第1.9話 私生児の乳母アウロラ、隻腕の人狼の頭を撫でること
アグナル邸の地下室は食料保存のための部屋で、台所から入ることができる。採光が入り口の縦の扉からしかできないので、少々暗い。しかし真昼であれば、ランプの灯りを点さずとも、なんとか目的のものを探し当てることができる。
アウロラが見つけ出したのは、野菜が貯蔵されている木箱の奥に置かれた、横長の木箱だった。鍵が掛かっているのだが、蝶番部分が古すぎて、鍵が用なさなくなっている。木枠部分が簡単に剥がれてしまうのだ。鍵を掛けた理由はアグナルがもっと幼かったときに、勝手に持ち出すと危ないから、といった理由だった気がする。いや、これを仕舞ったのはもっと前で、長いこと手を付けていなかったので、なんとなく気分的に鍵でもかけたかっただけかもしれない。
木箱を開くと、ぷんと黴臭さが漂ってきた。中に入っていたものを手に取る。ずっしり重い。こんなに重かっただろうか。鞘から抜くと、銀色の細い刀身は鼠色の錆が覆っていた。結露のせいか。いや、そもそもこの箱に入れる前、特に手入れもしなかったような気がする。赤黒い血の跡すら付いている。
(10年放り出しっぱなしだったもんなぁ………)
アウロラがこの家にやってきたのは、アグナルの母が彼を身籠っていた頃だ。剣はそのときから握っていない。
だが問題は剣より、アウロラ自身だ。
(重………)
最初に剣を手に取ったときから感じたことだが、細い剣なのにあまりにも重かった。試しにと振ろうとしてみるが、そもそも片手で持っているだけでも辛い。これでは、これでは——。
「なんだ、その剣?」
ぎゃあ、と叫び声が飛び出した。ほとんど飛び退るように振り返ると、目を覚ましたクマが剣を覗き込んでいた。
(人狼のひとって、背後から近寄るのが好きなの………?)
ジリーにも似たようなことをされた。後ろから忍び寄るのが本能なのかもしれない。
「あなたね、あなたね……刃物持ってるときに、音を立てないで後ろから急に近づかないで」
「ゆっくり近寄ったぞ」と悪びれもせずにクマは目を瞬く。「で、なんだ、それ。汚ねぇ剣だな」
「わたしが昔使ってた、剣」
「あ、そう」と特に疑問に思う様子も見せずに、クマは頷いた。「で、なんだ、それをどうするんだ」
「昨日の事件があってから心配になって……あの子のこと、守れるかな、と思って……」
それは正直な気持ちだ。
ジリーは、当分の間はアグナル邸に常時警備2人を付けてくれると言った。ありがたいことだ。だが万一のことがあれば——それはつまり、騎士団の目を掻い潜って忍び込んでくる者がいたり、あるいは街の治安を司る騎士団の中に犯人がいたとすれば、という話だが——騎士団の警備など意味をなさない。誰が味方なのかわからない状態では、安心できる状況というものはない。
唯一の例外が、アウロラだ。
アウロラはかつて、いまは亡きアグナルの母に守られた。彼女はもちろん剣闘奴隷などではなく、柔らかな女性で、弱くて、力がなくて、非力で、他人に頼ってきていて、図々しくて、そういう、女性だった。そんな女性にアウロラは守られた。だから今度はアウロラの番だと思った。
「あんたじゃ無理だろう」
「そういう言い方はない」
「無理だよ。見ればわかる。あんたは戦えない。おれが守ってやる」
真っ直ぐな言葉を聞いて、はぁあ、とアウロラは肩を下げて大きく溜め息を吐いてやった。
「なんだよ」
「その台詞、女の子じゃなくて、かっこいい男の人に言われたかったなぁ」
とりあえず上がろう、とアウロラは促した。
ふたりで地下室から梯子を登る。剣はひとまず鞘に入れ、キッチンの端に置いておくことにする。研げば、いざというとき以外でも、包丁として使えるかもしれない、などと考えながら茶を淹れる。
「さっきの男は?」
と特に手伝おうともせずに、椅子に座ってクマが訊いてきた。ジリーのことだろう。彼が来ている間はずっと瞼を閉じていたので眠っていたと思っていたのだが、どうやら狸寝入りをしていたらしい。狼で熊のくせに。
「あなた、起きてたの?」
「あんたが髪を引っ張るからだ……」と言いながら髪をかき、ようやく気がついたように、「なんだ、これ」と眉根を顰めた。クマの髪は、彼女が寝ている間にアウロラの手によって編み込みがされている。
