第1.22話 隻腕の人狼クマ、人狼騎士から逃走すること

「アグナル………!」

 部屋から出て行ったアグナルを振り返り、人狼騎士——ジリーは言葉を発した。低い声には焦りが見えたものの、表情には極端な変化は見られない。もっとも、感情的なものが乏しい男なのかもしれない、こいつは。こいつは、得体が知れない。

 しかし。

 アグナルを追うべきか、どうしよう、という感情が漏れ出ていた。この男、戦っている最中も外套の隙間から目だけは見えていたが、剣を薄皮一枚で避けるほどの状況であっても、瞳に恐れが見えないような、皇都の暗殺者として生きてきたクマの目からも異質に映るような男ではあったが、しかし、人らしい判断力もあるらしい。


「追わなくていいのか」

 とクマは息も絶え絶えに問いかけた。腕を壁に突き刺されたまま。出血はさほどでもないが、爪先はついているとはいえ、ぶら下がるような恰好になっているのが辛い。戦いで息も上がってしまっている。

 ジリーは返答をしない。わざわざ言葉を交わす理由はないから、自己満足の返答はしないから、敗北者を見下して愉悦に浸る必要もないから——そんなところだろう。だが彼の心の内を理解しても、クマは言葉を吐き続けた。

「なぁおい、この剣を抜いてくれないか。抵抗の意思はない。本当だ。くそ、痛い。どうにかしろ」

 ジリーはゆっくりと振り向いた。アグナルを追うことは諦めたらしい。子どもの足と比較すれば追いつくのは簡単なはずなので、まずは対処すべきは、たとえ負傷してはいても戦う力のあるクマから、ということだろう。


 彼は腰から、クマを貫いているものより短い小剣を抜いて近づいてきた。これは、まずい。まずいな。笑えてくる。クマは笑ってみせたが、ジリーの動きは変わらなかった。ただ確実に仕留めるためだけに近づいてくる。揺らがない。強い。硬い。折れない。勝てない。

 だが。

「おまえより……おれのほうが耳は鋭いようだぞ」

クマのその言葉を聞いてもジリーは揺らがなかったが、事実として彼の耳にクマが聞いていたものが飛び込んでくるとなれば話は別だった。羽ばたき、着地、揺れ。人の叫び、悲鳴、砕ける音。 

 巨大な翼が巻き起こす風は、城さえも揺らした。

 クマもジリーも、反射的に窓の外を見た。そこにその姿はあった。

 赤銅色の鱗、青く輝く瞳。風になびく金髪の鬣。


 龍。


 一週間前に一度だけ姿を表した伝説の存在が、帝都の中に入り込んでいた。騒ぎは龍のせいだろう。ジリー以外の兵は、その騒ぎを鎮静しようとしているのかもしれない。

 次の轟音と振動で、巨大なあぎとを持つその生物が城の中に突っ込んできたということがわかった。

(アグナルのところか……?)

 龍の目的について、ある程度の知識のあるクマには龍の突入しようとした場所が推測できた。というより、ほかにはないだろう。なぜこのタイミングで、という疑問はないではないが、状況の危険性を悟ったのかもしれない。

 なんにしても、クマにとっていま重要なのは、眼前の強すぎる男の注意が逸れたことと、龍が突っ込んできたせいで壁や床にまで亀裂が入ったことだった。剣が壁から抜け、自由になった——ことはなったが、しかし腕に刺さったままの剣はひとつきりの腕では抜けない。かまわず、殴りつけられたときに落ちた自分の剣を血の伝う隻腕で拾い、ジリーに向けて斬りつける。

 さすがにジリーの対応は早く、小剣で受けはしたが、足元がまずかった。龍の動きとともに崩壊していく城の中、安定した足場は望めるはずもない。陥没したが床が崩れる。

 態勢を崩した人狼騎士に向け、クマは蹴りを入れた。床の裂け目から、男の身体が落ちていく——それを見届けてもなお、クマは警戒を緩めなかった。


 あの男、あの男は、強すぎる。少なくとも一階ぶんは無茶な態勢で落下したが、死んではいない。間違いない。穴からジリーの状態を確認しようとすれば、まず間違いなく反撃を食らうだろう。

 だからクマは反転して走った。部屋を出て、逃げた。身体が重い。血がだいぶ抜けた。

(やべぇな)

 目の前がとても暗いのは、夜だからという理由だけではないだろう。暗い。頭が重い。足が、びたんびたんと床を打っている。足の裏が。城はもはやいつ崩れてもわからないほど変形している。

 誰もいない通路を駆ける。

 龍はどこへ行った?

