第1.17話 隻腕の人狼クマ、王の娘を見ること
陽が沈みかけていたことはクマにとっては都合が良かった。屋根の上を移動していても誰かに目撃される可能性が落ちる。暗がりでもクマの目は遠くまでよく見渡せた。唯一心配なのは月明かりを受けて光る目だが、遠目であれば猫がいる程度に思ってくれるだろう。
(いない………)
灯りが漏れていないことは外から覗けば明らかだったが、念のためいちいち屋根から降りて確認してみても、アウロラが閉じ込められていた部屋以外の鉄格子の付いている部屋の中に人の気配はなかった。
(アグナル……どこへ行った?)
可能性を思い浮かべる。
窓のない部屋に監禁されている——より立場の低いアウロラですら鉄格子つきとはいえ窓付の部屋に入れられていたのだ。警備がしっかりしていれば逃げられる可能性は低いだろうし、わざわざ悪い待遇でもてなすことはないだろう。
普通の窓のある部屋に入れられている——アウロラに比べれば、アグナルは大人しいだろうし、アウロラが人質になっていると知れば、下手な行動には出ないだろう。これはあり得るかもしれない。
城の中にはいない——これは可能性が薄いだろう。アウロラは城の中に連れていかれたのに、アグナルを連れていかない理由はない。ミアという女にしても、自分の目の届くところに置いておきたいはずだ。
周囲を取り囲む
アグナルは死んだ——考えたくはない。
(ふむ)
とすると、潜入しなければならないのは居館の適当な部屋か、主塔のどちらか。主塔は難易度が高すぎる。まずは居館の中で様子を見たい。しかし中をうろつき回るのはリスクが大きすぎる。
そんなことを考えながら屋根の上から上へと移動していると、換気口のような穴が目に入った。鉄格子が嵌ってはいるが、螺子穴をナイフの先で回して抉じ開けると、ひと一人が入れそうなくらいの穴が姿を現した。通風孔か、暖房用の換気口あたりだろう。この大きさの穴が都合良く続いているかどうかは怪しいが、しかし、試すだけの価値はある。
中は狭かったが、幸いクマの体格ならギリギリ通れるだけの大きさが続いているらしかった。メンテナンス時の利便性を考慮しているのかもしれない。穴を這って移動するのには苦労はしたが、人目を気にして移動するよりは遥かに楽だ。
どこをどう動いているのかも判別が付かないまま、ただ狭い通路の中を這っていく。人狼であるがゆえ、暗闇はものともしないが、埃と炭でドロドロだ。何より、片腕で這うというのが辛い。肩から千切れていたならまだしも、肘からないのであれば、不幸中の幸いで狭さに対応した、ということもない。
「目覚めたのね?」
感覚を最大限に研ぎ澄ませていたクマの耳に、そんな声が飛び込んできた。女の声だ。下から。真下。声は動いている。通路を歩いているのだ。下は通路。
「はい、ええ、まぁ、いちおう」
と、こちらは男の声。
「話が聞きたい。あの子は、どちらに?」
「医務室に」
「いまから行きます」
「それは構いませんが……しかし、ちゃんと話が聞けるかどうかは」
これはジリーだとかいう、人狼の声だと気づく。治安維持隊の男。軍では隊長格なのだったか。彼は私生児の乳母であるアウロラにも丁寧な物言いをしていたが、しかし誰にでもそうというわけではないだろう。この声色からは、相応に敬意を払っているように感じられる。
(こいつがミアか………)
美しい声ではある。単に暴力的な手段だけではなく、女として集団の中に入り込む手法も心得ているクマにはわかる。美しい女だ。腹違いのきょうだいである、アグナルを成長させたような、かもしれない。金髪の、美しい、女。もっときつそうな容姿だろうが。いや、そもそもアグナルは男だが。
(あの子……ってのは、アグナルのことか)
城内にいるのは兵か王族かメイドだろう。この状況で、「あの子」などと呼ばれるような者は、連れてこられたアグナルに違いない。
「追うか」
言うは易いが、片腕で這い、歩いている人間を追うというのは容易ではない。しかもこちらは隻腕である。ミアという女の歩みが遅いことだけは幸運ではあったが、上下移動も含まれるとなれば気が抜けない。おまけに、彼女の近くにはジリーという人狼がいるのだ。日頃から天井まで気を配って動いているとは思えないが、大きな物音を立てることは避けたい。通風孔はどこまでも続いているようにかんじた。
汗塗れ、埃塗れになりながらクマは進んだ。自分がどこをどう進んでいるのかは覚束なかった。ただ、見失わぬように努めた。たぶん、一階まで降りた。たぶん、見失わなかった。
(医務室だな)
薬品の匂いで、目的地に到着したことを理解する。居館を登り、匍匐前進を続けたりと腕が攣りそうなことばかりしてきたので、ほっと安堵できた。換気のためか、天井に格子が付いているので中の様子も伺える。
医務室は広い空間だった。清潔そうな広い部屋に、等間隔でベッドが置かれている。奴隷都市の帝都なので、もっと薄汚い場所を想像していたのだが、想定外に整った部屋だ。
住人はいまはひとりしかいないらしく、ミアたちが訪ねてきたのが誰かはすぐにはわかった。
「ミアさま……?」
と訪問者を認めて身体を起こしたのは少年ではあったが、アグナルではなかった。アグナルよりも、二、三は年上であろう。
(なんだ? だれだ?)
