第3話 まほろば作戦

 猛暑である。

 夏も終わろうとしているにもかかわらず、この暑さだ。

 特に、京都の蒸し暑さにはたまらないものがある。

 大学は夏休みである。キャンパスから学生の姿が消え、私は静かな研究室で読書三昧の日々を送っていた。

 衣笠山の麓にある大学の研究室からは、夏の光を浴びて白く輝く京都の街が見渡せた。

 まるで季節が巡るように、この街ではいくつもの政権が勃興し栄華を極め、滅びていったのだ。権力の栄枯盛衰を養分として生き延びてきたのが京の都なのである。


 夏の太陽が徐々に勢力を失い、秋の風が吹きはじめる。

 ようやく夕暮れには散歩を楽しめる季節になった。

 その日、陽が落ちるとともに、私は散歩に出ることにした。

 平野神社から北野天満宮へと続く小道は夕焼けの赤に彩られている。天神さんの鳥居を抜けて上七軒へ足を進めると、料理屋が暖簾を連ねている。ここは先斗町や祇園と並び称される京の花街なのだ。その由来は豊臣秀吉の北野大茶会に遡る。

 今日は絶対旨い物が食うぞ。上七軒もいいが、少し歩けば西陣である。昔ながらの名店が多い街だ。何を食うべきか、それが問題なのだ。せいぜい歩いて、腹を減らせよう。

 私は軒を連ねる町屋の風情を楽しみながら旨い店を探す。

 だが、先ほどから何者かの視線を感じるのだ。

 碧海作戦を辞めて帰国した頃、私には中国政府の監視がついているという噂があった。プロのスパイの監視が素人の私程度に気付かれるわけもなく、次第にそのことを忘れるようになっていた。

 今になって、私に尾行が付いたということなのか。中国の、いや日本の公安という可能性もある。歴史改変に携わった私を政治的に利用しようという組織があっても不思議ではないのだ。

 私は尾行を振り払おうと早足で歩いた。だが尾行は私の十メートル後方をずんずん着いてくるのだ。

 私が振り返ると、黒いスーツの小柄な影が電柱の影に隠れるのが分かった。

 なんともへたくそな尾行である。

 こんな素人くさい尾行、振り切ってやる。

 私は全速力で走りだした、黒い影はちょこまか走りで追ってくるのだが、身長の違いは、すなはち足の回転のストーロークの差である。

 わっはっはは!

 その短い脚で追いつけるものかよ。

 北大路通りまで駆け抜けた私は、黒いスーツの影をまいたことにほっと胸を撫で下ろした。

 しかし、久しぶりに走ったせいか、足首が猛烈に痛いのだ。捻挫だ・・・。



 翌日は、朝一番で整骨院へ行った。足首をぐるぐるの包帯で巻かれ、大量の湿布をもらった。

 足を引きずりながら研究室にたどり着き、いつもどおりの読書だ。

 いつもの椅子に腰かけて、痛む右足を補助椅子に乗せた。

 捻挫の場合、患部をできるだけ高い位置に置いたほうがいいと整骨院で教えられた。。

 

 机の上にはニュー・ヨークの写真が飾ってある。軍艦のようなマンハッタン島の摩天楼を背景に撮ったものだ。写真にはイケメンの陳博士と、白いワンピースの李博士、そしてにまにま顔の戸部典子と半目を開けた私が写っていた。


 それにしても、あの尾行は何だったんだろう。

 プロのスパイが、あんなへたくそな尾行をするはずがない。

 心当たりがあるとすれば・・・。

 などと考えている私に、黒い影は再び接近しつつあったのだ。

 研究室の廊下の窓を、黒いスーツの影が通り過ぎた。

 私はギクリとした。

 ちっこい黒い影は、再び引き返してきて窓の外をうろうろしている。

 わかった、これは男ではない。

 戸部典子君、入りたまえ。


 研究室の扉が開いて、黒いパンツ・スーツにサングラスをかけた戸部典子が入ってきた。相変らずにまにま笑っている。

 「ふふふ、あたしの正体を見抜くとは、さすが先生なり。」

 そんなもん、誰でも分かるぞ。いったいその恰好はどうしたというんだ。

 「あたしは今、ある組織のエージェントなりよ。先生を迎えにきたのだ。」

 エージェントだと。それに迎えに来たとはどういうことだ?

 戸部典子は私が右足を乗せている補助椅子を引き寄せて座った。

 右足が床に落ちて、痛みが全身を貫いた。

 なんてことするんだ!

