第1.15話 隻腕の人狼クマ、城を登ること

 街をうろついていたクマがアグナルの家に戻ったのはまだ陽が高かった時間帯だ。万が一の事態への備えを求めていたのだが、市街地の地理はいちおう頭に入った。皇都の教皇どもから帝都の地理は教えられていたのだが、地図を見るだけと歩いてみるのは違う。

 帝都を歩き回って驚いたのは、人種が多用なことだった。人間はもちろん、クマのような人狼がいるし、角付きや小人もいる。もちろんその数は多くはないし、主従の関係も見られるが、人間が従の場合などもあって、人間が圧倒的に多数で頂点に立っていた皇都で長いこと暮らしてきたクマには、知識としてあっても目の当たりにするとカルチャーショックだった。

(ま、とはいえ、おれには関係ない)

 帝都がいかに暮らしやすい街だろうが、そうでなかろうが、自分の道を歩むためには、いまできることをするしかない。


 そんなことを考えながら家に戻ってきたクマを迎えたのは小柄な眼帯の女ではなく、駐屯する兵士たちだった。昨晩の襲撃があってから歩哨がつくようになったのは知ってはいるが、家を出たときと比べると人数が多かった。倍以上いる。おまけに、歩みが速い。暗殺者であるクマは、歩み方ひとつで相手が警戒心を抱いていることを理解した。

「クマ……さん?」

 と兵士が疑問形で声をかけてきたが、クマは返事もせず、動かず、ただ視線だけで受けた。なんだ、何があった、と。

「ご同行願えますか? 昨晩の襲撃者の件で——」

 嘘だな、と後半の言葉を聞かずに判断する。表情と声のトーンでわかる。相手の兵士は初対面ではあったが、不自然さは読み取れた。


 目の前にはクマに声をかけてきた兵のほか、隣で警戒している兵、それにじっとこちらを眺めている兵が2名いたが、クマは滑るように目の前の兵たちの間を抜けた。はたから見れば、ただふたりの間に割り込んだが、足の運びからクマの姿は一瞬だけ死角に入り、消えたように見えたかもしれない。

 が、クマは歩いただけだ。何か咎められるようなした覚えはない。それなのに急に声を荒げるのであれば、それ相応の理由があるということで——クマは事態の進展を理解した。

(もう急報が届いたか)

 事態が進展するとすれば、それは龍王ラーセンの死が報じられたとき以外にありえない。

 制止の声はかかったが、気にせずに進む。走らず。走ってはいけない。走るのは不審だ。歩く。一歩を長く。身体を滑らせて。

「アウロラ! アグナル!」

 さらにふたりの兵の間も抜けて家の中に入り、家人の名を呼ぶ。反応なし。居間を横切り、台所まで到達したが、誰もいない。

(連れていかれたのか………)

 ラーセンが血を吐いてから龍に咥えられて空に浮かぶまでの間は一瞬で、だから自分の存在がどう扱われているのかまではわからなかったのだが、予想することくらいはできる。いつの間にか王の傍らにいた女、毒を吐いた王——クマが殺したと思われても仕方のないところだ。


(と、するとアウロラとアグナルは………)

 暗殺者を匿っていた、ということになる。いや、そうはなるまい。というのも、クマの存在は公然だったからだ。積極的に話はしなかったものの、襲撃があったときに応戦したことをアウロラは治安維持隊に言っていたし、治安維持隊のジリーだとかいう人狼の男のほか、複数の治安維持隊がクマの存在を認識している。クマが暗殺者であり、アウロラやアグナルと繋がっているのであれば、クマたちの対応は不自然だ——そんなふうに帝都の騎士団が思っていてくれればいいのだが。

 むしろ普通に考えるのであれば、クマが王だけではなく、アグナルまでも手にかけようとしたのだ、と考えるほうが自然だろう。帝都に忍び込み、王の血縁すらも狙っているのだ、と。そうであれば、どうなるか。狙われているアグナルたちを隠すのは当たり前かもしれない。

(そうであればいいが………)

 王の娘、ミア。次期帝位を継ぐ女のことを、アウロラは怪しんでいた。会ったことのない女のことだ、クマにはその女のことはわからないが、この状況は、どうも、クマが期待していたような状況ではないような気がする。


「止まれ!」と背後から声がかかる。追ってきた治安維持隊の兵たちである。殺気までは感じはしない、が、剣柄まで手が動いている。殺しはしないが、物理的な拘束は厭わない、というような心が透けてみえる。

 クマは止まり、そのまま歩いてきたのと同じようにバックする。そうして、入ってきたのとほとんど同じ歩幅のままで追いかけてきた兵士2人の脇をすり抜けるや、反転して駆け出し、残り2人の兵の間を抜けた。外へ出る。

(使うまでもなかったか………)

 台所で近くにあった武器を握ったのだが、その必要もなかったらしい。とはいえ、武器は持っていて役に立たないということもないだろう。後ろを振り向かずに加速、追いかけてくる兵士を引き離しながら、武器を確かめる。今日の朝、アウロラが見ていた剣だ。彼女が剣闘奴隷時代に使っていたものだろう。彼女の体格に合わせてか、通常の剣より刀身が短いため、隠すには好都合である。