と天井格子越しに少年の様子を観察していると、なんとなく推測ができたような気がした。少年の顔色は悪く、目には隈ができている。目立つ打撲傷や創傷こそないようだが、指や足に包帯が巻いてある。足のほうはわからないが、指の爪はいくつか剥がれていた。
(ラーセンの死を伝えてきた伝令か)
クマやラーセンがいた駐屯地から帝都までの距離は、龍での羽ばたきならわずかな間ではあったが、馬なら飛ばして一週間というところだ。一週間、というのは、つまり、飲まず食わず休まず、馬は使い潰して一切の障害を物ともせずに走れば、という意味で、実際そのとおりのことを彼はやってみせたらしい。
「ミアさま……すみません、すみません………」と少年はぼろぼろの身体で泣きながら嗚咽を零した。「王をお守りできず………」
「あなたは?」
と美しい、しかし冷徹な声でミアは少年に名を問うた。
「ぼくは、ぼくは……何もできなくて………」
少年の声はかすれ切っていた。クマがアグナルに拾われたときよりも酷いだろう。クマの場合は片腕を龍に食われていたとはいえ、飲まず食わずだったのは二日間だけだ。この少年の疲弊とは比べられまい。まだ数時間程度しか休んでいないだろうに、意識がはっきりしているだけでも大したものだ。
「あなたのお名前は?」
とミアが訊き直す。
「ルーネ、です」
「そうですか。では、ルーネ」とミアはルーネ少年の隣のベッドに腰掛けて言った。「体調が十全ではないかもしれませんが、あなたが見聞きしたことを教えていただけますか?」
「はい………」
疲弊と心労のためだろう。ルーネ少年の言葉はたとたどしかったが、ミアやジリーは先を促したりはしなかった。
ラーセン王の小姓として行軍に同行していたルーネ少年が王の死を目撃したのは七日前だった。彼は王の天幕から、独り言にしてはやけに大きいラーセンの声が聞こえてきたらしい。
(たしかにあいつの声は馬鹿でかい)
味方にするのであれば秘匿にしておかなくてはならない暗殺者、クマに話すというのに、彼は声を抑えるということをしなかった。わざとやっているのではないかと思ったくらいだ。しかしクマもルーネ少年が天幕の外で聞いているとは思っていなかったので、油断していたと認めなければならないだろう。
「王は、クマという女性に……何かの見返りに、というような口ぶりで、自分の私生児を——つまりアグナルさんを——守ってほしい、というようなことを言っていました」
「アグナルを?」
聞き返すミアの声は少し上擦っているような気がしたのは、思い込みだろうか。
「はい……王に相応しいのは彼だから、守れと、そんなことを………」
「なる、ほど」
生憎と角度が悪く、ミアの表情は見えない。が、もし見えるのであれば、その顔は邪悪に充ち満ちて蛇のようになっているのではないかと思われた。
ルーネ少年の話は続いた。
誰と話しているのかはわからないが、重要そうな話をしていたので聞いてはいけないとその場を離れようと思ったこと。
王が突然咳き込み始めたこと。
慌てて中に踏み込むと、血を吐く王と向かい合う人狼の女がいたこと。
そして。
「王は立っていました。血を吐きはしたものの、しっかり二本の足で立って、でも、自分の身に起きている出来事を理解しているようでした。そうして、ゆっくりと空を見上げて——そうしたら、聞いたことのないような分厚い音が聞こえてきました。天幕が吹き飛びそうになって、地震みたいな鳴き声が聞こえて……そうして、本当に天幕が吹き飛ばされたんです。弾き飛ばされたのかもしれません。
龍がいました。
龍が空から舞い降りてきて、王の前に立って、そして、王を一息に飲み込んだんです」
それはまさしく、クマが目の当たりにした場面だった。
彼は見たのだ。龍が王を喰らう瞬間を。
だが何がどうしたのか、は見ていても、何が起こったのか、その真実は知るまい。クマは知っている。あのとき、ラーセンは死んだ。毒でか、喰われてか、どちらでもいい。死んだ。だが彼とクマの契約はまだ生きているのだ。
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