 戸部典子は私の苦痛を知ってか知らずか、補助椅子に座ってにまにま笑っている。


 「もう一度、碧海時空に介入するなりよ。歴史改変作戦には先生の力が必要なり。」

 これが、中国政府の依頼ではないことはすぐ分かった。中国政府ならば陳博士か李博士をエージェントとして派遣するはずだ。

 戸部典子が来たということは、何か別の政治力学が働いていると考えてしかるべきだ。

 これは危ういのではないかと、私の中で警報音が鳴っている。

 私は、歴史介入には二度とタッチするつもりは無いと戸部典子に告げた。


 「そうなりか、残念なり。先生がそう言うなら仕方がないなり。李博士も残念がるなり。李博士にはあたしからよろしく伝えておくのだ。」

 えっ、まてまて、李博士も今回の作戦に参加するのか?

 「そうなり、碧海時空に介入するには中国政府の支援があったほうがいいに決まってるなり。李博士が連絡員なりよ。」

 そういうことかー。

 私の中で妄想が頭をもたげつつあった。

 この京都で、李博士を食事に誘うのだ。もうすぐ京都は秋だ。街は美しい紅葉で彩られる。古びた庭のある座敷だ。私と李博士は差し向かいで盃を傾けている。

 「先生、おひとつどうぞ。」

 「いやいや、李博士にお酌をしていただけるなんて、何と言ったらいいか・・・」

 「いやですわ。こうして先生と京都で再開できましたことを、わたしはうれしく思っておりますのよ。」

 「私も、李博士を京都にお迎え出来で、こんなうれしいことはない。」

 「わたしも、このまま京都で暮らせたら、どんなに幸せか・・・。」


 「おーい、先生。聴いてるなりか?」

 おっ、悪かった。歴史改変作戦の件だったな。

 「先生は不参加なりね。」

 いや、タッチしないと言っただけで、不参加とは言ってないぞ。

 「気が変わったなりか?」

 変わってない。ちゃんと順を追って説明しろと言っているんだ。参加するかどうか決めるのは、それからだ。

 「今回の作戦は極秘裏に動いているのだ。参加するかどうか分からない先生には何も教えられないなりよ。」

 お前は白紙委任状にサインしろとでも言うつもりか。

 「そうなり。碧海時空では大変なことが起こり始めているなり。介入しようとしているのは、あたしたちの組織だけじゃないなりよ。」

 何だと。

 また、何処かの国か宗教が、歴史改変をプロパガンダに利用しようとしているのか。やれやれだな。

 「先生、やるなりか? やらないなりか? それによってあたしたちの作戦は大きく変わってしまうなり。」

 私の参加如何で、作戦が変わってしまうとはどういうことだ。

 「詳しいことは言えないなり。先生が参加しない場合は強硬策になる可能性があるのだ。」

 強硬策だと。強硬策になったっ場合、どうなるんだ。

 「最悪の場合、この二十一世紀の日本が亡ぶなり。」

 なんだと、日本が亡びるだと!

 「先生の『だく』の一言で、『まほろば作戦』が発動されるなり。」

 「まほろば作戦」とは何だ?

 「これは極秘の計画なのだ。聞いてしまったら先生は後戻りすることはできないなり。それでもいいなら、話すなり。」

 ここまで聞いて、私も後戻りする気はない。教えてくれ、何が起ころうとしているんだ。


 「碧海時空において、日本の復活を画策している勢力があるなり。奴らが十七世紀に乗り込んでくるのを阻止するのだ。」

 なるほど、ようやく話が見えてきた。信長の帝国の誕生によって日本も朝鮮も中華帝国の版図に組み込まれてしまった。

 日本の武将である織田信長が中華を征服したことの皮肉な結果である。

 東アジアが中華帝国の下で一つになったのが碧海時空の歴史である。

 碧海時空における日本の復活を企てるとは、歴史の意味を微塵も理解していない残念な連中の発想だ。こんな馬鹿なことを考える奴らがいるとすれば・・・

 日本教団か?

 「そのとおりなり。日本教団はある国のタイム・マシンを使って十七世紀に工作員を送る計画を立てているのだ。これは国連歴史介入協約に抵触することになるなり。」

 タイム・マシンの保有国以外は歴史介入を禁止されている。

 碧海時空のような歴史が私たちの時空には干渉しないという時空物理学の理論は、各国間の了解事項となっている。にもかかわらず、タイム・マシンには核兵器並みの規制がかけられている。翻って考えれば、その理由は自明である。碧海時空が我々の時空に影響を与える可能性がゼロではないということだ。タイム・マシンは政治的な兵器に転用される可能性があることになる。

