第1.16話 隻腕の人狼クマ、私生児の乳母と鉄格子越しに会話をすること
「あなたね、本当……!」
言葉を檄しかけたアウロラは、しかしあまり大声で独り言を言っているように思われるわけにはいかないということか、入り口のドアを振り返り、それから小声になった。
「あなたね、本当、どこ行ってたの?」
「すまん、街を歩きまわって地理を把握しようとしていたんだが」
とクマは正直に答えた。
アウロラは鉄格子をどうにかして開けられないかと試したようだが、開くはずがない。その間、クマは彼女がいる部屋の中の様子を観察する。ベッドやテーブル、絵画まであり、生活するぶんには十分な設備が整っているようだ。少なくとも監禁はされていない。そしてアウロラのこの反応を考えると、クマから逃げていたという調子でもない。軟禁か。
アグナルの姿が見当たらなかった。
「あなた、ビリビリじゃない!」と鉄格子を諦めたアウロラが、クマの姿を見て驚きの声をあげた。「何があったの?」
「いや、自分で裂いただけだ」
アウロラが指摘したのは、クマの装いについてだった。裾が裂けて大きくスリットが入ってしまっているのだが、これは仕方のないところだ。お淑やかなロングドレスでは壁は登れないし、ハーネスの取り付けもできない。借り物(しかもアグナルの亡き母の持ち物である)を裂くのは申し訳ないと、これを裂くとき一瞬だけ思ったものだ。
「とりあえず、あなた、無事なのね?」
「ま、そうだな。あんたは? あとアグナルは?」
「わたしは大丈夫……」アウロラは唇を噛む。「アグナルは、わからない。連れてはいかれたみたいだけれど、どこに閉じ込められているのか……」
「ふむ」
ほかにも鉄格子付きの窓はいくつかある。一度屋上まで登ってから逆にロープを降りる形であれば、登るよりずっと楽だろうから、効率的に探せるかもしれない。が、一世話人であるアウロラと違い、アグナルは別の場所にいる可能性もある。
そんなふうに思案していると、恐る恐る、という調子でアウロラが「ええと……あの、大丈夫? ぶら下がってて、辛くない?」などと尋ねてきた。
「急に親切になるな」
「だって、気が動転しているんだから仕方ないじゃない。もう。ここは4階、落ちたらタダじゃ済まないよ?」
「見ての通りだ」
とクマが手を綱から離してやると、腰のハーネスと肩にかかったスリングで身体が宙吊りになる。急拵えの道具は身体に合っておらず締め付けてくるが、すぐに落ちる心配はない。
だというのにアウロラは両手で口を抑えて、信じられない、という表情になった。
「ちょっと、止めてよっ。危ないでしょ、ちゃんと掴まってなさいな」
「危なくないってことを見せてやったんだろ」
「何が起こるかわからないんだから、ちゃんと持ってなさい」
「へいへい」
と軽い返事を返す。
「とりあえず、あんたとアグナルが捕まったことはわかった。帝都軍の兵からの早馬が来たんだな? で、おれが王を殺したことになっていて、あんたらの関与が疑われた、と、そんなところか?」
と訊いてやると、アウロラはゆっくり頷いた。
「あなたがやったことになっているの」
「おれじゃない。信じろ」
と言うと、アウロラは額に手を当てて天を仰いだ。
「なんだ、どうした」
「あなた、いちいち心に響くことを言ってくれるよね」
「そうか? すまんな」
この「すまんな」は、自分が暗殺者として疑われるがために、アグナルとアウロラも捕らえられることになったことへの謝罪でもあった。
すまんなじゃないでしょ、などとアウロラは軽口を諌めたりはしなかった。彼女はじっと鉄格子越しに見つめてきたので、クマは目を逸らした。
「この状況になったののは、たぶん、あなたのせいじゃない」とアウロラは言った。「もしかすると、あなたのせいで悪くなったのかもしれないけど……最初から計画されていたように感じる。昨晩の襲撃もそうだし……むしろ、あなたがいてくれたのは良かった」
