第1.12話 人狼騎士ジリー、私生児の乳母に呼び出されること
城門の門番に挨拶をしてから跳ね橋を渡る。巨大な石塀で囲まれた〈帝都〉であるが、力任せに突撃してくるものは防げても、雪のように静かに入り込んでくるものは止めようがない。それでも城の前に門番を立てておけば、城の中への潜入はいくらかマシにはなる。次善策だ。あまり効果はないかもしれないが、しかしないよりマシだ。ないよりマシなら、やっておいたほうが良いのだが、城門当番の者にそれを理解している者はあまりいない。ただの眠い、暇といえば暇だが、かといって立ちっぱなしの面倒な作業、程度に思われている。これでは効果も薄いだろう。
(ま、無駄と思うのも仕方がない)
結局、どれだけ防衛に力を注ごうが、攻める側がなりふり一切構わず、策謀知謀の限りを尽くし、命を捨ててかかってくるのであれば、それを止める方法はない。
それに空からも、駄目だ。龍は止めようがなかった。
昼下がりの帝都。繁華街から人の少ない湖畔の方向へ歩きながら、帝都騎士団第2隊隊長であるジリーは空を見上げた。空は青く、雲ひとつない晴天だ。これほど日差しが強いのに、子どもたちはよくやる。アグナルもヴィルヘルミーナも、積極的だ。夢がある。自分はあのくらいの年齢のとき、どうしていただろう——思い出せなかったが、それは何も覚えていないからではなかった。当時はもう剣闘奴隷で、戦いばかりで、ただ目の前の相手を倒すことだけを考えていた。夢がどうの、やりたいことがどうの、などと考える余裕などなかった。
首を動かすときに、襟元が気になった。
龍よりも、子どもたちのことよりも、いまは己の恰好である。
剣闘奴隷であった頃、ジリーは上半身はほとんど裸だったし、下半身も軽装だった。剣闘場では矢が飛んでこない、目の前の対戦相手以外はぶつかってこない、軽いほうが一対一では有利、雨の中行われない、などといった理由もあるのだろうが、剣闘場に見物にくる人間たちというのは、たいてい血が大好きなのだ。服を着込んでは激しい血吹雪は見えないし、鎧なんてもってのほかだ。それだけが理由で、だからジリーは奴隷だった。
いまも奴隷だった頃の習慣は抜けていない。人間の慣習に合わせるのは面倒だ。しかしそうしなくてはならない場合もある。これから会うアウロラという女性は、付き合いは短いわけではないが、そう深い接触をしてきた相手ではない。立場上難しい私生児であるアグナルの、実質的な保護者ということで、帝都騎士団のジリーからすると、どの程度丁寧に扱えばよいのかわかりにくい相手ではある。やりすぎると失礼になる可能性もある。いちおう今日は、窮屈ながらそこまでラフではない恰好にしてきたのだが。
アグナルの家は繁華街からほど遠いため、周囲に人気は少ない。平家だが敷地は広く、造りそのものはしっかりしていて、部屋のひとつひとつは広い。石造りの門も立派なうえ、一時的な門衛たちは家主の出された茶と菓子で寛いでいるくらいだった。
「ああ、ジリーさん……すみません」と門衛をしている騎士団員に何か話しかけていたらしいアウロラが目敏くジリーの姿を見とめて声をかけてきた。「こんなところまで、ご足労かけて………」
「隊長、いや、あのですね」と寛いでいた門衛の団員が言い訳がましい口調になる。「見張りはきちんとしていましたよ」
「いや、ま……いいんだがな」
ジリーは己の顎を撫でる。無精髭が残っているのを肌触りで感じる。ジリーは人狼で、彼らは人間だ。帝都では人種の差は存在しない、ということになってはいる。なってはいて、実際、剣闘奴隷から騎士に成り上がるジリーのような人間もいるにはいるし、待遇は学都で実験台にされたり、皇都で「改宗」にかこつけていいように使われるより遥かにマシなのだが、しかし、それは少数派だ。そうそう起こりうることではない。少数は弱いし、ジリーが剣闘奴隷であった過去は消えない。それでもなんとかやっていけるのは、「人種の差は存在しない」という建前のおかげだ。建前は存在しないものではない。ないよりマシなものだ。
アウロラに連れられて、家の中に入る。玄関が広いのは、アグナルの母がこの家を作ったときには身重だったためだろう。出入りしやすいように、ということだったに違いない。居間に通され、日頃アグナルたちが食事をとるために使っているのであろうテーブルに着かせられる。「お茶を淹れる」と言って台所で湯を沸かしている。
