第1.10話 隻腕の人狼クマ、私生児の乳母に稽古をつけること

「ほんとにいいのか?」

「や、待って……待って、ちゃんと、加減してね?」

「たぶんな」

「たぶんって——」

 アウロラが言い切る前に、クマは一歩踏み込んだ。二歩進めば、腕を振るえば切先で首を落とせる距離。軸足で回転するようにして、剣を薙ぐ。

 その剣を受けるようにして、アウロラも両手で握った木剣を動かした。

 反応は悪くはない、とクマは思った。が、反応だけだ。追いついていない。身体が。剣はアウロラの手から弾き飛ばされ、地面に突き刺さる。

 勢いのまま、もう一回転。二度目の薙ぎ払いは無防備になったアウロラの首筋で寸止めされた。


「意外とうまくいったな」

「どこが」とアウロラは不満そうに剣を拾う。「ぜんぜん、駄目。あなたも本気出しすぎ」

「本気は出してない。軽くやったし、片腕なんだから力もろくに入らん。うまくいった、というのは、寸止めのこと……たぶん当たるだろうと思ってたから、助かった」

「怖いこと言わないでくれる……もう一回、いい?」

「いいけど」

  クマは距離を取ってから、剣を握り直す。今度はもう少し加減をしながら切りかかった。


 何合か打ち合っているうちに、アウロラという女の力量が見えてきた。エプロンドレスに結い上げた髪といういかにもな家事役という恰好とは対照的な、仰々しい眼帯をしているというアンバランスさが目立つ女であったが、彼女はは元剣闘奴隷だったらしい。どのような経緯があってアグナルの親代わりになったのかまでは聞かなかったが、しかし、剣闘奴隷だった、というのは嘘ではなさそうだ。家事ばかりしていた女とは思えない程度の身のこなしはあるし、何より攻撃に対する恐怖が薄い。本能的な避け方をせず、受けるべき攻撃、避けるべき攻撃を見極めているように見える。

「いたっ」

 問題は、しかし彼女がなそうとしている動きに、身体も目もついていっていないということだ。アウロラはクマの剣を避けきれず、額に当たった。幸い、速さはついていなかったが。「大丈夫か」力も入れていなかったと思うのだが。

「いや、大丈夫、大丈夫………」でも、とアウロラは肩で息をして言った。「ちょっと休憩、してもいい?」

 クマが首肯するまえに、アウロラは庭の切り株の上に腰を下ろしてしまった。


 クマがこの家を訪れてから3日目、襲撃のあった翌日。帝都騎士団の第2隊だとかいう連中がやってきての現場の検分が終わり、クマの事情を話終わったあと、アウロラが頼みごとをしてきた。

「ちょっと、稽古をつけてくれない?」

 クマは承諾し、アグナルが自主練用に家に置いている木剣を手に、洗濯物を干すためだけにしか使われていない庭で剣戟の真似事をすることになった。

「で、どう?」

 とまだ息が荒いまま、冷たい水で喉を潤しながらアウロラが問いかけてきた。

「弱い」

「それは……」アウロラは頰を膨らませ、しかし諦めたように首を振った。「わかってる。もっと何か、参考になるようなこと言って」

「力はないし、スピードもない。見切りはできているが、身体がついていっていない。が、致命的なのは……隻眼だな」

「死角ね?」

「いや、それよりはむしろ、距離感が掴めていないような気がしたが……どうだ?」

「日常生活に支障はなかったから、大丈夫だと思っていたんだけど……」アウロラは肩を竦める。「そうかもね」


 駄目かぁ、とアウロラは笑った。自嘲的に見えた。

「前にも言ったが、おまえが戦う必要はないと思うが……」クマは問いかける。「これから、どうするつもりなんだ?」

「どうって?」

「まさかずっとこうして訓練しているつもりはないだろう? それでどうにかなる問題ではあるまい?」

「うん、それは、そう」


 龍王ラーセンの死、という情報を、クマはアウロラにもたらした。

 アウロラはクマが吐き出した情報を知っている。クマはすべてのことを吐き出した。その中にはもちろん、彼女を帝都まで咥えてきた龍がどのようにして——どこから、まではクマは知らない——現れたのか、ということも、だ。

 その情景は、クマにとっては自分の腕がドラゴンに喰われることの次に衝撃的な光景ではあったが、アウロラがむしろ着目していたのは、龍王ラーセンがどのようにして死んだか、と、ラーセンがその前に言っていたという言葉に関してだった。

「王は、私生児の息子を守れ、と言っていたのだよね? 息子を守れというのは、どうして? 本来、王座を受け継ぐのはミアさまのはずだけど……」

「知らん。が、玉座に着くのはそいつだと、あいつは言っていた」

 とクマは正直に話した。龍王ラーセンと会話をした時間は長くはない。彼の真意を読み取ることまではできなかった。ただでさえ、心の内が読みにくい男なのだ。


「龍王ラーセンは毒では死なない」

 ぽつりとアウロラは呟いた。

「いや、死んだぞ」

 なにせ目の前で血を吐くラーセンを見たのだ。

「うん、でも、そういう話があるの。べつに、ほんとに死なないってわけじゃない。ただ、暗殺者に毒を仕込まれてもなんとか助かったって話。あの巨体だしね、多少の毒じゃ足りなかったんじゃないかな……でも、影響は大きかった」

