第6話 マルチ・バース

 岩見獣太郎邸を後にした車の中で、戸部典子は無言だった。

 陽は西に傾き、稲穂が風に揺れている。車は田舎道をゆっくりと進んだ。

 コイツが何もしゃべらないと妙に居心地が悪い。かといって、私から話しかける理由もない。いつもの下らない会話をする場面でもないしな。

 由良川に架かる小さな橋を渡ると、道の駅のような農産物の直売所があった。戸部典子はハンドルを切って直売所に車を停めた。

 車から降りると、香ばしい匂いが漂ってくる。鮎を焼いているのだ。

 「由良川の鮎を食べるなり。」

 戸部典子はぶっきらぼうに言って、鮎を焼いているおじさんのところに近づいていった。そしていきなり串刺しの鮎の塩焼きを三本買ったのだ。その一本を私に差し出すと、彼女は勢いよく塩焼きに食らいつき、瞬く間に二尾の鮎を胃袋に収めてしまった。戸部典子は、腹が立つと腹が減るたちなのだ。

 鮎の塩焼きなんか食うとビールが欲しくなる。

 「あたしは車を運転してるからビールは飲めないなり。」

 私は運転しないから飲んでもいいか?

 「絶対、一人だけ飲むのは許さないなり!」

 そう怒るな。しかし喉が渇いたな。

 「美山牛乳があるなりよ。」

 戸部典子は直売所から牛乳瓶を持って出てきた。私たちは牛乳を飲んだ。左手を腰に当てながら天を仰いで一気に飲み干した。

 おおー、こんな旨い牛乳は初めて飲んだ。

 「混ぜ物を一切していないのが美山牛乳なりよ。それに新鮮なのだ。」

 戸部典子の顔ににまにまが戻ってきた。新鮮な空気のなか、鮎の塩焼きで腹を満たし、美山牛乳で渇きを潤す。こうした田舎ならではの贅沢だ。

 「もう一本飲もう!」というと、戸部典子は一ダースの牛乳瓶の入ったケースを買ってきたのだ。

 こんなには飲めないぞ。

 「飲めない分はお土産にするなりよ。」

 なるほどな、と思いながら、私はケースから二本の牛乳瓶を取り出した。

 「飲みすぎるとお腹壊すなりよ。」

 私は戸部典子の静止を聞かずに、牛乳をがぶ飲みしてしまった。

 旨い。五臓六腑に染み渡るような牛乳である。



 牛乳が祟ったのか、その翌日は下痢気味だった。

 捻挫やら下痢やら、戸部典子といるとろくな事がないのだが、そうも言ってはいられない。

 作戦本部には、李博士から碧海時空の調査報告書や映像が大量に届いていたのだ。

 私たちが碧海作戦を離れてから、二年になろうとしていた。あれからテレビのニュースやワイドショーで碧海時空が報道される事も次第に少なくなっていった。

 私は中国で発表される様々な論文には出来るだけ目を通すようにしてきたつもりだ。離れてなお、私たちが創ってしまった歴史を忘れ去ることはできなかったのだ。


 一六四三年、三代皇帝・織田信政が崩御し、皇太子・織田信光が即位し四代皇帝となっている。信光の母は愛新覚羅家、つまりは満州の出だった。

 宰相であった愛新覚羅ヘカンは同族から最も優秀な才女を選び、皇帝織田信政に側室として差し出していたのだ。ここで織田の血と愛新覚羅の血が交じり合う。かつて中華の覇権をかけて争った遺伝子が織田信光によって結集したのだ。

 織田信光は日本と満州のハーフであり、初めての中国生まれの皇帝であった。母語は中国語であったが、日本語や満州語も話せた。

 彼は生まれながらにしての中華皇帝であることを誇りとし、太祖・織田信長の再来であると宣言した。その才能は信長に及ぶべくもなかったが、風格と才気において皇帝にふさわしいものであった。