 龍のいる場所にアグナルもいるはずだ。

 ひとつきりの拳を握りしめる。爪が掌に食い込む。それで辛うじて意識を繋ぐ。通路はどこもかしこも崩れていて、床が完全に抜けているところさえあった。外に出られるのならば出たいが、この身体で地上まで飛び降りることは難しそうだ。いま何階にいるのかさえわからないほど意識が覚束ないのに、着地なんてできるはずがない。

 ほとんど前に倒れるようになりながら駆けていたクマだったが、崩れた壁の破片に足を取られ、転んだ。頭を打った。痛かったような気がするが、もうよくわからなかった。


「助けてくれるの?」

 アウロラのその言葉が聞こえたような気がした。

 クマは——クマは、そうだ、アグナルのことを守ると誓った。ラーセンにも、アウロラにも。それが自分の娘を守ることに繋がるから。

 だがこの身体で、もう何ができるのかすらもわからない。

 半島。

 皇都。

 娘。

 龍。

(娘なんて………)

 名も知らないような男たちに犯された。皇都で、クマは奴隷ですらなかった。道具だった。使われて、産まされた。産んだあとは、取り上げられた。存在しないも同じだ。むしろ存在してくれないほうがいいものだ。

 それなのに、遠目に見たときになぜか………なぜか、このままでは駄目だと思った。

 それを話したとき、アウロラはこう言っていた。

「あなたは娘さんを助けたいのね」

 そうじゃない。そうじゃないんだ。おれがしたいのはそういうことかもしれないが、それは目的ではない。ただ、ただ、駄目なことは駄目なのだ。駄目なものは駄目だ。あそこにあの子を置いておいては駄目なのだ。だから——。


「契約を果たせ、人狼」

 低い声。


 壁に背中を預け、寄りかかるようにして立ち上がる。

 そうだ、約束をした。

 クマはラーセンの私生児の息子を守る。

 その代わり、ラーセンは皇都を落としてクマの娘を救う。

 それが交換条件。暗殺者であるクマと、侵略者であるラーセンの契約。

 ラーセンは死んだ。だが契約は生きている。クマはそれを知っている。龍はいて、クマを見張っている。〈龍王〉の龍が。

 アグナルを守らなくては。それが娘を守ることに繋がるのだから。なぜ守らなければならないのか、そんなことはもう、いい。駄目なものは駄目なのだ。だからどうにかする。

 よろよろとした足取りで通路を進む。もはやどこをどう進んでいるのかもわからないまま、クマは進んだ。急に身体が軽くなった。宙に浮いていた。死んだのかと思った。死んではいない。眼前に龍の姿があった。青い瞳。金色の髭。龍。龍王。

 急激な加速度を受けて、空へと放り投げられる。どうやら咥えられて、そのまま背中へと向けて投げられたらしい。一週間前とは違って服を咥えてくれたおかげで、勢い余って腕を噛みちぎられることはなかった。


「クマ………!」

 甲高い少年の声が聞こえた。アグナル。彼も龍の背に乗っていた。

 服に汚れは見えるが、少なくとも大きな怪我はしていないように見える。

(良かった……無事か………)

 龍の背に乗っている。異常な状況でありながら、クマはそれを受け入れていた。前回は咥えられていただけとはいえ、龍に乗るのは二度目だし、身体のほうが限界だった。何よりも、アグナルの無事が嬉しかった。

(アグナルは無事だぞ、アウロラ………)

 戦い、傷つけられ、血を流していたクマは、安堵とともに気を失った。

 心の内で呼びかけていたアウロラが一緒にいないことにまで、気は回らなかった。

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