「そうか」とクマは目を逸らしたまま頷いた。「とりあえず、逃げるぞ……この鉄格子、どうにかできるかな」
「逃げられない。逃げたら、罪を認めることになる」
「阿呆か。そんなこと言っていられる状況か」
罪を認めてしまうから、で行動を否定して最後に到達するのが死ならば、罪などいくらでも認めるべきだろう。
「……正直なところ、どう動くべきか、の具体的な指針がない」とアウロラは苦虫を噛み潰したような表情で言った。「ただわかるのは、すべてを仕組んだのがミアさまだとして、アグナルが邪魔だと感じているのであれば、もう何もできることはない。たぶんアグナルは死んでいて」言葉を吐き出す。「もう何もできることはない。もう何も」
「そうはなっていない」とクマは希望観測的に言ってやる。
「そう。そうであってほしい。でも、そうなってはいないのは、そうならないだけの理由があるからだと思う。もしミアさまが何もかも裏で糸を引いているのだとしても、アグナルが直ちに邪魔になる存在ではないということ」
帝都の王、ラーセンとその娘ミア、それに私生児のアグナル。本来であれば、私生児のアグナルには帝位を受け継ぐ資格はなく、ミアのほかに男子がいない以上はミア以外に適切な者はいない。だがアウロラの話によれば、女のミアが帝位を継ぐことを良しとせず、アグナルが帝位を継承すべし、などと考える勢力がいるらしい。先ほど訪ねてきていた二人目の訪問者、顔の四角い男がそれだということだ。
「あのひとが本当にきょうだいを殺しているのかわからないけれど……アグナルのことは、目にかけていたように思う」
「で?」
「アグナルはあのひとのことを好いていて……だからあのひとに排除されようと知ったらきっと悲しむと思う。でも、わたしはそれでいい。罪を問われてもいいし、帝都を追われてもいい。でも、殺されるだけの罪は駄目。害されてほしくない。あのひとにとってアグナルが邪魔なら、それでいい。それを説明する。ミアさまは……あのひとはよくわからないひとではあるけれど、人間的な感情があるし、アグナルを殺せば自分の立場も——帝都の王になったとしても、良くはないということはわかってくれるはず。だから、わたしは下手な手は打ちたくない。とにかく、無事であってほしい。五体満足であってくれれば、アグナルが無事なら、それでいい」
クマはこのとき初めて、目の前の眼帯をつけた歳上なのに童顔で幼く見える女に対し、なぜ親しげに感じるかに気づいた。この女は、たぶん、自分がなりたいものだ。アウロラにとってのアグナルは我が子同然で、クマも自分の子に対して彼女のように振る舞いたいのだ。まだ触れたことさえないあの子に、アウロラのように愛情を注ぎたいのだ。
「……おれは何をすればいいんだ?」
と尋ねると、アウロラはぱちくりと瞬いた。翡翠色の瞳がまん丸になる。
そうして、言った。
「助けてくれるの?」
「助けてくれるの、じゃない。そうじゃなかったら、こんなところまで来ない。阿呆か、おまえは。くそ、ボケてやがる」ふっ、と息を吐く。「おれの目的は、アグナルを守ることだ。言っただろ? それがラーセンとの契約だ」
「でも王は………」
「死んだが、あの契約は生きている」
ラーセンは死んだ。だがその契約はまだ生きていることを、クマは知っている。信念だとか、約束は守るべきだとか、そんな精神的な意味合いで、ではない。実際に、生きている。ラーセンは保証した。クマの娘のことは彼がどうにかすると。代わりに、己の私生児を守れ、と。彼が王になる道を阻む者を排除せよ、と。
「とにかく、だ、アグナルと」それにおまえを「守るためには、いったい何をすればいいんだ? 何もしないのがいちばんか?」
「たぶん、そう」アウロラは頷く。「現状がわたしの把握しているとおりだったら、だけど。そうじゃない場合が、心配」
「そうじゃない場合とは、例えば?」