ジリーはぼうとしながら視線を持ち上げると、この家の中で物質的にいちばん価値のありそうなものが飛び込んでくる。ステンドグラスだ。さまざまな色をあしらったステンドグラスに描かれているのは龍であるが、その龍は地に伏して丸くなっている。
(なんで寝ているんだろう………)
デフォルメされてはいるが、構図はわかりやすい。武器が突き刺さっているわけではないし、血を流すような表現もない。
そんなことを考えていると、アウロラが急須とカップを載せた盆を持ってやってきた。
「すみません、お待たせして……わざわざありがとうございました」
「いや」とだけ言ってから、もう少し何か言うべきかもしれない、と思ったが、直接的なコメントが思いつかない。話題を変える。「そういえば、あの……人狼の女性は?」
「クマはいま、出かけています」
「う……そうですか」
「何か用がありました?」
「そういうわけでは」ジリーはまた無意識に己の顎を撫でてしまう。「ないのですが………」
いろいろな事態が重なっているため見逃していたが、本来ならば、あの人狼の女性は詳しく取り調べなければいけない存在ではある。なにせ、経歴不明、どのようにしてやってきたのかもわからない人物で、おまけに人狼である。しかも腕が立つ。その得体の知れなさとやって来たと予想される時期から、「龍に連れられて来たのでは」などと推測したくらいだったが。
「それは……そうですよね。すいませ——」
茶を注いでいたアウロラの手から、急須がつるりと落ちた。
つるりと取り落とした急須の取っ手を、ほとんど落とした直後に掴む。
「す、すいません………!」慌ててアウロラは謝罪をしてくる。「大丈夫ですか!? かかってないですか!?」
「ああ、いや、大丈夫です」
ジリーは急須をテーブルの上に置く。
「すいません……でも、すごいですね」と改めてカップに残りの茶を注ぎながら、アウロラが言う。「落ちそうになった取っ手を掴むなんて………」
「いや、それは単に手が震えていたので、落ちそうだなぁ、と思っていたので」
それは事実だ。咄嗟の判断でカップの取っ手を握れるほど、人の感覚というのは優れているものではない。たとえ剣闘奴隷であったジリーでも、だ。だが事の起こりが予想できていれば、いくぶん反応速度は高まる。
「何かあったんですか?」
「ああ、いや……」アウロラは照れたように笑い、拳を握ったり開いたりした。「へへ、あの、ちょっと久し振りに運動したもので………」
アウロラという女性は小柄なうえに年齢よりも幼さを感じる容姿で、しかもあまり活動的には見えない。エプロン付きの恰好も手伝い、家事をしている姿しか思い浮かばない人物である。唯一それを打ち消しているのが左目を覆い隠す黒い眼帯で、かつて彼女の身に起きた出来事を想像させる。
「あの、実は今日お話したいと思ったこと、あの子のことと無関係ではないんです」
「はぁ」
あの子、という表現が幼く見えるアウロラから、体格の良いクマに対して向けられるのは面白いな、などと思いながら、ジリーは頷く。
「えーと、その、ものすごく、大事な話なんですが、信じられないような話でもあって、誰に話せば良いのかもわからないような話で、だから、そのジリーさんに話を聞いてもらおうと思ったんですが……」
「はぁ」
そこまで期待されると恐縮ではあるが、たしかにアグナルやアウロラには頼るべき相手というのはあまりいないのだろう。王は金銭的な援助はしてくれるが、実際の接触はそれほどない。王の私生児とその保護者ということで、難しい立場だ。実際、ジリーはふたりにとって、かなり都合の良い立場なのだろう。
「あの」とアウロラは眉間に皺を寄せて「ちょっと……待ってもらっていいですか?」と言った。「その、何を言うのか考えていたつもりなんですけど、ちょっと、改めて言うとなると、整理したくて………」
「どうぞ。待ちますよ」
ジリーはだらりと椅子に腰掛けたまま、茶を啜る。アウロラの淹れた茶は、雑な味覚なジリーからしても美味い。まったくわからない分野ではあるが、たぶん淹れ方だとかがあるのだろう。
アウロラは、いわゆる、家庭的な女性だろう。このひとは結婚しないのだろうか、などという下世話なことまで考えてしまう。細かな年齢は忘れたが、ジリーよりも年上だったはずだ。結婚しないのは、アグナルがいるからだろうか。
いつのまにか失礼なことを考えているような気がしてしまい、別な思考対象を探す。先ほども目に入った、居間から見やすい位置にあるステンドグラスに視線を向ける。
