第1.21話 私生児の乳母アウロラ、壁の崩壊を見ること

 外が騒がしい、気がする。

 アウロラは軟禁されている部屋のドアをノックして、何があったのか、外で番をしている兵から尋ねようとした。が、返事がない。

「すみません?」

 声をかけてみても、何も応答がない。耳をドアに当ててみるが、外には何もいない、ような気がする。

 鍵は、とノブを回してみると、開いていた。というか、確かめなかっただけで、最初から開いていたのかもしれない。軟禁されているとはいえ、アウロラは特に抵抗の様子を示さなかった。閉じ込めている側からしても、アグナルを確保している間はアウロラは何もしないということはわかっていただろう。

 ドアを開けるのは容易だが、果たしてそうすべきか。アウロラは迷った。

(何かあったのかな………)

 真っ先に思い当たったのは、外の兵士が殺されたのかも、という発想だった。殺したのは、クマ以外にはない。彼女は皇都の暗殺者だ。自称、ではあるが、しかし実際に立ち会ってみて、腕は立つことはわかっている。

 が、彼女には人を殺さぬようにと言い含めてあるし、そもそもアウロラを助けようと兵を排除したのであれば、鍵を開けてくれるはずなのだ。彼女ではない。もっとほかの、何かが起きている。


 なんにしても、この目で見てみなければ何もわからない。アウロラは決意とともに扉を開いた——が、外の通路には何も起きていなかった。血みどろにもなっていないし、首が落ちてもいない。ただ、人がいないだけ。

(いったい、何が………)

 まさか己を逃げ出させて、逃亡の罪でも無理矢理にこじつけようとしているのではなかろうか、と爪先だけ部屋の内側に留め、ドアに寄りかかって外を覗きに回しているときだった。

「アウロラっ!」

 アウロラ、アウロラ、アウロラ!

 己の名を呼ぶその声が、甲高く少女のものと勘違いしてしまう声が、焦燥と安堵が入り混じった声が、アウロラには嬉しかった。

「アグナル!」

 通路を走ってきた龍王の私生児に対して両手を広げて抱き留めようとして、爪先立ちの無理な恰好でドアに縋っていたアウロラは滑って転んだ。


「痛ぁ………」

 額を打った。痛い。

「アウロラ、アウロラ……大丈夫?」

「痛い……けど大丈夫」

 寄ってきたアグナルに縋って立ち上がる。

 見たところ、アグナルには傷ひとつなかった。涙目にはなってはいるが、しかし、それはアウロラと同じく安堵から来たものらしい。良かった。最悪の事態にはなっていなかった。

 しかし自分と同じく軟禁されていたはずの彼が、なぜここにいるのか。クマに会って連れ出されたのだろうか。だがそうだとすると、彼女はいったいどこへ?

「アグナル、クマには会った?」

 と尋ねるとアグナルは、いま気付いた、とでもいうかのように目を見開いた。

「そうだっ、クマが………!」

 アグナルは怒涛のように説明を始めた。あまりにも急いて喋ろうとしていたため、舌を噛んでしまうほどだった。

 クマが部屋にやってきたこと。

 彼女はミアがアグナルを殺すことを企んでいるということを聞いたこと。

 そして、ジリーが昨晩の襲撃者だったということ。


「ジリーさんが……」

 信じられない気持ちでいっぱいだった。彼は権力にも武力にも後ろ盾のないアウロラとアグナルにとって、唯一縋れる存在だと思っていたし、誰よりも頼りになる人物だと感じていた。

 それは単純に、傷を負わない最強の剣闘士という評判からだけではない。思えば自分は、ジリーにどこか親近感のようなものを感じていたのだろう。自分と同じように奴隷として帝都に連れてこられ、剣闘奴隷にされ、死を間近に戦い続け、しかし救ってもらった——そんな過去があるから、きっと自分と同じように行動してくれる、アグナルを助けてくれる、と、そんなふうに都合良く考えていたのかもしれない。アウロラはそんなふうに自嘲した。

