1-2

 茫洋とする意識の中、目を覚ます。

 霞む視界に映る、苔むしたレンガ造りの部屋。

 ……体にうまく力が入らない。

 体を動かそうと努めてみたものの、まるで他人の体を動かそうとしているのではないかと錯覚してしまうほどに反応してくれない。

 脳も同じなのか思考が上手く定まらず考えていることが万華鏡のように乱反射を繰り返す。

 それでも無理やりに神経を動員して、事態の把握に努める。

 レンガ造りの壁面にはところどころに苔が生していて、生臭さが伴う湿気に咽返りそうになる。

 此処が何処なのか詳細は分からない。波の音が聞こえてくることから沿岸沿いの建物の中だということは分かるが……。


 自分こと聖条真也せいじょうしんやは先日、知り合ったとある女性の元へ足を運んだ。

 電話越しに彼女から一人では解決できない問題を抱えているとの事だったので、問題解決の力になれればと思い、少し早めに彼女との待ち合わせ場所に向かって、そのまま待っていた。

 そうして待ち合わせの時間丁度に彼女が現れて、現れて――――――


(……なにを、されたんだっけ?)


 思い出せない。彼女の姿を視界に入れた途端、自分の見える世界は斜めに傾いていて、眼球だけ別の誰かに鷲掴みにされてシェイクされているんじゃないかと感じてしまう程に視界が不可思議な動きをした後、意識を失った。

