第1.19話 隻腕の人狼クマ、未だ龍王の私生児の信頼を得られぬこと

「おいおいおい」

 天井の通風孔から王の娘ミアと人狼騎士ジリーのやり取りを聞きながら、クマは独り言を抑えることができなかった。

(アウロラ……おまえの言う通り、最悪の事態に動いているぞ)

 こうなると、是が非でもアグナルを逃さなくてはならなくなった。

(いや……気が早すぎるか?)

 ミアとジリーの遣り取りを聞く限りでは、まずはクマを捕まえるのが先決、というような話だった。アグナルを殺すにしても、クマの処刑と同時にやりたがっているような口ぶりだ。

 ひとまずそれを信用するとしても、しかし、できればアグナルに渡りをつけておきたい。いざ本当に逃げなければいけないという事態になったとき、せめて心の準備はさせておきたい。


 とすれば、どうやって捜すか、になる。

 城内の者に接触するわけにはいかない。人相書きがなくとも、人狼で隻腕と、クマの容姿は誰でも一目でそれとわかるものだ。見つかったら一発で捕まえられるだろう。人伝てにいかないのであれば、感覚を使うしかない。

 一般に人狼は人間よりも感覚器官が優れていると知られているが、血筋によってどの感覚器官の鋭さは違う。クマは匂いを辿るのは不得手で、どちらかというと聴覚のほうが強い。が、さすがにこの広い城内の音を聞き分けるのは不可能だし、アグナルが都合よく誰かと話していたり、独り言を言ってくれているとも限らない。不得手でも、匂いを辿るのが楽だろう。が、そのためには通風孔からは難しい。地面にこびりついた匂いは地面に近づいて嗅ぐのがいちばんだ。

(だが、鼻は無理だな………)

 単に人の行き交いが多いから判別が付けにくいというだけではなく、自分の匂いが酷すぎる。試さずとも、鼻が駄目なのはわかる。


(ミアとかいう女は、どこへ行ったんだ?)

 ふと、そんなことを考える。ジリーのほうは「クマを捜せ」という令を受けたあとはそのとおりにして城を出たのだろうが、ミアはどこへ向かったのか。アグナルの方向ではないだろうか。

 既にミアからはだいぶ離れてしまったが、彼女の足音を追うのはさほど難しくない。というのも、杖をついていたからだ。二本足の歩行と杖をついての移動では、音がまったく違う。耳を壁や床に当たれば、多少離れていても終える。しかも通風孔の中から、自分の音に邪魔されず。

(当たりだ)

 相変わらず狭い通風孔の中を通るのは苦行ではあったが、ミアの行く先を追ったクマはついに辿り着いた。アグナルがいる部屋に。

 医務室のときと同様、天井の穴から室内の様子を覗く。

「アグナル………!」

 アグナルは無事だった。


 アグナルの部屋は間取りそのものはアウロラが軟禁されていた部屋よりいくらか広かった。内装は整っていて、アウロラの部屋と同様、過ごしやすそうだ。ほかに違うのは、窓があっても鉄格子がはめ込まれていない事だった。部屋の外にも人の気配がないということは、見張りもいない。聞き分けがいいから見張りなど要らないと思われているのか、元剣闘奴隷のアウロラとは違って戦う技術がないから反抗することはありえないと思われているのか、あるいは逃走しやすくすることで処罰をしやすくしているのか。

 アグナル本人の身にも、怪我や拘束は見当たらなかった。彼はミアと並んでベッドに座り、何かを話しているらしかったが、接近する前に話が終わってしまった。いくら耳が良くても、必死で這いながらでは言語を理解するだけの気力がなく、内容は聞き取れなかったが、上から見る限りではアグナルの顔は怯えを含んではおらず、ミアという女にしても表情は柔らかかった。医務室での厳しい表情とは雲泥の差で、なるほど腹違いの弟から無条件の好意を持たれるのもわかるという美しさがあった。


 ミアは護衛の一人すら付けていない。音で近くにはほかに誰もいないことがわかる。

 ミアが単独で行動しているこの状況、すぐに動くべきだろうか、などと考える。彼女を捕らえるのは容易だろう。人質の価値はあるだろう。もしかすると、そのまま逃げ果せられるかもしれない。

 が、それはあまりにも危険な選択肢だ。失敗すれば、ただちに反逆者として処罰されることになるだろう。アグナルや、アウロラも。元が皇都の暗殺者であるクマと彼らは違う。下手な動きはできない。

 息を殺して機会を待つ。

 ミアが出て行く。アグナルは戸口まで見送る。そこには悲哀や憎悪はない。どこか寂しげではあれど、ただのきょうだいのやり取りのようにも見える。


 ミアのふたつの足音とひとつの杖の音が完全に遠ざかってから、クマは静かに天井の通風孔をナイフで外した。アグナルの背後に飛び降りる。

「クマ………!?」

 振り返ったアグナルの顔に含まれている色は、驚愕だけではなかった。アグナルの丸い瞳には涙が浮いていた。

「無事か」

 てっきり元気なものだと思っていただけに、驚いたのはクマのほうだった。ついそんなことを聞いてしまう。

「うん……ごめん」ちょっと、とアグナルは目元を拭う。「あの、吃驚して……クマは? ええと、どこから……あの、大丈夫? いま、ねえさまが追いかけていると聞いたけど……」

