真理の宇宙~System of Universe~
天土 洸一/天土 滉一
第一章 飛べない白鳥の仔~Uncompleted Lohengrin~
1-1
目を覚まして見慣れた天井を、少しの間、呆と眺めて布団の中から出た私は着替えを済まして、サンドイッチに水という簡単な朝食をとった。
味気ないが、しかし手間のかかる料理を作りたい気分でもなかったので、こういう時はインスタントが役に立つ。
食事をとった後、着替えを済ませて自宅から
冬が始まった十二月初旬の気温は例年に比べて温かく、雪が降り注ぐのはもう少し先になるだろうと私は予想していた。
木枯らしの風が木々の枝から紅葉を狩りつくして、いよいよ冬が本格的に始まろうとしているこの時期、人々は寒さに備えるために分厚い衣服をクローゼットから引っ張り出して防寒対策に勤しんでいたものの……今年の冬は寒さの到来が遅いらしく、東京の人達が天気予報の知らせを真摯に受け止めて行った防寒対策は空振りに終わった。
科学の発展によって的中率が九割を超える天気予報もあまりアテにならないものなんだなと、他愛の無いことを考えながら街路を歩いて裏路地に入る。
清掃が行き届いていない
足早に裏路地を抜けて、小道を歩いていくと目的地が見えてきた。
都心から外れ、住宅街からも外れ、工業地帯ともいえない判別のしづらい微妙なエリアにおいてさらに異彩を放つこの事務所。
廃工場を買収して造られた廃墟と言っても差し支えがないこの建物は、一人の女学者によって
依然として、この事務所を造ったあの女の感性は
現代社会において鉄骨がむき出し、壁も床も素材のままの建物など法に照らし合わせれば違法物件と指摘されかねない代物だが、それを指して「この何にもなれない感じが堪らない」と言って小躍りしながら自慢してきたあの在り様は変人のそれと評するしかないだろう。
社会の法、秩序に寄り添うのでもなく、かといって反社会勢力におもねって混沌を撒き散らすわけでもなく、そんな彼女がこういったモノを指して堪らないと表現するのなら、
「ああ、同類相憐れんでいるのか」
もしくは同属嫌悪か。どちらにせよ気に懸かって仕方がないということなんだろう。
日差しに仄暗く照らされた入り口から階段を上って三階にあるオフィスへと向かう。
ドアを開けて中に入ると事務所のオーナーが紙の資料と薄高く積まれた本の群れに囲まれ、高級皮椅子に深く腰を落としながらキセルで煙草を堪能していた。
「おはよう、真理。今朝はいつにも増して不機嫌そうな
「私は野良猫か何かか。別にいつものことでしょ?ほっといて」
気さくに失礼な質問をしてきた彼女へ適当に返事をする。
彼女の周りには紫煙が立ち込めており、彼女の胡散臭さと曖昧な在り方が形となって漂っているんじゃないかと思えてしまう。
「いつも言っているけど換気しなよ。呼吸するのが億劫な位、ココ煙臭いんだけど……」
「この時期に換気扇を回すのも、窓を開けるのもおっかないんだ。せっかくいい具合に暖まった部屋の温度を台無しにしたいのか?」
呼吸できずに窒息死するよりはマシでしょとごちながら私は部屋に備え付けられたソファに腰を下ろした。
基本、物臭なこの女が掃除をはじめとした家事全般に精を出すことはあまりなく、彼女の助手である
それも灰里が指示したのではなく、アイツが部屋の惨状をみかねて掃除をするといったものだ。
思うのだが、雇い主の身辺の世話は助手の仕事と言うより給仕の仕事ではないだろうか。
「それで? 今日の用は? お前好みの仕事はまだ今のところ舞い込んでいないが。今日来たところでお前はそのマロイ尻でウチの高級ソファを磨くしかやることはないと思うぞ」
「……おい、マロイ尻ってなんだ?」
「丸くてエロイ尻、略してマロイ尻だ。私の造語センスも中々に捨てたもんじゃないと思うぞ。来年当たりまでにこの国で浸透しないかな、コレ」
ふふん、と得意げに自慢してくる彼女の表情に一片の曇りは無く、なるほど今日もこの女の頭は愉快に沸騰しているのだと分かった。
