Log-004【災厄の訪れ-壱】

 ウルリカたちが第二国境駐屯地へと訪れた、その日。まだ暗がりの残る、黎明れいめいの刻――関門上部に設けられたやぐらから、けたたましいまでの警鐘が鳴り響く。


 耳をつんざく鐘の音を聞きつけ、アクセルは寝台から飛び起きる。それは、魔物の襲来を知らせる音。枕元にいつも置いておく剣を手にして、駐屯兵の仲間と共に共同部屋を出る。


 アクセルは思考を巡らす、魔物にも夜行性と昼行性がいる。そして現在、外は暗い、まだ真夜中だ。つまりは夜行性の魔物、中でも夜行性というのは限られてくる。


鼬寐ユウビだ!」


 現場に駆けつける中、兵士たちが口々に交わす鼬寐ユウビとは、魔物の名。その姿は、いたちのように長い胴体に、モノを切断するのに禍々しいほど特化した鋸刃のこぎりは状の爪と牙を持つ。頭から尾までを入れれば、ゆうに十メートルを越える、巨大な魔物だった。


 習性が臆病なため、頻繁に現れることはない。だが、アクセルは二年前に一度、鼬寐ユウビの襲撃を経験したことがあった。


 人前に踊り出るような種は猛烈に獰猛で、その例に漏れず、アクセルが交戦した鼬寐ユウビもまた極めて凶暴だった。強靭な脚力を持ち、鉄の門扉にある僅かな凹凸や隙間に爪を引っ掛けながら、高くそびえ立つ関門を駆け上ってくると、門の頂上に設けられた櫓を足場にして空高く跳躍し、関門を悠々と突破してくるのだ。従って、この魔物に門櫓は機能しない。そして、門前の広間に降り立つと、瞬く間に駐屯地を荒らし回った。天幕はおよそ潰され、被害は人間だけには留まらなかった。不幸中の幸いにも、その時アクセルが受けた傷は、肩から胸に掛けて受けた浅い爪傷だけだったが。


 アクセルが広場に急行する。先んじて到着し、指揮するジェラルドに駆け寄った。


「団長! 現在の状況は!?」


「まだ関門を越えてはおらん。しかし櫓の者は既に姿を確認している。向こうもこちらを慎重に窺っているようだ」


 アクセルは首肯して、静かに抜刀、臨戦態勢に入る。


 奇妙な静寂が周囲を支配する。鼬寐ユウビは姿を隠している間、足音一つ立てない。その間に、彼は視界の端で周囲を見渡す。肌寒さを感じる風が頬を撫でる、雲間から覗く月と木造りの灯篭が一帯を照らす、広場を囲むように点々と張られた天幕――そんな折にアクセルは、ハッ、と思い出す。


「――ウルリカ様……。そうだ、ウルリカ様は……!?」


 周囲を見渡しても、ウルリカの姿が見えなかった。どれほど寝入っていたところで、櫓の警鐘に気付かないはずがない。ならば、何事かと確認しに来るのが道理。


「おい、アクセル! 集中し――」


 ジェラルドが注意を促した、その時だった。アクセルが関門から少し目を離した瞬間――宙空には、月を覆い隠した鼬寐ユウビの黒い輪郭。跳躍の音さえ立てず、宙を舞う気配すら殺して、静かにその足を地に付けた。


 鬨の声が轟くような、けたたましい開戦ではない。だからこそ漂う異様な雰囲気に、誰もが戦慄を覚える。そして何より、兵士達の視界を支配するソレは、目測で十五メートルはあろうか。二年前に対峙した相手より一回りも大きく、威圧的だった。


 ほんの一瞬の膠着こうちゃく、しかし双方の思惑には隔たりがあった。兵士たちは魔物の動きに対する警戒、鼬寐ユウビは獲物の選択。先制したのは魔物側、狙いを定められたのは、アクセルだ。


 人の目で捉え反応できる限界の素早さで、一気に距離を詰めてくる。勢いそのままに、前足を大きく伸ばし、鋸刃状の爪で横に薙ぐ。アクセルは回避の瞬間を見計らい、地を蹴って後方に飛び、間一髪、爪を避けた。地を蹴った反動を使って宙空で旋回し、避けると同時に剣を薙ぎ払う。しかし、剣の切っ先は、魔物の伸ばした足を捉えきれず、体毛を掠めるに留まった。


 櫓から床弩しょうどの大矢が射出される。矢尻は確かに届く、しかし、厚い体毛に阻まれ、致命傷には至らない。更には、それが引き金となったのか、獰猛さは形振り構わなくなっていく。一人、また一人と、荒れ狂う暴風に吹き飛ばされるかのように、薙ぎ倒されていった。


 冷静さを失った鼬寐ユウビの隙を見て、アクセルは死角に入り、その背に向かって跳躍、馬乗りとなった彼は、力を振り絞り、その背に剣を突き立てた。魔物は痛みに身を捩らせ、その場で暴れまわる。深く突き立てた剣に捕まり、振り飛ばされないよう耐え忍ぶが、刺さった剣ごと投げ飛ばされてしまった。


 石造りの床が砕けるほど背中を強く打ち付け、一時、呼吸困難に陥ってしまう。遠のく意識を保つのが精一杯で、立ち上がることすらままならない。しかし、傷を負って激昂する魔物が、その隙を許すわけがなかった。


「アクセル!! 逃げろ!!」


 ジェラルドの言葉も虚しく、アクセルの足腰には力が入らない。ただ戦慄と拍動を感じながら、霞む視界の中で、鼬寐ユウビの影が迫ってくるのを、じっと見つめることしかできなかった。間もなく、眼前に、獣の凶刃が降りかかる――朦朧とした意識の中で、かすかに聞こえた。


 詩を口ずさむような、少女の声が。

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