 街路の脇に置かれていた粗大ゴミを足場にし、一動作で音もなく壁を乗り越え、壁越しに耳を澄ます。追いかけてきた兵はクマが隠れたことに気づかず、そのまま行ってしまったようである。ひとまず息を吐いて落ち着けるようになった。

「さって、どうするか………」

 クマの目的は単純だ。ラーセンとの契約を果たし、娘とともに自由になる。それだけだ。そのためには、だから、アグナルを守らなくてはならない。

(居そうなのは、城だろうなぁ………)

 アグナルが暗殺の指令者として疑われているにしろ、暗殺される恐れがあるとして守られているにしろ、連れていかれるのは帝都の中央に佇む城だ。帝都らしい建築技術が駆使された建物は帝都のどこからでも見えるような高層建築物だ。都市の中だというのに周囲を高い壁で囲んでおり、さぞ堅牢だろう。一周して弱そうな場所を調べるのには時間がかかりそうだ。壁に張り付いて攀じ登るのは困難だろうし、よしんばそれができたとしても、都市の中央にある城の周囲の壁に取り付くのは目立ってかなわない。

 ひとまず東の門の様子を確認する。門番は2人。油断しているように見える。番についたばかり、というようには見えない。数時間は番をしているのだろう。昨日夜更かしをしすぎてとても眠い、というのでなければ。あるいはこの任務は退屈なのかもしれない。恰好は、朝見た治安維持隊とかいう兵たちのものと同じで、分厚そうな生地に覆われた服を着てはいるが、目立った鎧はなく、武器も腰に佩いた剣だけだ。2人であれば、簡単に無力化できる。手段を選ばなければ。

(いや……駄目だ)

 まだ状況がわかっていないし、クマがここで誰かを殺したら、それはクマが王を殺した暗殺者であるという風評に手を貸すことになる。殺さずとも……暴力的な手段は取れない。

 これまで、そんなふうに手段を模索したのは初めてだった。敵はすべて殺してもよくて、暴力を行使できないなどという状況はなかった。


 だからクマは賭けに出た。壁に沿って門まで近づき、石を拾い、投げる。誰にも当てず、ただ門番たちの視線を誘導するように。

 石が地面に当たるタイミングで壁に沿って歩き始める。ふたりの番兵の視線が動く。番兵の足は動かない。ただ石が落ちてきただけでは動じない。そもそも石が投げられたなんて思わない。ただ音がしたから、そちらを見ただけ。それだけでいい。

 番兵は壁を背にしてはいたが、背を預けてまではいなかった。背中と壁の間の僅かな隙間、そこを通り抜ける。足音はしない。息もしない。視界には入らない。だから気づかれない。そう期待した。

 失敗したときのことは何も考えていなかった。それしか思いつかなかった。そのとおりにした。思い通りに。それだけ。

 門をすり抜けたあとも、すぐには息ができなかった。呼吸の音で門兵に気づかれるかもしれないから。いくら呼吸が苦しくても、息を吸うことはできない。走ることもできない。ただ、我慢をして歩く。最適な速度で、歩く。辛く、苦しい。だがここで呼吸をすれば、複数人から追われることになる。末路はたぶん、死だろう。クマの置かれている状況は良くはない。だが娘よりはマシだ。皇都にいるクマの娘。半人狼。父親が誰かもわからない、ただ〈改宗〉に使われたときにできた子ども。会話すらしたことがなく、認識すらされていない血縁。皇都の糞どもに認められるために耳と尾を切り取られることを思うと、いま呼吸を止め続けることより辛く感じる。「あなたは娘さんを助けたいのね」とアウロラは言った。そんなんじゃない。娘だなんて思ってすらいない。ただ自分から生まれたもので、それを、それを、どうにかしてやりたい。不幸にさせたくはない。

 生垣の隙間に飛び込み、ようやく呼吸を再開することができた。

 身体全体に痺れるような感覚を覚える。あのまま息を止めていたら、道具を何も使わずに自殺できていたかもしれない。


 おおよその城の外観は事前知識や龍に連れてこられたときに見て知っていたので、全体的な構造はおおよそわかっている。

(建築技術は、さすが進んでいるな………)

 というより、帝都の技術全般が進んでいるのだろうか。鍛治や冶金やきんのみならず、生活に関わる技術・製造形態は皇都に比べると遥かに高い。というより、皇都が低いのかもしれない。なんにしても、〈半島〉の制覇を目指しているだけある。中心の主塔ベルクフリートは40mはあって登るのは無理だろうが、居館パラスの高さはその半分程度だろう。組み付ける程度の出っ張りはあるし、外塀が都民の目から姿を隠してくれるため、歩哨などがいないのであれば、いけなくもない。問題があるとすれば、クマがまだ隻腕になって日が浅いということだ。片腕一本で、体重を支えられるだろうか。体力も、完全に回復しきったかというと怪しい。


