第1.23話 龍王の私生児アグナル、火龍に帝王たる宣言をされること
アグナルは必死だった——たぶん、これまでの人生のどんなことよりも必死だった。そうでなければ龍の背から振り落とされていた。
ワインレッドの体表は岩山のようにがさがさしていて、指をかけて掴まる突起はいくらでもあった。だが龍が速度を上げたり、逆に緩めたり、縦になったり、逆さになったりすると、指の力だけで身体を支えなければならなかった。
龍がどこをどう飛んだのか、まったくわからなかった、ふと加速が緩んだ。どこかに到着したのか。激しい加速のせいで痛む首を回して周囲を見回すと、どこもかしこも崩れていたが、城壁の中、崩れた城の傍らにいることがわかった。まだ帝都からは外に出ていなかったらしい。
落ち着いて見回してみると、酷い有様だった。城は半ば崩れかけ、主塔は完全に折れてしまっている。居館にもところどころ穴が空いている。城壁も、もはや壁としての機能を果たしていない。真夜中だというのに空が赤い。帝都市街が火事で燃え盛っているのだ。龍の炎で燃やされた。城も燃えている。火龍の炎。
アグナルはぞっとした。
暴虐の限りを尽くす龍の背の上に、アグナルは載せられている。
龍の背に載ったのは、無理矢理載せられたからだ。まるで猫が子を運ぶように、服の襟のところを器用に噛み付かれ、背まで運ばれた。喰われるのではないかと思った。
一週間前に現れたときはあれだけ憧れた存在だったが、その背に触れていると、恐怖しか感じない。
「お、降りなきゃ………」
地上に降り立っている。逃げ出す好機だ。何よりもアグナルには、しなければならないことがある。アウロラを、アウロラを助けなくては。
そう考えていたアグナルの目の前、何かが降ってきた。潰されるかと思った。
人だった。女性。長い黒髪の。いつぞやと同様、ボロ切れのような服を纏っている。「クマ………!」クマ。隻腕の人狼。アグナルが助けた女性。右腕が肘から先がなく、左腕は肩から出血している。
「アグナル……」
クマもアグナルに気づき、怪我をしている隻腕でぎゅうとアグナルのことを抱きしめてきた。胸に押し付けられる。
ぼたぼたと頭の上に何か温かいものが落ちてきた。涎ではないと思う。
「良かった……無事か。アグナルは無事だぞ……アウロラ………」
と消えゆく声で、クマは呟いた。
「そ、そうだ! クマ、アウロラが、アウロラが………!」
抱きしめられている場合ではなかった。
アグナルは隻腕の人狼に説明しようとした。アウロラの部屋まで逃げたあとに龍が壁を突き破って現れたこと。その衝撃で床まで崩れたこと。落下し、崩れた床と壁に押しつぶされそうになったこと。アウロラが庇ってくれたこと。おかげでアグナルは無事で、しかしアウロラは瓦礫に足を挟まれて動けなくなってしまったこと。助けようにも助けられず、助けを呼ぶ前に龍の背に載せられたこと。
「アウロラを助けなきゃ………!」
お願い、手を貸して。そう言おうとしたが、その前に気づいた。クマは目を瞑り、反応していなかった。心臓は動いているし、呼吸もしている。寝ている——いや、気絶したようだ。彼女の全身に走る傷から、ジリーとの戦いが激しいものだったことがわかる。ジリーの姿は見当たらないが、彼女はなんとか逃げ
彼女が駄目なら、ほかに助けを求めなければ。いまさら、自分がまた捕まることなんか危惧してはいられない。誰だっていい。どんな対価を支払ってもいい。誰よりも、誰よりも、誰よりも——大事なのはアウロラなのだ。何よりも換え難い存在なのだ。助けなければいけない存在なのだ。そのために剣術も学ぼうとしたのだ。大事な人を守りたいと思ったのだ。
それなのに、それなのに——その背から降りるまえに、龍は羽ばたきを始めた。「待って」ふわりと宙に浮く。「待って、待って………!」待たない。そこに辿り着くことさえできやしない。アウロラのところに。大切な人のところに。
あるいは龍はアグナルの心の中を読み取ってくれていて、このままアウロラのところまで戻ってくれるのではないかと、そんな希望的予想もした。そんなことをしてくれるのなら、そもそもアグナルを無理矢理背に載せて飛び立つはずがなかったのに。
気絶したクマを載せているからか、今度は先ほどのようにアクロバットな動きはしなかった。あるいはこの龍は、クマを捜してあんな機動をしていたのかもしれない。今度は目的地は決まっていたのだろう。
穏やかに飛んでくれたから、眼下の光景がよく見えた。どこもかしこも燃えている。美しく、恐ろしい光景。燃やされた帝都。赤で塗りたくられた帝都。アグナルの住んでいた街。
悲鳴をあげて逃げ惑う都民の中、秩序を残した人々の集団があった。
帝都、市街中央。帝王ラーセンの像が置かれた噴水広場。
ふわり。
アグナルとクマを載せた龍は、そこに降り立った。
噴水広場に集まっていたのは、軽装の帝都騎士団たちだった。都中から水を掻き集め、消火と都民の救出を行おうと集まった者たちだ。その中に、金髪の女性の姿もあった。
「ねえさま………!」
ミアも龍による混乱を収めるために帝都市街へ出ていたらしい。噴水広場は、緊急の対策本部となっていた。
ミアのほうも、龍とその背から噴水広場を見下ろすアグナルに気づいたらしい。が、彼女は目を見開いて動けなかった。当たり前だ。眼前に巨大な化け物がいるのだ。
誰も彼もが凍りついていた。
最初に動いたのは、龍。
その巨大な
アグナルは言葉も出なかった。噴水広場に集まっている兵たちも、言葉を失って呆然と立ち尽くしていた。
「ねえさま!」
ようやく呼吸ができるようになってミアの名を呼んだが、遅かった。動けないで固まっていた彼女を、炎は一瞬で呑み込んでいた。
(王だけじゃなく、ねえさままで………!)
龍に殺された。そう思った。
が、炎が晴れてみると、ミアは無事だった。不思議な力で守られた、だとかではない。彼女は尻餅をついていて、そこまで辛うじて炎が届いていなかっただけだ。あるいは龍は彼女に炎が届かないように火を吐いたのかもしれない。
「すべての」
龍が震えた。震えるとともに言葉が聞こえた。
否、龍が喋っているのだ、と気付いた。龍とは、喋るのか? いったい、何を言うのか?
「すべての帝都に生きる存在——否、〈半島〉に生きる存在に告げる。この者——アグナルが次なる帝王なり!」
アグナルは耳を疑った。いったい、この龍は何を言い出すのか。
「すべての者は首を垂れよ! 次なる帝王を迎えよ!」
龍が吠えた。その声は〈半島〉中に響き渡った。
だが誰も首を垂れることはなかった。広がるのは恐怖だけだった。
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