 そして、目を覚ましてみれば自分は鎖に手足を繋がれて自由を失い、まともに身動きを取れないまま呆然としているという事態に陥っているわけだった。


「な、ん…で…?」


 舌がまともに動いてくれない。頭と一緒で呂律もまだ上手く回らず、間抜けな口調になってしまう。

 昨今の酔っ払いでも、ここまで間抜けな風体は晒さないと思う。

 回復してきた意識をもってして、ここまでの状況を整理し、結論を下す。

 要するに、自分は正体不明の何者かに拉致監禁されたようだ。

 犯人が犯行に及んだ目的も動機も全く分からないまま、思考に意識を巡らせる。


 どこか遠くからカツンカツン、と足音が聞こえてくる。

 響き渡る足音はコンクリートを踏んでいるはずなのに、まるで大理石でも踏んでいるのかと思うくらいに綺麗で淀みがなく繊細だ。

 しかし同時に確かな力強さも感じられた。それは足音の主の確固とした強い意思を感じさせて……足音は自分のいる部屋の前でピタリと止まる。

 錆び付いた金属の扉が不快な金きり音を上げながら開かれていく。

 そこにいたのは―――――――――


「おはよう、セイジョー君。良い夢は見れたかしら?」


 くだんの待ち人たるオルガフィヨス=ローエングリーン、その人だった。






 ◇






「オルガ、フィヨス……?」


 拉致監禁されたというこの状況において彼女の無事が確かめられた事は自分にとっては幸いだった。

 自分を拉致したものは彼女も捕らえて自由を奪ったのではないかと予想していたものだから。

 だが、その予想は外れてくれたようだ。


「よかった…君は、無事…だったん、だな……」


 ともかく彼女の身に何も無くてよかった。彼女は女性だから犯人に乱暴でもされていたらどうしようと気が気じゃなかった。

 でも、それももう心配しなくていいみたいだ。


「ここ、は一体……? いや、今は…いいか…それより、この鎖を外すの…手伝ってくれないか?」


 ジャラジャラと音を立てて自分の自由を奪っている鎖を見せる。

 彼女はそれを見やると、無言でこちらに歩を進め、近づいてきた。


「とにかく、ここから出よう。その後のことは警察か僕の知り合いに――――――」


 ピタリと、僕の目の前で彼女の足が止まる。


「オルガフィヨス……?」


 彼女は僕と同じ目線へと、しゃがみこんでこちらの瞳を覗き込む。

 なにか、不審な予感がする。

 それ程までに彼女の瞳は――――――妖しさで満ちていた。


「オルガフィヨス……何を…!?」


 言葉を最後まで口にする前に彼女の両手が僕の両頬を挟み込む。

 綿飴を掬うような手つき。

 大事なものを壊さないように、優しく。

 大事なものを傷つけないように、柔らかく。

 そうして、ゆっくりと僕の体は持ち上げられていく。


「――――――――――――ッ!!」


 上へ上へと上昇していく頭部を支えるために立ち上がろうとするものの、自分の体はまだマトモに動いてくれない。

 緩慢な、蛇を想わせる手つきで彼女の手は僕の首へと移動していた。

 万力のような力は十代半ばの少女とは思えないもので、僕の気道を締め上げていく。


「ハッ――――――あ、――――――オル、ガフィヨス――――――な、にを」


 陸に打ち上げられた魚のように酸素を求める。

 そんな僕の事などお構いなしに彼女は陽気に話を続けた。


「楽しみね…楽しみね…セイジョー君? もうじき、彼女がここにやってくる。気分はどうかしら? 囚われになった私の聖杯。」


「彼、女……?」


 朦朧とした意識を全て使っても彼女の発言の意図は分かりかねる。

 いや、それよりもこの状況はマズイ。彼女は正気をなくしている。なんとかして彼女の理性を取り戻し…いや、違う……彼女の理性は失われていない。まだちゃんと理性があるからこそ、自分とこうして会話をしているんだ。

 ならばこれは理性がなくなっているのではなく、正常に動いていないだけ。つまるところ壊れているのか……!


「オルガフィヨス……」


 正気に戻す手段を考えようとするも、上手く呼吸が出来ない。酸素が不足して思考が、意識が遠のく。

 白濁していく世界。手足の自由を奪われ、動くことの無い体を抱えたままではどうするこもできず、薄汚れた白に染まっていく視界を呆然と眺めるしかなく、


「ま…り…」


 自然と浮かんだ、あの子の名前をポツリと、呟く。


「……」


 途端、オルガフィヨスの手から力が抜ける。

 そのまま僕は、自由落下に従って尻餅をついた。

 咳き込みながら酸素を貪るように取り込んでいく。体の自由は相変わらずなまま、しかし事態の解決を図るべく何かを考じようと試みるが、

 寒気が止まらない。

 体が震えて仕方がない。

 空気の温度が変わったのを感じる……いや、変わったのは空気の温度ではなく、僕自身の外界に対する温度の感じ方だったんだ。


 ―――――そこに、女の形をした鬼がいた。


「……」


 なんて、おぞましい気配。

 これは殺気というものなのか?

 彼女が放つ気配に周りの空気が凍り付いていく錯覚を覚える。

 彼女の凶念が周囲の空気を蹂躙して、犯していく。


「ああ、そう……やっぱり貴方も彼女のことが気になるのね……」


 今の彼女の雰囲気は危うい。まるで噴火前の火山口を除いているような気分だった。


「ええ…ええ…そうでしょうね。彼女は誰もが羨ましいと思う程に、何もかもを持っている。地位も名誉も財も才覚も、」


 矢継ぎ早に口にされる言葉には明確な殺意と、悲哀があって。

 それはまるで彼女が泣きじゃくっているかのようで。


「そして――――――貴方のことも」


 泣いているのか、笑っているのか、僕の頬に手をあててきた彼女の表情カオはひどいモノで、とてもじゃないが直視することを躊躇ってしまいそうだ。


 自分はここ数ヶ月で様々なトラブルに立ち会ってきた。

 そのほとんどが武力で片を付けるという……謂わば表沙汰にできない裏社会での出来事だったりする。

 断っておくと、自分には異常な出来事に相対した時に胸が高鳴ったりするなんて変徹な趣味はなく、自他共に認める普通人。至極、普遍的な人間だ。

 平穏な日々を糧にして、未来に向かって現在いまを生きていくことにしか力を割けない凡人。

 劇的な出来事が現実に起こってくれないかと、そんな幻想に想いを馳せて自ら喜んでトラブルに首を突っ込んでいくような異常性はなく、実際に摩訶不思議な出来事を目の前にした時にも愉悦を抱いて心を躍らせる事は無かった。

 危機的状況を乗り越えたことに対する達成感?

 運命的な一時に立ち会えたことに対する幸福感?

