。その果てに行きつくのは、わたしの仲間たちが命を散らした戦争でしかありません。先生、日本教団を止めてください。願わくば、この地上から葬り去ってください。なにとぞ、なにとぞ、伏してお願い申し上げます。」
それは老人の悲痛な叫びであった。それと同時に、権力を欲しいままにしてきた男の勝手なたわ言でもある。
私は腹がったって仕方がなかった。世界を動かしてきたのが、こんな知性のかけらも無い人間だということがただただ腹立たしかった。
私は岩見獣太郎に言った。
「あなたがどうであれ、私は日本教団を止めます。そして私には、いや、私たちにはあなたを非難する権利がある。あなたのような人間を国賊というのです。非国民とはあなたのような人のことをいうのです。いや、人類の敵、そして自由と平和の敵です。」
どれだけ言っても怒りは収まらなかった。
私は激高し「あなたは生きていてはいけない人間です」と言ってしまった。
さすがの岩見獣太郎も愕然として崩れ落ちた。
中川氏が庇うようにして、私の前に割って入った。
「お許しください、お許しください。旦那様にもそれなりの理由があったのです。どうか先生、お許しください。」
私は我に帰った。私の前に跪いているのは百歳近い老人である。哀れな、そして無知な老人である。私は押し黙らざるを得なかった。
だが、その時、戸部典子が立ち上がったのだ。戸部典子は岩見獣太郎に歩み寄り、哀れな老人を蹴飛ばしたのである。
「あたしも、だんだん腹が立ってきたなり。」
蹴り倒され、畳の上に転がった岩見獣太郎は、呆然として戸部典子を見上げている。
戸部典子は、宇宙の深淵を覗き込んだような空虚な目をしていた。
下らない、あまりにも下らない一人の男の思い上がりが、多くの人々を苦しめ死に追いやってきたのだ。
「帰るなりよ。」
その一言を残して、戸部典子は廊下をずんずん歩いていく。
私は戸部典子を追いかけた。
岩見獣太郎と中川氏は、畳に頭をこすり付けたまま私たちを見送った。
「なにとぞ、なにとぞ、お願いいたします。」
私たちに追いすがるように聞こえてくる岩見獣太郎の声は、地獄の底から響いてくるようだった。
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