「アホらしい……それより今日アイツはどうしたの? 前にお茶菓子の買い足し代、立て替えた分をまだ払ってもらってないんだけど」
「ああ、そういえばそんなこともあったわね。なぁに? 万年金欠で財布の中がいつも氷河期の彼からお金を毟り取ろうって? アラ、ひどいわ~。そんなあなたにはこのチョコレートチップスを送りつけてあげましょう、ハイこれ」
「いらない。なにこれ、ポテトチップにチョコレートが塗ってあるの?」
「冬の季節はカカオ類が美味しく感じられるモノでしょ? あれって体が「サムイ!」と感じると、皮膚の血管を作っている筋肉に、「血管を収縮せよ!」と指令が送られて、血管収縮に糖分と脂質がエネルギー源として必要になるからなの。それならほら、
予想以上に口に合わなくて食べた瞬間、製造会社に販売停止の催促を行うところだったわ、と笑いながら言ってきた
「不味いと分かっていながら買ったんなら
この灰色の女学者は、そういって何度も興味を引かれたもの、目新しいものを衝動買いしてはすぐに飽きてしまい、捨てるのはもったいないからと周りの人間に押し付けたり、地下にある倉庫に乱雑に押し込む悪癖がある。
最近、地下室に倉庫があることを知った
「
「食べたこと無いけど、それ絶対微妙な味がするでしょ。また変な味のお菓子を持ち出さないで」
ぴしゃりと言い放ち、灰里の馬鹿発言に止めを刺す。
今日は特にやることも無い、か。なら、
空気は悪いが、部屋の温度は暖かい。
冬の到来が遅いとはいえ、外の温度は肌寒いと感じるものだった。わざわざ外に出て公園に集まっていた鳥のように寒さに縮こまる理由も無いと考えた私はそのまま備え付けられているコーヒーメイカーに手を伸ばし、ゆるりと黒い液体をコップに注いだ。
◇
コップに注いだコーヒーを片手にソファに座り正面に備え付けられているテレビに目を向ける。
流れている番組の内容はどうやら世界中の動物、その生態を取り扱ったものらしく今回のテーマは鳥だった。
この星には大小様々な鳥類が存在していて、体の大きさは元より空を飛べるもの飛べないもの、
空を渡って別の国へと飛翔するモノもいれば、ずっと同じ場所で地上に住処を構えるものなどその種類は多岐にわたる。
今、取り上げられている鳥の種類は
「鳥かぁ。あいつらは頭が軽いんだが、そこがいいとこでもあると思う。嫌なことはすぐに忘れられるからな」
「それって鳥頭って事?」
「そう。大小様々な悲喜交々が入り混じってた人生模様を謳歌する…そんなルーチンワークに疲れがちな現代の人間にとって、あの記憶力の悪さは見習うべきものがある。嫌な事をはじめとした重たい荷物を忘れるという形で捨て去って自由な世界へ羽ばたくように飛翔したい……お前はそう思う事はないか?」
「……どういう意味?」
「忘れるっていうのは人間にとっては生きていく上で結構役に立つってことだよ。私もお前も記憶力は良い方だろ? それ故に生じる苦労もある。覚えていることが多いということは良くも悪くも思い出に捉われやすいという事なのだから」
「そりゃあ、都合よく嫌な思い出だけを忘れられれば確かにそうでしょうけど……鳥の場合は違う。アイツらは良い事も悪い事も一緒くたにして忘れる。思い出を丸ごと手放す機能ってそんなに羨ましがるようなもの?」
「どんな物事にも限界がある。それは私たち人間の記憶容量とて例外じゃない。苦しい事、楽しい事……種別は違えど私たちはそれらをどれだけ手放したくないと叫んでも、いつかは手放さなければならない時がある。それは過去の出来事を覚えておく事と
「……」
確かに灰里のいうことは分かる。人間は未来に向かって現在を生きていくもの。いつまでも昔に起きた出来事に構ってばかりいては今を生きていくことが難しくなり、そのまま思い出を振り返ることに傾倒していては現在を生きていくことも
人間の目的とは突き詰めれば、ただ生きていたいだけなのだから、そんな間抜けな顛末を迎えるくらいなら重荷となっているモノを切り捨てて身軽になった方がより生存確率をあげられるということだろう。
生物として合理的で、実に現実的な判断だと思う。
