第1.20話 龍王の私生児アグナル、襲撃者の正体を知ること


 アグナルが最初にしたのは、呼吸をすることだった。

 意識的にしなければそれができないほど、目の前で巻き起こる旋風は激しかった。

 クマと全身を覆い隠す外套の襲撃者が、部屋の中で剣戟を交わしていた。たぶん、そうだ。だがそれはアグナルがこれまでジリーや他の帝都騎士団の兵から学んできた剣術とは違っていた。


 クマはほとんど踊っているかのように見えた。目を凝らしても、彼女がどのように攻撃しているのかよくわからなかったが、落ち着いて視点を引く感覚で俯瞰してみるとわかるようになってきた。彼女は回転していた。やはり踊っているようだ。回転する勢いで剣を何度も相手に向けて叩きつけている。

 彼女がそうしているのは、隻腕であるがゆえの力の差を埋めようとしているのかもしれない。あるいは得物が長剣ではなく、少し短めの剣であるせいもあるかも——などと当初は思っていたアグナルだったが、目が慣れてくるとそうではないことがわかった。彼女は失った右腕側に用途不明の金属製の器具——鎌のようなものや、輪のようなもの——を付けていて、それらを振り回して攻撃の手数を増やしているらしかった。


クマは皇都の暗殺者、らしい。しかも龍王ラーセンの暗殺を任ぜられるほどの。実際に殺したのが彼女なのかどうかはともかく、それだけの大役を任せられるのなら、相当の腕前なのだろう。実際、彼女の動きは常人のそれを超えているように思われた。

 が、恐るべきは対峙する外套の襲撃者のほうも、だった。

 全身を布ですっぽり覆い隠しているがゆえ、その足運びなどはさっぱりわからないのだが、クマの斬撃をほとんど剣で受けず、ただ僅かに身体を反らせたり、後ろに下がったりすることで避けている。最小限の動きは恐るべき熟練者であることを匂わせるもので、実際のところ、外套の襲撃者はクマとの剣戟を避けながらクマとの距離をじりじりと詰めていた。

 アグナルがジリーから習ったのは、正しく剣で剣を受け、逸らし、己が剣先を叩き込む戦い方だ。だがこのふたりの戦いは、それとはまったく違う。


(もう剣が見えない………)

 目が慣れて見えていたはずのクマの剣が、もはや追えなくなっていた。速度が上がったというよりは、動きが変わった。真っ直ぐな軌道を取らず、まるで蛇のように畝りながら外套の襲撃者に向けて到達する。これまでわずかな動作で避けるだけだった襲撃者が、細長い長剣で剣先を受けるようになった。あんな剣術は、見たことがない。それは襲撃者も同じなのだろう。


 その最中に繰り出されたのが、蹴りだった。


 ドレスが太腿まで破れて大きくスリットの入ったクマの長い足が、襲撃者の剣を握る手を捉えた。

 これが徒手空拳の戦いであれば、蹴りが出るのは当然のことだろう。

 が、真剣がぶつかり合う剣戟の最中である。刹那の見落としで太腿からすっぱり断ち切られてもおかしくないほどの激しさだったのだ。その最中に、糸を通すようにしてクマは蹴りを差し込んだ。まるで予定通りの動きのようだった。

 あるいは彼女はずっとこの機会を伺っていたのかもしれない。昨晩の襲撃者への対応を。


 狙い違わず外套の襲撃者の握り手を打ったことで、剣が飛んだ。

 一瞬だけ、クマの視線がそちらに向かうのがわかる。

 相手の得物を飛ばしたという確認。

 勝利を確信した笑み。

 飛ばされた剣。誘導。


(あ………)

 アグナルは思い出した。やり取りだ。剣術の練習をしていたときの。アグナルの剣は、弾き飛ばされたのだ。

「決着ですか」と背の高い男が言った。

「どう見ても、そうでしょ。もう、どうしようもない」とアグナルより少しだけ背の高い活発な少女が言った。

「いや、剣を飛ばされてもやりようはありましたね」と男が返す。「武器を失わせて油断している相手に殴りつけるというのは有効な手段ですから……剣闘場ではよくあることです」

 そのやり取りを聞いて、ああ、このひとはやはり剣闘士だったのだなぁ、と思ったものだ。


 外套の人物の裏拳がクマの左こめかみを打った。

 彼は弾き飛ばされた剣など一切見ていなかった。あるいは、最初から予定通りだったのかもしれない。クマの動き、取ろうとしている動き、すべてを予想して蹴りを打たせたのかもしれない。

 壁に叩きつけられるように弾き飛ばされたクマの手が、最後の抵抗にとでもいうように襲撃者の外套を掴む。

 フードが落ちるよりも先に、アグナルはこの怪しげな風体の人物が誰なのかに気付いていた。

「ジリー………」

 無敗の帝王。傷ひとつ負わない剣闘奴隷。人狼でありながら、帝都騎士団第二隊の隊長を務めあげる男。日頃はあまり活発ではなく、何をしているかよくわからず、「草でも食べていそう」などと言われ、しかし彼が隊長の任に就いてから帝都の犯罪率が急激に減少したという経歴を持つ、しかしアグナルからすれば暇を見ては自分やヴィルヘルミーナに剣を教えてくれる、優しく面倒見が良い、兄か——あるいは父親のように感じていた男。

 それが、昨晩アグナルの部屋を襲った襲撃者だった。


 彼は己の正体が明らかになったことなど気にせず、その剣先でクマのひとつきりの腕を、早贄はやにえのように壁に突き刺した。

「ぎっ」

 クマの唇から、言葉にもならない、ただ痛みに堪えることだけがわかる声が漏れる。その顔を、さらにジリーは殴りつけた。

「動くな。何もするな。行動に出ようとすれば殺す」

 その声はアグナルがこれまで聞いたことがなかったほど低く、冷たかった。

(ジリー………?)

 もしかして間違いなのかも、と思った。たとえば、ジリーによく似たひとで、たとえば生き別れのきょうだいだとか、そういうひとで、ジリーとはまったく違うのだと。アウロラから、「何かあったら頼れ」と言われるほどに信頼されていたひとが自分を殺そうとなどしているはずがないのだと。

 だが片側にギザギザとした切れ目の入った立て耳は、ジリー以外のものではありえなかった。


「馬鹿っ! さっさと逃げろ!」

 壁に剣で縫い付けられたままでのクマの叫びによって、アグナルは動いた。部屋の外へと向けて走る。

 走り始めてから、本当にこれで正しかったのかと疑念が過った。逃げた。逃げて良かったのか。クマを助けるべきではなかったのか。自分を助けようとしてくれた女性を。圧倒的な強者に争い、しかし殴られ、壁に縫いとめられ、それでもアグナルのことを心配してくれた女性を。


 だが一方でも、わかっていた。自分は弱くて、小さくて、情けなくて、ジリーには勝てるはずもなくて、勝てないとわかっているから立ち向かうこともできなくて。

 姉とアウロラを守るための騎士になりたいだなんて、言葉だけの弱い人間だった。

(アウロラ……アウロラ………)

 いまはもう、一刻も早く、アウロラに会いたかった。それだけしか考えられなかった。

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