「知ってる。逃げ隠れしながらおまえを捜しにきた。おまえ、何があった? 大丈夫か? なんで泣いてた?」

 と重ねて問うと、アグナルは戸惑ったり恥ずかしがったり、あるいは悲しさを連ねるよりも、吃驚したという表情になった。クマが心配したのが珍しかったのかもしれない。

「わたしに何があった、というわけではないんです。ただ、王が……亡くなられたと聞いて………」

 それで、と呟いてアグナルは俯いた。


 アグナルとラーセンの関係は、あまり密なものではなかったとアウロラから聞いている。それはアグナルからラーセンへの呼び方からもわかる。

「おまえは父親のことを、王と呼ぶのだな」

「それは……王は王だから」

「父親は父親だろう」

「そうだね。でも……」

 ラーセンは王で、アグナルは私生児で、ということだろう。

「だが、ラーセンはおまえが次の王に相応しいと言っていたぞ」

 とクマは言ってやると、アグナルの瞳がまたまん丸になった。猫のようだ。

「え?」

「おれはラーセンに会っている。あいつが死ぬ前だ。おまえのことを頼まれた……信じられないだろうが、な。おまえ、おれのことはミアとかいう姉から、何か聞いたか?」

「それは……」躊躇いがちではあったが、アグナルははっきりと言葉を紡いだ。「あなたが王を殺した犯人で、ねえさまたちはクマを追っていると。それで、クマについて何か知っていることがあれば、教えてほしい、とも——」

「それは嘘だ」とクマは言い切ってやる。「おれは殺してない。あいつが毒を飲まされて龍に喰われたのは事実だが、なんでそうなったのかは知らん。が、ミアとかいう女が毒殺したのかもしれん。おれはわからんが、アウロラはその可能性が高いというようなことを言っていた。しかも、ミアはおまえも殺そうとしている」

 とまで言うと、アグナルの表情は驚きを通り越して、胡散臭げなものになった。


「それはない……かな」

「なんでだよ」

「だって、王を殺したのがねえさまだったら、それは、帝位を求めてということでしょ? わたしは帝位に関係ないもの」

「ラーセンはそう思っていなかったし、ミアもそうなんだろう。おまえは無関係じゃない。だから危険だ」

「そうは思えない」

「おまえはおれとミアとかいうやつ、どっちを信用するんだ」

「それは……ねえさまだけど」

「そりゃそうだろうな」

 くそ、とクマは舌打ちする。当然の話だ。


「じゃあ」と思いついて返す。「アウロラとミアならどうだ。どっちを信用する?」

「アウロラが、何か言ったの?」

「アウロラは——」

 一瞬の逡巡。嘘を吐くべきか吐かざるべきか。

 アグナルの赤銅色の瞳と視線が交錯する。

「アウロラは、基本的には黙って見ていろと言った。下手に動いて疑惑を深めるべきではないと」クマは結局、正直に話すことにした。嘘をつかずとも、アウロラの言葉はアグナルを動かすだけのことがあると信じて。「が、おまえに何か危険が迫るようなら行動に出ろとも言われた。いまがそうだ。ミアはジリーとかいう人狼の男との会話で、おまえを殺さなくてはならないという話をしていた。すぐにではないが、おれを捕まえて共々、だ」

「ねえさまがわたしを殺す理由がない」

「さっきも言ったが、ラーセンは……おまえの父親は、王に相応しいのはおまえだ、と言っていたぞ」

「そんなはずがない」

 とアグナルは断言するが、これは悲しい話な気がした。幼い子どもが、親に期待されるのは間違いだ、と言っているようなものだ。

「王とはほとんど会話もしたことがないし……何か人の上に立つようなことをした覚えもない。だから、王がわたしが王に相応しい、なんて言うはずがないんだ」

 と、ここまで言われてしまうと、クマの信頼が落ちていくような気になる。


(言い争いをしても仕方がないな)

 ミア本人の言葉を聞かせでもしない限り、この少年の考え方は揺らぎそうにない。が、この状況では、いざミアに殺されそうになったとき、クマが手を伸ばしてもその手を払いのけてミアの元へ駆け込んでしまいそうな気がする。良くない。

 幸い、まだ時間的余裕がある。ミアが急に考えを変えない限りは、クマが捕らえられない限りはアグナルは無事だ。アグナルの居場所や無事は確認できたわけで、一度アウロラに相談しに戻るべきかもしれない。彼女なら、アグナルを説得する言葉を思いついてくれるかも。

 ひとまず引き上げてアウロラのところに戻る旨を告げると、「じゃあ、アウロラのこと、お願い……お願いね?」と念を押され、部屋の入り口まで見送られた。彼は自分のことよりも、幼い頃から面倒を見てくれている乳母のことのほうが心配のようだ。

「わかってるよ」と振り返って答える。


「じゃあ、クマも」

 無事でいて、というアグナルのその言葉が言い切られるまえに、クマの身体は足元が爆発したかのように前に飛んだ。跳躍した。己の足が動いた結果ではあったが、ほとんど無意識な反応でもあった。アグナルを抱いて床に転がる。彼の身体をほとんど投げつけるようにベッドへと放り、己はさらに部屋の中央まで脚を伸ばすと、その勢いで立ち上がって振り返る。

 背後から感じたもの。それは殺気。

 クマの背後に立っていたのは、昨晩相見えたフードの襲撃者だった。

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