 迷っていても仕方がないので、目安を付けて、登る。

 アグナルやアウロラを外から探すのは簡単だ。監禁されているにせよ、暗殺者からの襲撃を恐れているにせよ、鉄格子の付いている窓のある部屋が望ましい。鉄格子付きの窓は限られていて、居屋形の棟にそれらしき建物を見つけた。4階建て構造の、4階。

 街に出ている間、地理の把握のついでに必要になりそうな装備を見繕っていた。そのほとんどはゴミとして捨てられていたものか、でなければ盗み取ったものであるが、現状では四の五の言ってはいられない。しかし、アウロラにそれを告げたら、きっと怒られるだろう。あの女は真面目そうだ、などと考えながら、鎌を組み合わせて作った鉤を振り回し、投げる。鉤は棟の屋上に引っかかった。

(誰もいませんように)

 と祈りつつ、しばらく待つ。何も起きない。大丈夫そうだ。


 鉤には縄が結ばれている。何度か縄を引っ張り、鉤のかかり具合を確かめる。大丈夫そうだ。

(さて、片手か………)

 隻腕を補うために道具は用意したが、いずれも専門のものではなく、片手で無理矢理作り出したものである。ハーネスは腰と太腿に通す安全帯で、連結されているカラビナ(開閉機能付き金属輪)にロープを絡める。これで手を離したとしても、とりあえずは落ちない。

 問題はここからだ。両手があればいくらでもやりようがあるが、片手ではできることに限界があるうえ、道具も限られている。まずロープを結ぶのに時間がかかる。いまはあまり時間がない、かもしれない。

 用意したのは肩にかけるロープに繋がった握り輪だ。輪の中に鉤縄のロープを通すと、中の歯が引っかかって動かなくなる。握ると歯が緩み、動く。左手で握り輪を掴み、肘から先のない右肩にロープをかける。握り輪を握る。右肩を引く。身体が肩を引いたぶんだけ上がる。握り輪を離す。歯がロープに引っかかって固定される。肩のロープの縄目を移動させる。輪を握る。肩を引く。登る。休む。縄目の移動。握る。登る。移動。

 

 やってみたが、肩の力で身体を持ち上げるというのは想定以上に重労働だった。力としては腕で引くのとさほど変わっていないはずなのに、ストロークが違いすぎる。苦労する。しかし隻腕で縄を無理矢理登るというのは、短距離ならともかく、4階分というのは無理難題だろう。ぶら下がった縄というのは揺れるもので、力で登れるものではないのだ。ゆっくりと登らなくてはならない。片手で飛びつくように登るのは、無理だ。

 何度も繰り返し、汗が地面に落ち、陽が赤くなった頃になってようやく、四階の窓に辿り着いた。これでこの窓じゃなかったら、怒りを通り越して噴飯ものだな、などと思いながら中を覗くと、見覚えのある結い上げた栗色の髪が見えた。アウロラ。無事だ。

 安堵とともに声をかけようとしたが、ほかに誰かがいた。人間だ。

(客か)

 アウロラと話しているのは、どうやら修道女のようだ。首も手首も隠す修道服に左右に垂らした頭巾という恰好は皇都のものと似ているが、少し違う。帝都の修道女のようだ。

「アグナルさんが王の暗殺を指示したというお話は、嘘ですよね?」

「ええ、嘘です、そんなことは、ぜったい、ぜったいに、ありえません」

 などとふたりは話していた。帝都の宗教的事情はあまりよく知らないが、宗教関係者が法を担っているというわけではないのだろう。アウロラの話し方は(クマに対するものほどではないけれど)くだけたもので、であれば単なる知人として見舞いに来た客なのかもしれない。

「アグナルはただ、クマを拾っただけで……」

 とアウロラは力説していた。

「その……クマさんという方が人狼の女性ですか? その方が王を殺したというのは……」

 という問いかけが修道女からなされたが、それに対するアウロラの言葉は簡単だった。

「それも間違いです」


(あいつは阿呆か)

 クマはそう言いたくなった。何が、間違いです、だ。アグナルの王の死との関係性を否定するのがわかるが、クマとは会って数日の関係だ。わざわざ擁護する間柄ではない。クマの側には、ラーセンとの契約でアグナルを助ける理由はあるが、アウロラの側にはクマを助ける理由は何もないのだ。

 それなのに、あいつは。

 修道女が去っていくと、次には顔の四角い男がやってきてアウロラと話し込んだ。握り輪をで身体を固定できるのは幸いだ、とクマは思いながら、ハーネスと歯付きの握り輪をで身体を固定した。急拵えのものなので腰も太腿も痛いが、この際文句は言っていられない。


 顔の四角い男が去ってから、クマはようやく窓の鉄格子を膝で叩くことができた。

「クマ……!」とアウロラが窓を開けて驚きの表情を見せた。「あなた……どこ行ってたの!? ここまで登ってきたの……!?」

「見ての通りだ」

 と受け答えると、なぜか急にアウロラが渋い顔になった。

「なんだよ」

 と尋ねると、アウロラはこう言った。

「あなた、何この非常時ににやにや笑ってるの? 良いことでもあったわけ?」

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