 宰相、愛新覚羅ヘカンは既にこの世に無く、副宰相の大河内信綱が宰相に地位についていた。織田信光は信綱を宰相というよりも相談役のようなポジションに置き、政務に関しては評議衆と呼ばれるシンクタンク集団に任せている。評議衆には帝国から集められた優秀な人材が登用され、日々、政策の立案と実行にあたっていた。

 帝国はもはや皇帝や宰相が独裁的な手腕を振るうことができる段階ではなく、組織そのものが細分化していたのだ。

 帝国はさらに経済的な発展を続けていたが、領土を広げることはなかった。周辺の国々は中華帝国の冊封下に入り、属国となっていったからだ。属国とはいえ、国々には独立した主権があり、重要な外交以外に帝国が口出しすることは無かった。

 属国は帝国に朝貢、つまり貢物を捧げるのだが、宗主国はその何倍ものお土産を持たせて返すのだから、美味しい朝貢貿易ができるのである。


 織田信光は即位と同時に、かねてからの母の願いを聞き入れ満州を独立国として認めた。これにより愛新覚羅を王とする満州王国が誕生し、愛新覚羅フリンが王となった。フリンはヘカンの子であったが六歳の少年であり、叔父のドルゴンが摂政となった。

 四代皇帝は満州の独立で領土を縮小し、コンパクトで効率の良い帝国を目指していた。版図が大きすぎると、統治にかかるコストも大きくなる。

 周辺国を冊封体制によって支配下に置きつつ、経済的な収益を帝国に集めるのである。東南アジアは既に帝国の冊封下にあり、西欧はもとよりインドのムガル帝国や中東のオスマン帝国とも貿易を行っていた。

 つまり、貿易の富は南方・西方にあったのだ。帝国の目は常にここに向けられている

 満州王国の独立も、帝国が北方に対して無関心だったからこそである。

 


 「不思議なり。あたしたちの時間の一年で碧海時空は半世紀くらい生成するはずなりよ。二年弱だから、もう十八世紀になっているはずなのだ。」

 そうだよな。私も変だと思うぞ。

 「ここは時空工学のキム博士に訊いてみるなり。」


 「よろしい、僕からご説明しましょう。」

 わー、びっくりした。キム博士は何時から私の背後にいたのだ?

 「さっきから先生と戸部指令の話をずっと聞いてたんです。歴史の話は面白くて、つい・・・」

 キム博士、あなたは理系の人ですよね。歴史に興味があるんですか?

 「だから言ったじゃないですか。僕は先生の大ファンだと。尊敬申し上げてますよ、せんせい。」

 こういう事を臆面もなく言うのがキム博士の悪い癖だ。まぁ、歴史に興味を持っていただけるのは悪い気はしない。


 それから、もうひとつ気になることがある。

 戸部典子君、君は「指令」なのかね?

 「そうなり。あたしが『まほろば作戦』の司令官なりよ。」

 柄でもない肩書だな。にまにま司令官だ。


 キム博士は人差し指を立てながら、スカした顔をして話し始めた。

 「では、宇宙というものについて、できるだけ簡単にご説明します。」

 宇宙について説明だと・・・

 「僕たちの宇宙は百三十億年前にビッグ・バンによって誕生しました。宇宙はその後も膨張し続けています。」

 文系の私でもそのくらいの事は知ってるぞ。

 「では、その膨張する宇宙の外側には何があるのでしょう?」

 いかん、文系の思考はここでストップだ。

 「宇宙の外側には、私たちの宇宙と同じような宇宙が無数にあるのです。それらの宇宙は、僕たちの宇宙の別の可能性だったと考えてみて下さい。」

 別の可能性? まるで碧海時空みたいだな。

 「そうです。ここに赤と黒のボールペンがあります。僕は赤のポールペンを選びましょう。でも、僕が黒のボールペンを選んだ別の可能性の宇宙が存在しているのです。」

 つまり、碧海時空というのは遠い宇宙の果てにあるというのか?