「可愛いよ」
「邪魔……あんた、いつも朝、こういうの、自分でやってるの?」
そのとおりだが、唇をへの字にして言われるようなことをやっているつもりはない。
「あんた、あの男とは恋人かなんかなのか」
「そういうわけじゃない」とアウロラは肩を竦めてみせた——ちょっと大袈裟すぎだったかもしれない。「ジリーさんは、帝都の騎士団の第2隊の隊長。帝都の治安を守っているひとだよ」
「人狼だったな」
「ああ、うん、そうね……」
アウロラは視線を逸らす。ジリーとクマは同じ種族であり、たぶん、出自も同じだ。つまり、剣闘奴隷だ。細かな出身は違うかもしれないが、ほとんどそうだろう、と考えている。いや、考えていた。
が、ジリーは違うことを言っていた。剣闘奴隷ではないかもしれない、と。もしかすると、彼女は——。
「ジリーさんは、あなたがドラゴンから落ちてきたのかも、って言ってた」
それは冗談のつもりだった。少なくともアウロラは、ジリーが冗談のつもりで言っているのだと思った。だから笑って言ってみた。
クマは笑っていなかった。彼女は眉を顰め、逡巡がありありと見えた。
「ちょっと話せるか」
珍しい沈黙のあとで、彼女はそう言った。
「いま、話してる」
「そういうのはやめろ」
「ちゃんと向き合って話ているし……警備のひとはいるけれど、外だから、大丈夫だと思う。聞かれたくない話でも。だから、大丈夫。聞かせて」
「……ちょっと話を整理したいから、先に茶ぁ淹れてくれ。飲みながら話す」
とクマはあくまで渋った。ここに来てアウロラは、ジリーの推測した「竜からの落下」というのが事実なのだと理解した。
「まず、だ」と茶を啜り、しかし熱すぎたのか赤くなった舌を出す。人間の舌よりもざらついているように見える。「竜から落ちたというのは——おれのこと、頭がおかしいやつだとか思うなよ——事実だ。森に落とされてな、なんとか骨は折らずに済んだが、だいぶん消耗した。あと右腕も、これ、竜に喰われた」
「はぁ?」
「まじだ。噛み付かれて空まで持ち上げられた。上まで来たところで火を吹いて焼かれた。それで千切れたが、見ての通り血は止まった……信用してないな?」
「そういうわけでもない……と思う」
「と思う、って、なんだ」
「うーん………」アウロラは言葉を選びながら答える。「もともと、あなたのことは脱走した剣闘奴隷だと思っていたけれど、心のどこかではそうではないとも思っていた。だから、まぁ、竜から落ちてきて、腕も竜に噛みちぎられたって言われて、なんというか、すぐには信じられないけど納得できる……かな」
納得できる、というアウロラの言葉に対し、むしろ納得できなさそうだったのはクマのほうに見えた。
「べつに信じられなくても仕方がない」
「信じられないとは言わないよ」ただ、とアウロラは言った。「なんでドラゴンに喰われるなんていう事態になったわけ? それに、あなた、龍王の私生児を捜している、って言ったでしょ? それは、どうして?」
クマは腕を組み、目を瞑った。次に開いたときには、どこか疑うような目つきがあった。「おれの事情を全部話すまえに訊きたいんだが、おまえらはなんだ? ただの貴族の私生児ってわけじゃあないだろう。あの人狼の男の態度も、アグナルについて話すときは相応に見えたぞ」
「う」
ううん、とアウロラは唸ってしまった。相手のことを追求しようとしたら、逆に追求されてしまった。
(いや、でも、話さなくちゃならない)
昨夜の事件はアグナルの立場に無関係ではない。アグナルとアウロラにとって、誰が敵で誰が味方なのかわからない中、たぶんクマが必要だ。そしてクマは、アウロラたちにとって、敵ではない。
「あの子が……」アウロラは唇を濡らして、言った。「龍王ラーセンの私生児。あなたが探している子」
「おれが探しているのは、男児のほうだ。女児がいるのかまでは知らんが——」
「アグナルは男の子だけど………」
「あぁ?」
まじか、とクマは臭い匂いを嗅いだ猫のような顔になった。
「だって……名前でわかるでしょ?」
「おれは帝都の名前はあんまり知らん。男の子だ?」
「見た目でも……」
「あんな金髪ふわふわな子どもは、女の子にしか見えん。髪もわりと長いし」
「確かに。可愛いよね」