「ミアさまが帝位に着くためには、なんとしてもアグナルが邪魔になる場合……そんなのがあるかどうか、わからないけど」
クマは腰のハーネスで吊られたまま、隻腕で首を揉む。
「……少し、中の様子を見てきたい。アグナルの居場所を確認して、できれば情報を収集したい。ミアという女が何を考えているのか、だとか、これからどうするつもりか、とか」
「アグナルの居場所の確認はともかく、情報収集って、どうやって?」
とアウロラが妥当な質問をしてくる。
「行き当たりばったり、だな。優先するのはアグナルの居場所探しのほうだ。場所を確認して、特に問題がなさそうなら、戻ってくる。それでどうだ?」
「……あなたが兵士に見つかって、事態が悪くなる可能性のほうが高そう」
「そりゃ、すまんな」
クマは吊られたままで肩を竦めてみせた。
「でも、やってほしい……」とアウロラは視線を伏せて言った。「もし、もし……あなたがやってくれるのなら——」
「アウロラ」
とクマが隻眼の女の名を呼ぶと、彼女はまるで自分の名前が初めて呼ばれたかのように目を見開いた。
「おれは……おれはな、人狼で、皇都では人権がなかったし、帝都なら奴隷だし、学都に行けばたぶん実験台だろう。どこにもいられない。だから、この騒動が終わって、娘と一緒に皇都を出られたら……たぶん、ほかの都市には行けないだろう。〈半島〉を出るか、でなければ、
アウロラはしばらく目を瞬いていたが、やがて小さく、笑った。
「あなた……たまにかっこいいこと言うけど、たまに可愛いことを言うから、狡いね」
「狡くは、ない」
「友だちだね。うん、わかったよ。あなたの娘さんにも会いたいし……わたしたちも、帝都を出ることになるかもしれないしね」
「そうだな……うん、そうだな」
改めて、守るべき対象を思い出す。アグナル。そして己の娘。為すべきこと。ラーセンとの契約。龍。
「そうだ、これ」
屋上に戻ろうとしたクマは、ふと思い出して腰に吊った剣をハーネスから外し、鉄格子の間に差し入れる。
「これは……」
「おまえのだろ。朝、見てたやつ。渡しとく。まぁ……必要ないかもしれんが」
アウロラは驚きのまま剣の柄を取り、鞘から抜いた。戦で使うには些か頼りなさを感じる、幼い剣闘士だったゆえに取り回しを優先したのであろう、錆びた短い剣。
「まだ、使ってないのね?」
と血が付いていないことを確認したらしく、アウロラは刀身を鞘に収める。
「まだそういう状況にはなっていない。それに、怪我させたり殺したりすりゃ、面倒ごとになるのはわかっているからな」
「そう。良かった」あのね、とやけに真剣な表情でアウロラは鉄格子に顔を近づけた。「あなた、面倒だとか、そういうことを抜きにしても、できる限り人を殺さないで」
「それはわからん」
「帝都のひとも、そうじゃないひとも、たぶん、あなたがこれまで殺してきたひとも……死んだら悲しむひとがいて、それだけの価値がある人生があったのだと思う」
「そうじゃなかったかもしれん」
「そうかも」
「それに、おまえだって剣闘場で殺してきたのだろう?」
「そうだね」だから、うん、とアウロラは己に言い聞かせるように頷いた。だから、と。「できる限り……ね、お願い」
保証はできない。クマは暗殺者だ。暗殺者で……それ以外ではない。
だがこれからは、アグナルを守らなければならない。娘のために、アグナルを守る。だから多少は、暗殺者とは違うこともするだろう。
正直にそう言うと、アウロラは満足したように頷いた。
「じゃあ、これは預けておく」
と剣を押しやってきた。
「なんでだよ」
「小さいから、邪魔にはならないでしょ? 無闇に使わないのなら、役に立つとだろうし」
託された小剣をしばらく弄んでから、ハーネスに取り付け、「じゃあ、借りてくぞ」とクマは言った。
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