 「うーん、距離で考えてしまうとイメージが固定されてよくありません。次元というのは重なっていたりするものですから、僕たちのすぐ隣にあるとも言えます。」

 もう、ついて行ってないぞ。


 私が頭をフル回転させているところに、戸部典子が口をはさんだ。

 「そういえば『ファラウエイ・ソー・クロース』って映画があったなりね。」

 知ってるぞ。ヴィム・ベンダース監督の作品だ。名作「ベルリン天使の歌」の続編映画だ。邦題は「時の翼に乗って」だったっけ。「ファラウエイ・ソー・クロース」とは「遠くにあって、近くにある」という意味だ。

 「続編は失敗作だって言われてるけど、あたしはこの映画が好きなりよ。」

 主演のオットー・ザンダーが良かったよな。

 「最高だったなり。」

 映画の話などしているが、戸部典子のにまにま笑いが引きつり始めている。コイツ、理解できないものだから映画の世界に現実逃避しているな。

 

 キム博士は、そんな私たちを無視して無慈悲に説明を続けた

 「じゃあ距離でイメージしていただいて結構です。碧海時空の地球の近くにブラック・ホールのような巨大な重力を持つ天体が発生したようなのです。」

 ブラック・ホールは知ってるぞ。大重力が何もかも飲み込んでしまうのだな。

 「そうです。相対性理論によると、大きな重量の影響下では時間がゆっくりと進むようになります。」

 つまり、碧海時空はブラック・ホールのせいで時間が遅くなって生成が遅れてるのか?

 「大筋としては間違いないですね。ところが、このブラック・ホールは大きくなったり小さくなったりするようなのです。」

 何故だか分からないが、分かったことはこうだ。重力の影響で碧海時空の時間が遅くなったり早くなったりするのだな。

 「そういうことです。僕たちは宇宙はひとつだと思っています。つまりユニ・バースというのが僕たちの認識です。ところが理論物理学では宇宙は多次元にわたって存在していると考えます。これがマルチ・バースです」

 そう言って、キム博士はマルチ・バースについて滔滔とうとうと語り始めたのだ。言っておくが私には一ミリも理解できない。

 「宇宙は膨張しています。膨張の果てに宇宙と宇宙が接触します。そこで何が起こるか? あらゆる可能性が混じり合いひとつになるんです。赤いボールペンを選んだ僕と黒いボールペンを選んだ僕が同時に存在するんです。僕が物理学者でない宇宙や、僕が死んでしまった宇宙もあります。この世界では時間というものが無意味化されるのです。僕たちは自分の生きている時間だけでなく、自分のあらゆる可能性の時間を行き来することができるのです。そこでは幸福も不幸も可能性の一パターンでしかないのです。」

 なんというか、まるで宗教の話のようだ。

 釈迦は修行の果てに悟りの境地を開いたというが、物理学者が見ている宇宙は「悟り」に近いのではないかと思った。

 私には物理学は理解できないが、宗教の話に置き換えると分かるような気がした。


 戸部典子もにまにま顔で黙って聞いているのだが、目が死んでいる。

 「キム博士、日本語で話すなり!」

 おいおい、外国人に対するヘイト発言みたいだぞ。それにキム博士が話しているのは完璧に日本語だ。

 「全く理解できないなり!」

 戸部典子は滝のような涙を流しているではないか。

 「悲しいくらい、アタマが文系なり!」

 分かる、おまえの悲しみは私の悲しみでもあるのだ!


 キム博士は「ふふふ」と笑ってから言った。

 「では始めましょう。歴史改変を・・・」

 キム博士、我々は歴史を改変するのではない。新しい歴史の可能性を探るのだ。

 「さすが先生です。そのお言葉いただきました。僕が碧海作戦に興味を持ったのもそこなんです。碧海時空では僕たちの国が消滅しました。そして、皮肉なことに日本も消滅しました。僕たちからすれば悲劇的な結末のはずなんですが、僕はそこに疑問を持ったのです。国家とは何か? 民族とは何か? そんなものはフィクションに過ぎないんじゃないかって。日本と中国、韓国と日本、共和国と韓国。それらの枠が取り払われた歴史にワクワクしたんですよ。」

 なるほど、国家と民族がフィクションだと言うか。良い感じ方をする。

 では、その理系アタマに歴史の何たるかを叩き込んでしんぜよう。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る