 「日本人がタイムマシンを使って歴史に介入するということは、核兵器を持つことに等しいなりよ。」

 もしも、日本が単独で核兵器を持てば、国連の「敵国条項」を持ち出される可能性もある。

 ユナイテッド・ネーションは日本では「国際連合」と翻訳されているが、実態は第二次世界大戦時の「連合国」である。国連は日本を今でも敵国と規定しているのだ。

 日本人の多くがそのことに無自覚でいられたのは、平和憲法のおかげなのかも知れない。日本が軍事力の放棄を国是とする以上、連合国は日本を敵国と見なすことはできない。

 逆に、日本が戦争ができる普通の国になるということは、敵国条項を普通に適用される国になることでもある。

 日本が再び侵略の牙を剥いたとき、連合国は即座に日本を敵国と見なす。

 日本によるタイム・マシンの運用は侵略に準ずる行為に該当する可能性があるのだ。

 「それが最悪のシナリオなり。」

 ありうるな。


 東西冷戦が終わり、アメリカは歴史の勝者となった。それもつかの間、パクス・アメリカーナと呼ばれた時代は既に終わろうとしている。

 ヨーロッパはEUとして古代のローマ帝国の版図を再現し、ソビエト連邦崩壊後のロシアはユーラシア大陸の北方に帝国を形成しつつある。

 アジアにおいては中国やインドが、かつての中華帝国、ムガル帝国の復活を宣言する勢いで発展を続けている。

 この新たな帝国の時代、日本という極東の島国の存在価値は塵のようなものだ。

 各国の利害が結び付けば、この二十一世紀からも日本が消滅する可能性があるのだ。


 「詳しいことは作戦本部で話したいなり。」

  作戦本部? それは何所にあるんだ。

 「目と鼻の先なり、京都の伏見にあるなり。」

 なんで京都なんだ?

 「京都は日本教の信者がいちばん少ない街だからなりよ。」

 なるほど、京都人にとっては「日本」よりも「京都」のほうが上位概念だからな。

 「あたりまえななり。日本が無くても京都は存在するなり。けど、京都の無い日本なんて考えられないなり。」

 うん、日本に京都があって、ヨカッタ。

 などという、くだらない会話をしている場合ではない。

 さっさと学食でメシでも食って、出かけるか。

 「学食に寄ってる時間が無いなり。すぐに出かけるなりよ。」

 そんなに急ぐのか?

 「急ぐなり。」


 急ぐというから車でも用意してあるのかと思ったら、バスと電車を乗り継いで行くそうだ。

 「京都は秋の観光シーズンなのだ。京都市民はできるだけ車を使わないのが常識なり。」

 私はお前のせいで、捻挫してるんだが・・・

 「保健室から車椅子を借りてくるなりか?」

 そんな大げさな捻挫ではない。多少足を引きずるが、仕方がない。

 

 私と戸部典子を乗せたバスは今出川通を東へ走り、私たちは出町柳でバスを降りた。

 「満寿形屋で鯖寿司セットを食べるなりよ。」

 時間が無いのじゃなかったのかね。

 「そうなりよ。満寿形屋の鯖寿司はお昼過ぎには売り切れてしまうなり。間に合ってよかったのだ。」

 時間が無いとはそういうことだったのか。


 おおー、銀色の新鮮な鯖が酢飯の上でつややかに輝いているではないか。

 「うどんと鯖寿司のセットが満寿形屋の名物なりよ。」

 酢の香りがほんのり漂うくらいの締め具合だが、生で食べても十分なくらい新鮮な鯖である。

 わはは、これは旨いな。

 ぜひ、李博士をこの店に案内しよう。

 ゆうべは旨い飯を食いそびれたが、この鯖寿司と出会えたのは収穫といっていい。

 お腹がいっぱいになったところで作戦本部に向かうか!

 と、言った尻から、戸部典子は行列に並んでいるのだ。

 「ふたば」の豆餅を買うつもりなのだ。

 この店はいつも行列ができてるから知ってる。お店の人も手慣れたものだから回転も速い。ちょっと並べば豆餅ゲットというわけだ。

 「作戦本部へのお土産なり。」

 戸部典子は豆餅の袋を抱えて上機嫌だ。

 これが京都人の典型的な行動パターンなのである。

 「先生、嘘ばかりついてると京都人に嫌われるなりよ。」


 

 出町柳から京阪電車である。準急で丹波橋に到着した。小さな駅だが、すぐ隣には近鉄電車の駅が隣接しており、奈良方面へ乗り換えることができる。

 私たちは駅の東口に出た。東口からは山に向かって登坂になっている。

 戸部典子は、坂の上を指し示して言った。

 「あれが、作戦本部なり。」

 そこには、五層の天守閣がそびえ立っていた。

 私は呆然としながら天守閣を見上げた。

 これは豊臣秀吉の築いた伏見城ではないか。

 天守閣は、昭和の時代に遊園地のシンボルとして建設された伏見城キャッスル・ランドの遺構であった。

 

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