「昔の記憶を反芻することは決して悪い事ではないと思うが……現代を駆け抜けるように生きている我々には実行に移すのは難しい行いだとは思う。だって、忘れるための時間を確保できないくらい現代の人々は忙しいのだから。過去の行いを振り返り、省みることで貴重なものが得られると知っていても、それでも掴み損ねて取りこぼしてしまうのもまた、現代人が抱えている病理の一つなのかもしれんな」
過去に起きた出来事、現在で起きている出来事、未来で起きる出来事。
人は一体どこに最も大きな意味を見出すのだろう。
どこに重大さを見出して行動を起こすのだろう。
過去に重きを置いて生きている私からすれば、他の選択肢を選ぶ者達の感覚は
私はきっとそういうものを見るとなんだか無性に苛立って、壊したくなる。
そんな私を見て基也はきっと人間の選ぶ在り方は千差万別が当たり前なんだから、それでもいいじゃないかって言って
「思い出を抱えて生きていくことにさしたる意味は無くって、所詮は感傷に浸っているだけだから、そういう人間らしさは時代と共に消え去っていくのが自然な流れなのかな……」
「少なくとも私は捉われすぎるのは善くない事だとは思うな。そんなものに捕らわれて今を愉しむ事が出来なくなるくらいなら、私はいっそのこと潔く放り出すよ」
「ふん、いいじゃない。思い出に不義理を働いても今を楽しく生きられるならご自由に。ただし思い出を振り返る事で得られる懐かしさに浸る権利も一緒に置いていくことになるけどね」
灰里の言葉もなんだか小癪で言葉は少し険を帯びたものになった。
「世界の懐って思ってたより狭いのね。昔の思い出を振り返る時間すら私達には自由にくれないだなんて……なによ、昔の出来事を
「昔を大切にしているからこそ今を懸命に生きていくために記憶という重しを棄てる選択肢を選んだ……そういう解釈に行き着かないあたり、乙女としては真っ当で、少女らしい可愛さが伴うが……。しっかし、その性質を突き詰めた結果が乙女の可憐さが反転して男らしいポジティブで逞しい結論を下すとはなぁ……ホントにお前は奇妙で皮肉なもんだ」
煙管をいじめるようにカリカリと口で弄ぶ灰里。
そんな彼女を漂う煙と同じくらいには煙たいと思った。
遠回しに私は男扱いされたのだから、そりゃあ腹ただしいと思わないでもない。
「まっ、結構なことさ。過去も現在も未来も人間として生きていく上で気に懸けて
「知るか、出前で頼め。北京ダックのデリバリーなんて聞いたこと無いけど」
馬鹿話を一蹴して私は飲み終わったコーヒーを下げようと台所に向かおうとした……その時に、灰里の机に設置された固定電話が着信音を上げた。
電話に目をやった灰里の瞳が獲物を前にしたを爬虫類のそれに変わったのを見て、私は予感した。
どうやら私がここに来た甲斐が今、出来たらしい。
つまるところ――――――――物騒で厄介な、浮世の騒動。
◇
この事務所の設立理由は主に以下の通りだ。
一、生粋の根無し草にして変人である辰巳灰里の一時の住処の確保。
二、世間には公に出来ない厄介事、問題事を解決することで多量の金銭を手に入れるため。
三、魔術の儀式や作業を行なうための専用領域の確保。
四、単なる趣味。
の四つだそうな。
人間社会において金が回るのはいつだって表社会よりも裏社会だ。
これは古今東西変わらぬ慣わしで、きっとこれから先の未来においても変わらない事なのだろう。
事実、天元の家も似たような稼業で大量の金銭を稼いでいるという側面がある。
私も今は休業しているものの、以前は実家の手伝いとしてその手の作業に狩り出されたことがままあった。
だからまぁ、彼女の言い分は分からないでもない。
先ほど入ってきた電話はどうやら二番目の理由に縁があるものらしく、電話が終わりキセルに新しい煙草を詰めて火をつけた彼女の話が始まるのをじっと待っていた。
「……さてさて」
ため息もそぞろに、灰里が口火を切る。
様子から察するにどうやら今回の依頼に関して、あまり乗り気ではないらしい。
「んぅ~~~」
……何だ?