「あの龍はなんで寝ているんですかね」
と、つい口にしてしまった。言葉にする内容を悩んでいたアウロラが「え?」と首を傾げる。
「矢が刺さっているわけではないし、傷ついている様子もないし」
「あれは……寝ているんですね」と当たり前のようにアウロラは答えた。「奥さまが王からプレゼントされたものです」
「でも、絵柄的には昼じゃないですか?」
とジリーはさらに訊いた。ステンドグラスには太陽も描かれている。色合い的には月ではないだろう。
「昼寝しているんじゃないですか?」
「龍が、昼寝ですか」
「そういう絵柄がいい、って言ったそうです。絵柄は奥さまのリクエストで」
なるほど、とジリーは半ばまでは納得した。王が考えそうにもない絵柄だと思ったら、そういうことか。
昼寝する龍。帝都には似合わない構図だ。〈半島〉は龍信仰があるが、皇都では崇められるもの、学都では跡を辿るもの、帝都ではその勇暴さな振る舞いを真似るものだ。昼寝しているのでは、高貴ではないし、勤勉ではないし、苛烈でもない。
しかし自分はこの龍のようになれそうにはない。
「わたし、昔、剣闘士だったんですよ……って、聞いたことあります?」
ぽつり、アウロラが口を開いた。
ジリーは首を振った、が、彼女の隻眼から、いくらか予想がついていたことではあった。それに、彼女は剣闘奴隷のことを「剣闘奴隷」とは言わない。「剣闘士」と言う。ジリーもそうだが、多くの剣闘士はそうだ。己がそうだという自覚はあっても、奴隷と言うことを嫌う。
「子どもの頃に奴隷として連れてこられて、だから、親とかきょうだいの記憶もほとんどなくて……」
おれもだ、とはジリーは言わないで頷いた。
「だから、親族のこととかよくわからないんですよ。親の愛情とか、きょうだい愛とか、そういうの、ぜんぜんわからなくって……でも、アグナルと暮らすようになって、その、なんとなく、そういう感情がわかるようになってきて、それで………」
それで、でアウロラの言葉は一度止まった。
「一緒に暮らしてきた家族を殺すだなんていうこと、ありえるんでしょうか?」
「ミアさまですか」
とジリーは回り込んで尋ねたら。彼女が関連するような人物で、家族を殺害するという言葉から導き出されるのは、アグナルの腹違いの姉であり、次期帝王であるミア以外にほかない。
「一年前に、ミアさまの弟が亡くなられたとき……ミアさまが殺したのでは、という噂が流れたの、知っていますか?」
ジリーは頷く。
一年前、王の息子は不審死した。寝ている間に死んだのだ。もともと身体が丈夫な性質ではなかったが、急死するほどではなかった。
帝都での帝位継承は世襲制だが、継承権が高いのは歳上かつ男児だ。歳上ではあっても、女であるミアには帝位はなかなか回ってこない。が、ミアの弟が亡くなったことで、彼女が帝位継承権第一位となった。そのことから、ミアが暗殺したのではないか、ということが囁かれるようになった。
こうしたことは、以前にもあった。ミアには兄もいた。彼は乱心して死んだが、その背景には何者かに毒物を飲まされて錯乱したのではないかという噂もあった。それもミアによるものなのでは、と。
「噂は噂なのかもしれません。ただ、わたしがなんとなくミアさまが苦手なだけなせいかも……」
幼さの残る容姿のアウロラに対し、ミアは背が高く豊かな
「すみません、女の陰口だとは思わないでください。わたしも、あまり、信じたくはないのですが………」
本来なら、あり得ないような話だ。帝位のために、血の繋がった家族を殺すだなんて。
だがそれがありうるということを、ジリーは知っている。
ふぅ、とアウロラは溜め息を吐いて言った。「すみません、話したいこと、纏まりました」
「ああ、いや、いま話したことが話したかったことなのかと……」
「無関係ではないのですが、いや、すみません。ちょっと話しながら考えてました」ええと、と手を擦り合わせ、アウロラは指を3本立てる。「そのですね、話します。最初に概要からまとめさせてもらうと、話したいことは大きく分けて3つです」
ジリーは頷いて先を促すと、アウロラは早口になり過ぎないためであろう、しっかりと言葉を紡いだ。
「ひとつめ、クマはラーセン王に会ったそうです。
ふたつめ、ラーセン王は遠征中に亡くなられました。毒殺されたそうです。
みっつめ、クマはラーセン王からアグナルを守るように
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