「クマは? あの子は、どうしたの?」

 と気を取り直して尋ねる。

「クマは……クマはっ、刺されっ、てっ」

 アグナルの答えには嗚咽が混じっている。

「刺された? どこを?」

「うっ、腕………」

「どっちの?」

「左の……あるほうっ、のっ………」

 敵は最強の剣闘士、クマは隻腕なうえに、唯一使える腕を負傷。おまけに味方など存在しない。一度ここまで状況が傾いたら、もはや立て直しは叶わないだろう。


 アウロラは額に手を当てた。いま自分が為すべきことは、アグナルを逃すことだ。このまま彼の手を引いて城の外まで逃げて——-いや、それでは駄目だ。

 クマを助けなければ。

 これは情ではない。アウロラだけではアグナルを守りきれないからだ。

 現状、なぜ部屋の外の見張りがいなくなっていたのか、いま、この城の中で何が起きているのか、ミアが何を考えているのかなど、アウロラには理解できないことだらけだ。

 ジリーすらも頼れないとなると、もはや頼れる相手が思いつかない。教会の修道女、ティリルは手を貸してくれるかもしれないが、その力は無力だ。アグナルを擁護しようとしていたヒェテイルの顔が一瞬だけ思い浮かぶ。この状況は、あの男にとっては絶好ではなかろうか。まさかあの男の手引きなのでは——などとも考えられるが、そこまで考えるのはさすがに思い込みが激しすぎるかもしれない。

 なんにしても、手助けしてもらえる存在がいる。でなければ、たぶん、城の外へ逃げたところで、すぐに捕まってしまう。できればお互いに助ける関係の。それは、つまり、クマのことだ。彼女の助けがいる。彼女のことを助けられる——かどうかはわからないが、助けには行ける。ならば、助けなくてはならない。

 が、そこにアグナルも同行させるべきかというと、悩ましい。

(ジリーさんは、本当にアグナルを殺す気はあるの………?)

 彼の腕前なら、逃げるアグナルを追って殺すことなど容易なことではないのだろうか。いや、刺されながらも彼女はジリーを食い止めてくれたのか。あるいは彼のミアにくみするのは演技で、土壇場では味方をしてくれるのではないか——そんな物語めいた期待もしないではなかった。しかしそれでクマは刺されている。急所ではないとはいえ、身体を突き刺して、やはり、演技などであるはずがない。


 まだクマが耐えていてくれていて、アウロラが駆けつけられるのなら、二対一で——いや、無理か。アウロラには武器がないし、武器があったとしても敵うとは思えない。何より、万が一有利な状況に立てたとはいえ、もう剣闘奴隷を退いて10年以上経過した自分に、もう人を傷つけることはできそうにもない。

(それでも、行かなくては)

 皇都の暗殺者。王の死という急報を龍に咥えられて届けてきた女。得体の知れない人狼。それを理解していながら、アウロラはクマのことを見捨てられない。

 とにかく、力では勝てないのならば、何か策を考えなくては。状況を使うなら、そう、いま、この状況だ。なぜこんなふうに、兵士が誰も彼も出払ってしまっているのか。逃げ出すアグナルを見咎める者はいなかったのか。

「えっと、それは………」問われてアグナルも不安そうに首を傾げる。「わかんない……でも、そういえば、誰にも出会わなかったような………」

 兵は消えたというわけだ。どこへ? 城の中にいないのだから、外へ行ったのだ。帝都市街。


 どん、という何か重いものが落ちる音がした。

 続けていくつも。城が震えた。

 何か。

 何かが起きている。アウロラは窓の外を見やる。外の風景は(といっても城を囲う壁だけしか見えないが)窓越しにくっきりと見えていたが、特に不審なものは見えない。いや、しかし、振動とともに、何か音がする。震えのような。叫びのような。咆哮のような。

 そこまで考えて、気づいた。

 いまは真夜中だ。

(なんでこんなに明るい………!?)

 外の風景がこんなに眩く見えるはずがないではないか。


 それに気付いた瞬間、窓の外にあった城を囲う壁が粉砕された。


 壁を壊したのは、龍だった。赤ワイン色の肌に黄色の髭。一週間前に現れたという龍が窓の外にいて、その巨大な青い瞳が窓越しにアウロラたちを睨んでいた。

(あ………)

 この感覚に陥るのは、二度目だ。最初は左目を奪われたとき。死ぬ。もう死ぬのだ、と思った。


 だがそのときも、アウロラは死ななかった。死ぬわけにいかなかったから、死ななかったのだ。

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