些か妙だ。
「あぁ~~…うん…えっと、な」
これまでにも彼女の依頼で何度か仕事をこなしてきたが、依頼内容を話すだけでこんな風に懊悩する様を見たことがない。
大体があっけからんに「ちょっとそこのコンビニに行ってコーヒー買ってきて~」というようなノリで話されたものだ。
「……あなたが仕事がらみでそんなに歯切れ悪くなるのは珍しいね」
奥歯に小物が引っかかってとれないといった体だ。
今まで様々な怪異、怪物、異常者と相対して切った貼ったを繰り返してきた私たちだが、今回の一件はどうやらこれまで以上に攻略が難しいもののようだ。
面倒事は嫌いだけど、厄介事はイイ。
お互いの領域を
これから始まるであろう物騒な話に私は小躍りする心を抑えながら、灰里が話し始めるのを今か今かと待ち続ける。
灰里がため息を一つ、口を開くと
「やれやれ、うちの少年は何でこう……この手の厄介ごとに巻き込まれやすいのかねぇ……」
…………何だって?
嫌な予感がする。否、嫌な確信がする。
「ねぇ……ちょっと、まさか」
事態を把握した私が投げかけた言葉に灰里は何の感情もなく、さらりと爆弾めいた返答をしてきた。
「察しがいいね、お前は。ああ、簡潔に言ってしまおう。いいか、真理? よく聞け? 一言で言うとな……ウチの助手である真也少年が拉致られた」
「――――――」
絶句。
私は自分の精神が氷水のように冷たくなっていくのを感じた。
同時に黒い何かが燃え上がるのも感じた。つまり――――――
「少年は今、」
「相手の情報と場所を教えなさい、今すぐに」
冷たく鋭い感情しか伴わない声で灰里の言葉を遮り、有無を言わさず情報を聞きだす。
辰巳灰里が経営する事務所であるこの
相手の素性、真意は判明しないものの、その情報屋によると一つ判ることがあったそうだ。
それは今回、
「電話の対応をした情報屋は災難だったわね。真理、誰かに殺意を持たれる様なことをした覚えは?」
「そんなのわからない」
ああ、本当に分からない。パッと思いつくだけでも数十単位で恨みを買っている人間の顔を思い浮かべられるというのに、その中から思い当たる人物を特定しろだなんて、無理な相談だ。
「判るのは天元の家絡みの件で恨まれているのか、私個人に恨みがあるかの違いくらい」
「ほう、理由を聞いても?」
灰里が興味深そうに相槌を打つ。
私は即座に膠も無く返答する。
「決まってる。直感よ」
そう。直感の域を出ないものの、私は今回の犯人が私個人に私怨を抱いて行動していることを確信している。
何故なのだろう?
こういう物騒事、厄介事に関する際の私の直感は外れることがまず無い。
今回のような件に出くわしては、私の直感もたまには外れて欲しいと思わずにはいられない。
だって……
「――――――――これ、相手は女よ」
あの人畜無害を絵に描いたような鈍い馬鹿絡みで、他者から恨みごとを買うなんてそれくらいしか思いつかない。
私の言葉に灰里は「あちゃぁ…」と、嘆息を漏らしている。
深い泥沼になると予想したのだろう、さも面倒くさそうに
「相手の経歴などについては私の方でもう少し探ってみよう。少年の方はお前の仕事だな」
「言われるまでも無いわ」
灰里から相手が指定してきた場所の詳細を聞いた私はすぐに愛用の白い羽織を着込んで、ドアを乱暴に開けて事務所を後にした。
重く、強く道路を踏みしめる。まるで地面を憎い相手の顔に見立てて踏みにじるかのように。
いいだろう、何処の誰だか知らないが、あれは絶対に私のモノであるということを根幹から教えてやらねば。
私は激昂が表に出ないよう抑えながら、歩を進めて街へと繰り出していく。
そこで、ふと気づく。
世の中には今回の件よりも遥かに惨く酷い事件がゴロゴロと散在しているというのに……はて、私はなんで基也が誘拐されたというただそれだけのことで、こんなにも苛立っているのだろう?
分からない。
答えは曖昧模糊としていて、一寸先も見通せない暗く深い霧に見舞われたかのような気持ちになって、私はより一層不愉快さに
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