「まぁ……いや、それはいい」クマは軽く舌打ちする。「くそ、なんだ? あの子が龍王の子だ? ぜんぜん似てねぇじゃねぇか。金髪しか似てるところがない。あの子がでかくなったらあのむさ苦しい男になるのか?」
「できればそうはならないで欲しいけど……」
共感を得たがために、話が脱線してしまった。「それで、どうしてあなたはアグナルのことを捜していたの?」と話を戻す。
クマは瞼を閉じた。無言で。
すぐにまた目を開いて話始めるものだと思っていたのだが、彼女は黙ったままだった。隻腕の断面をまるで抱くかのように、腕を組む。慈しむように。
「クマ?」
「おれには……」ようやく口を開く。目を瞑ったまま。「おれには娘がいるんだが」
「娘?」
「皇都にいる。おれは皇都の暗殺者だ。子どものときに東方から連れてこられた——これは前に言ったか。皇都に売られて、暗殺者として育てられた。娘はその間にできた。恋人がいたとか、そういうのじゃない。ただ、孕まされて、産まされた。父親も知らん。ま、人狼じゃないと思う。人間だな。娘を見るに。それだけだ。ほとんど会ってすりゃいないし、こっちから一方的に見たことがあるくらいで、あっちはおれの顔すら知らんだろう。それくらいの間柄だ。それで………」
クマはまた黙る。アウロラは、今度は先を促さなかった。ただ、待った。
「皇都じゃ、人狼には人権がない。帝都も帝都だが、皇都は根本的に違う。這い上がりようがない。道具だ。人狼は、前世で犯した罪が獣として出てきただとか、そういう話になっているからな。が、半人狼はどうにかできないでもない。皇都にきちんと仕えれば、原罪が浄化されるということになっている。それで………」
クマは残った左の手の指先で、右腕の残っている部分を叩く。
「仕えるというのは、ただ、あまり良い話ではない。あれは半人狼といってもいくらか人狼の見た目が残っているのだが、それを切除したりすることになる。そうすると、いろいろと、まぁ、困る、ことになると思う。そうしないほうが良いと、おれは思う。龍王ラーセンの暗殺に成功すれば、おれもあいつも解放されるということになっていた。もし失敗したとしても、おれが死んで情報を何も残さなければ、あいつは助かる——皇都のやつらが約束を守るかは知らんが。おれは、皇都からの契約を受けた。もともと、道具として育てられた身分だから、逆らうことなんてできなかったがな。まぁ、そう、とにかく、そういう話になっていた………」
また沈黙。だが、今度の沈黙は短かかった。
「一週間前、ラーセンを襲った。だがおれには殺せなかった。ラーセンは化け物で、傷一つつけられなかった。だがあの男は、おれのことを殺さなかった。殺さず、おれの話を聞いて、あいつは自分の代わりに自分の息子のことを守れと言った。私生児の息子を、だ。暗殺者のおれなら、逆に守る方法もよくわかっているだろう、と。代わりにあいつは、皇都を征服するときにおれの娘を助けてやる、と言った……べつに、あの龍王がよくできた人間だとも思わない。あの馬鹿は戦争ばかりの糞野郎で、女への態度は無理矢理で、自分勝手で………ただ、皇都はごめんだ。皇都に置いておくより、あいつにはマシだと思った。それで………」
クマは黙った。もうこの沈黙は、何を言おうと迷っている沈黙ではないと感じた。言葉を吐いて、吐き出して、それで、何も言いたくなくなった沈黙だった。
まだ聞き足りないことはあったが、まずは、と行儀悪くテーブルに足をかけて攀じ登り、アウロラは手を伸ばした。
「おい、なんだ」
とクマは頭の上のアウロラの手を振り払おうとする。
「撫でてるの」
「やめろ」
「耳のあたり触られるのは厭?」
「厭だけど、そういう意味じゃない……テーブルに登ると、行儀が悪いだとか言うのはおまえだろ」
「あなたは娘さんを助けたいのね」
「そうじゃない」反発するようにクマは答えた。「おれは、あいつと会話もしたことがない。愛情なんてない。ただ、ただ………」
あいつを助けたいと思っただけなんだ、とクマは呟いた。
つまり、そういうことじゃないか、などとは言わずにアウロラは彼女の黒い艶やかな髪を撫でる。ゆっくりと、そしてゆっくりと。
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