「不死身の伝説でもできたのか?」

「そっちじゃないよ。王自身のこと。王は毒で殺されるのを恐れるようになった」

「毒で死なないのに?」

 とクマは笑ってやったが、アウロラは真剣な表情だった。

「彼は自分が死ななかったのはたまたまだった、とわかっていた。どんなに強くても、毒で簡単に死ぬ。怯えは見せなかったと思うけど、毒殺への対策へ凝るようになった」

「……たとえば?」

「食事には毒味を通すし、酒は信用できる筋からのものしか飲まない。その程度といえば、その程度だよ。でも、彼は対策をしてた。もちろん、行軍中も」アウロラの視線が——童顔で幼い印象があるにもかかわらず、いまだけは奇妙に鋭く見える視線が、クマを射とめた。「なぜ死んだの?」

「お、おれじゃないぞ」

「あなたが犯人だなんて言ってない」とアウロラは脅しが効いて満足なのか、鼻を鳴らす。「ただ、疑問がある。じゃあ、誰に毒殺されたのかって。いちばんに考えられるのは……酒」

「酒は信用できるものしか飲まないんじゃなかったのか?」

「そう。でも、信用できる相手が信用できなかったのかもしれない」

「誰のことを言っている?」

 と問いかけたが、アウロラの言いたがっていることはわかっていた。王が死んで、次に玉ざに着く女。アグナルの姉、ミア。


「ラーセンの、アグナルを守れ、という言葉は、ミアに気をつけろ、という意味だったということか?」

 とクマは会ったこともない女について尋ねた。

「そういうわけじゃないと思う……それなら、もっと警戒したでしょうし。ただ」はぁ、とアウロラは溜め息を吐いた。「あの人は、ミアさまではなくアグナルのほうが玉座に座るのに相応しいと思ってしまったみたい」

「嬉しくないか」

「当たり前。王座に関するゴタゴタなんかに巻き込まれたくない」

 ふむ、とクマは頷いて、近くにあった切り株を蹴った。

「あんたの推理じゃあ、ミアって女が自分が玉座に座るために、父親である王を殺したってことなんだな?」

「王だけじゃ、ないかもだけれど………」

 アウロラの視線が伏せられる。

「というのは、なんだ?」

「ミアさまの、弟がいたけど、彼は一年前に死んでいる。もっと昔には、ミアさまの兄も。どっちも原因は不明で、病気かもだけれども、毒殺かもって言われている」

「おいおいおい」クマは息を吐く。「きょうだいも殺すような、そんなやばい奴だってのか、ミアって女は?」

「正直、そうは見えない……と思う。あなたは会ったことがないからわからないだろうけれど、普通に綺麗な女性だよ。ただ、なんとなく得体が知れないというか、人を見下しているようなところがあるというか………」


「仮に、だ」とクマは言う。「ミアって女が自分が玉座に座るために肉親を毒殺したからといって、それで誰にも疑われないようなもんなのか? いかにも怪しいだろうに」

「だから、困ってるの」だいぶん呼吸が回復したのか、木剣を手の中で玩びながらアウロラは言う。「もともと帝都じゃあ、女児は男児より王位の優先度が低い。いまは王族がミアさまだけになったから、ほとんど玉座に座るのは当然みたいな話になっているけれど、それに反対する向きもある……貴族連中の中には」とアウロラは眉間に皺を寄せた。「アグナルに玉座を取れ、だなんて言ってきた連中もいる。簒奪者にさせようとしているんだ」

「守りを固めるために、そいつらと連絡を取るつもりか?」

「逆でしょ。そっちに繋がりがあると思われるほうがまずい。正直ね、ミアさまが王となるのは防ぎようがない。それに対抗しようとしても無駄でしょ? 怒りを買わないほうが良い。幸いミアさまはアグナルのことを気に入っている……と、思う。たぶん。敵にならないと思わせていれば、気概は加えられないはず」


「じゃあ、何もしないつもりか?」

 という問いかけに、アウロラは答えない。瞼を閉じ、ゆっくり、大きく溜め息を吐いた。

「……正直言って、わたしにはどう判断すればいいのか、わからない。もっと政治のことにも気をかけていれば良かった。アグナルが無事に成長するためには、玉座からは遠ざけておくのがいいと思っていたから……でもそれは、間違いだった」

 クマはアウロラという女を見下ろした。小柄で童顔だが、自分より年上の、もと剣闘奴隷だったという、隻眼に眼帯の、栗色の髪を結った、女。彼女はアグナルがまだ生まれる前から、彼の母親に拾われたんだったか。どれほどの想いで、彼と接してきたのだろう。

「とにかく、アグナルのことは何があっても守る。鍛えてどうなるって話じゃないから、気休めになるけど……まずは、ジリーさんと渡りを付けたい。午後には約束している」

「あの、人狼の男か?」と朝方、あとから検分に来ていた痩身の男のことを思い出す。

「うん。あのひとは中立的な立ち場だし、立場も力もある。何より、アグナルのことを好いていてくれるから、いざというときには守ってくれるはず。まずは……まずはそこから」

 だから、たぶん、きっと、大丈夫、とアウロラは自分に言い聞かせるように言っていた。

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