 そういったものは自分の人生ものがたりには無いのが当然で、それが当たり前だと思っている。

 物騒事に直面すれば普通に怖いし、出来る限りその手の事件は避けて通りたいと思うものだ。

 多くの人々がそうしているように、自分もまたその自然な思考形態を抱いて生きてきた。

 自分は平穏を謳歌しながらこれからも日常を生きていき、その末に平凡に死んでいくのだと信じながら。

 だというのに、どうしてこうも自分は厄介事に縁があるのだろう。

 よせばいいのに、今回も首を突っ込んでしまった。

 自分で何とかできるかどうか、確信はなかった。初めて彼女と出会って、話を聞いて、彼女が抱えている問題が自分の手に負えるかどうかは五分五分程度の確率で……。

 だから、危険が伴うのは承知で飛び込んでみたは良いものの……結果は見ての通り、無惨なものだった。

 情けなさで自分を嫌いそうになる。

 自分はこうして変わってしまった彼女の手で捕縛され、彼女の抱えている問題の解決に何も力添えをしてやれないまま無様な醜態を晒している。

 隻眼になって顔の半分を眼帯で覆った彼女の顔は良家の出を思わせる綺麗に整った顔立ちで、少し毒はあったものの乙女と称するに相応しい可憐な性格を有していた。

 今の彼女をたとえるのなら、まるで腐乱臭を放ちながらぐずぐずに腐り墜ちていく果実のそれだろう。

 昨日までの日常における彼女との何気ないやりとりは決して悪いものではなかった。

 それは彼女も同じだったと今でも確信できる。

 だけど今の彼女の在り方はひどく歪んでいて、昨日までの彼女とのギャップがより一層自分の心を深く抉っていく。

 けれど、それでも自分は――――――


「なんて―――悲しい。」


 ぽつりと、そんな自分の気持ちを正直に口にする。

 自分でもバカみたいだと思ったけど……それが真実、僕の本音だった。

 それを聞いた彼女はニマリと口元を歪ませる。

 乙女の可憐さとけだものの卑しさがないまぜになった無惨な笑顔。


「そうね…。ええ、そうでしょうとも。あなたは人が好いから、零落して無様な体を曝していた私に対しても対等の間柄として接してくれたわ。そんな貴方だもの。これから起こることにはとてもじゃないけど直視に耐えられないのではなくて?」


 哄笑と共に嫌な事実が告げられる。

 真理と彼女の間にかつて何があったのか、その詳細を知らない身としてはその内容を上手く想像する事は出来ないけど……おそらく、彼女達の間には拭い難い確執があって、それを何とかすることはきっと自分にはできないのだろう。

 どの道、鎖につながれた自分にはこれから起こるであろう凶事を止めることは出来ない。

 彼女はそれを自分に知らせて、どうしたいのだろう?

 怒ってほしい?

 悲しんでほしい?

 恨んでほしい?

 どれも正解のようで、どれも間違っている気がする。

 彼女は何が目的で、このような凶行に至ったのか頭の回転が鈍い自分に分からない。


「安心して、聖条君。私が絶対に貴方を守ってあげる。彼女がいなくなった後も、聖杯の守護者たるローエングリーンの家名に懸けて、あなたを最期の日まで。ずっと、ずっと……泥のような愛を注いであげるから」


 両の掌で僕の顔を強く固定して、こちらの顔を見やる彼女の瞳はただ目を合わせているだけだというのに腐臭が漂ってくるのではないかと錯覚させる。

 その姿に怯みそうになるも、気を奮い立たせて彼女の瞳を強く視る。

 目を逸らさない。絶対に彼女の本質すがたを捉え続ける。

 意地でも君を見離すものか、と彼女を見続ける。

 そんな僕の姿に彼女は何かを感じ取ってくれたのだろうか。

 それだけの正常さはまだ残っているのだろうか?

 ほう、と蕩けた息を吐きながら錆びた鉄の扉を開けて、彼女は部屋を去っていった。


(……真理)


 静けさが戻ってきた部屋の中で、僕は彼女の姿をおもむろに思い浮かべた。

 死と不吉の気配が漂う、いつも傷だらけになってしまいそうな危なっかしい少女―――――――天元真理あまもとまり


 あの子は人より血の気が多いから、出来るだけこういう危険な事態には首を突っ込んで欲しくない。

 怪我だらけになって帰ってくる彼女を見る度に自分はハラハラする。

 そう思うと、やはりジッとしてはいられなかった。

 たとえ無駄に終わると分かっていても、それでも何かを為そうとすることは間違いじゃないと奮い立つ。

 鎖を引きちぎろうと不自由な体を使って暴れてみるも意味は無い。

 それでも、やめない。

 なにがなんでも諦めない。

 これが今の自分に出来る精一杯の冴えたやり方なら、僕はそれをやめてはいけないんだと自分に言い聞かせる。

 真理が無事でいてくれること、この事態が穏便な解決に至る事を願いながら……僕は、僕の戦いに突入した。

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